関行男記念館

ホームページ作成の動機

多くの軍人さん方兵隊さん方の死が今も墓標で残るということ。

ご戦歿された方々のお墓に方々行くのですが、いつもいつも思うのは、戦争で亡くなられた軍人さん方兵隊さん方の多さです。

戦後一定の期間を経てから建立されたり、建て替えで子孫と合祀されたりすると、一般的な四角柱の墓標になるので一見見分けがつかないのですが、それでも多くの墓地で四角柱で先がとがった墓標を見かけられたことがあるのではないでしょうか。
これは、過去に建てられた、軍人さん方兵隊さん方の墓標であることが多いです。

失礼がないように、そっと側面を見て頂ければ、いついつどこどこでどういう戦いに参加され、どのような経過を経ていついつ戦死を遂げられた、と言うことが刻まれていることが多いです。
どれだけご苦労を積まれたか、手に取るようにぎっしりと書かれている方もいらっしゃる一方、いついつどこどこでご戦歿(せんぼつ)された、とだけ刻まれている方も多いです。経験を充分に積まれる前に過酷な戦場へ送られたり、無謀な作戦に放り込まれたりしたり、或いは生きた人間に詳細が伝わってこなければそっけない文章にならざるを得ないでしょう。
しかし、どの軍人さん方兵隊さん方にもはっきり言えるのは、壮絶な死を迎えられているということ、苦しい死を迎えられたということです。
刻まれているご戦歿地が日本からはるかはるか遠くの孤島だったり、調べてみないと場所もよく分からないようなところの方も少なくありません。

出撃前の敷島隊(絵画)

わたしは死んでも霊としていらっしゃると考えていて、彼らが苦しんでいらっしゃらないかどうかと、気になって仕方がありませんでした。

「どうして自分たちはこんなに苦しく死ななければならなかったのか」
「どうして現代人は自分たちに関心を寄せてくれないのか」

もし、そういう思いが募ってご成仏なされないと考えたら、とずっとずっと考えてきました。

こういう考えを巡らすようになったのは映画『永遠の0』を見てからでした。方々戦争遺跡を見て回り、顕彰施設や靖国神社・護国神社を回っていく中、一番最後にたどり着いたのが関行男海軍中佐でした。

その結果として、思い至ったことを伝えてみたい。そう思ってこのサイトを開設しました。

どの軍人さん方兵隊さん方も戦争で死ぬるということは、ご本人にもご母堂様ご家族様にとっても辛いことであるけれども、味方である軍隊が味方の軍人を護らず、「作戦だ」と密室で圧迫面接を強要し、挙げ句「自分で志願した」とされて、殺された軍人さん方兵隊さん方はより過酷であった、と思いを致さずにはおられません。

自分は関行男海軍中佐から、いろいろなところへ誘われます。方々へ行って、ご慰霊を続けています。ただただ線香とお酒と、自分で淹れたコーヒーを持参して。

ただただ魂のご安寧を申し上げることしかできないけれど、苦しく亡くなった、かつて人間でいらっしゃったあまたの御霊に、ほんの少しでも喜んでいただけたらなあと思うのです。

特別攻撃隊の隊員さん方のことを知るために、鹿屋や知覧、各地の護国神社や戦争遺跡を見て回っていました。

関行男海軍中佐が目にとまったのは、実は関行男海軍中佐のご母堂様のご苦労からです。自分の母は、戦時中に生まれています。貧乏な家庭で、母親が苦労をして育てて頂いたので、人ごとではありませんでした。

そして、関行男海軍中佐とご母堂様の人生を考えてきて、関行男海軍中佐がいらっしゃらなかったならば、そして数多の軍人さん方兵隊さん方がいらっしゃらなかったならば、いいかえれば、裕仁が君臨した、あるいは皇統が君臨した地獄の時代を引き受けてくださらなかったら、自分は生まれてこられなかったと確信しています。

どうか、そのような視点で、軍人さん方兵隊さん方の墓標をみてあげてほしい、そのように思うのは、彼らがなしたことに寄り添っていくということであるからです。

彼らの生命の輝きが、今の日本を照らし続けているのです。

そして、苦しく亡くなられた方々は、軍人さん方兵隊さん方が突出はしているけれども、それだけではありません。

原爆の被害に遭われた方々、満蒙開拓、残留孤児、遭難事故、薬害・公害病、強制労働で亡くなられた朝鮮人…、
さまざまな霊となられた方々の慰霊碑に足を運ぶようになりました。
それらの方々のことも含めて少しずつ書き遺そうと思っています。

わたしは学芸員の資格を有しておりますが、零戦の性能だとか、軍の戦場での展開などは全く興味がありません。
このため、学術的なこと、研究家のような詳しいことの言及はできないことと、意見や感想にあたる部分はすべてわたしの私見であることは、はじめにお断りしておきたいと思います。
ただ、ただただ、苦しく亡くなった方々の、人間の、気持ちに寄り添いたい、そう思うだけなのです。

自分にとって、このような視野を開かせてくださったのが、関行男海軍中佐です。 ですから、この関行男記念館には、関行男海軍中佐とは一見関係のないようなことも書き留めていきます。

また、関行男海軍中佐ご本人のご戦歴や逸話は方々で散々語り尽くされていて、それには明らかに誤っているものもあるけれども、様々なサイトと重複しても退屈と思いますから(自分も退屈ですので)、後回しにしたいと思っています。

なにか読む方の心に触れるものがあれば、そして、日本人が、外国人がとザルのようなくくりで差別したり偏見を持ったりすることなく、
ひとりひとり人間として相手を見て、現世という過酷な世界を生きていく、そのひとりひとりの生命をお互いに大切に思い、
そして、過去の苦しい時代を引き受けてくださった、あまたの霊となられた方々に、感謝と思いをよせていただければ、うれしく思います。

この記念館は、建物や実物資料の展示がない、オンラインミュージアムです。
関行男海軍中佐が好きで好きでたまらない学芸員が開設しております。
24時間開館しておりますので、どうぞごゆっくりご覧になってください。
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。

奇しくも戦後80年となる海軍記念日の節目に

関行男記念館 学芸員

空の画像

表記について

関行男海軍中佐の姓「関」の表記について

関行男海軍中佐の姓「関」は「關」が正当です。
しかしながら当館では読みやすさを考慮して「関」で表記することといたしました。

「関」は従来「關」を手書きで簡略に書くために、生活の中で使われてきた字形です。
ところが「漢字の煩雑さが経済発展の足を引っ張る」とされて、特に筆画の多い文字を中心に、略字を公式に認める(=社会で一般的に使う文字として格上げする)動きがでます。
これが1946年の「当用漢字」の告示につながり、現在の常用漢字に引き継がれていきます。

「特攻」の表記について

「特攻」という単語を脳の足りない馬鹿が多用し、事の大小を問わず「後先考えず突撃すること」の代名詞にされてしまいました。
特別攻撃がどれだけ大変だったかなんて伝わらず、どれほど敬意がないことかと思います。

このため、当館ではできる限り「特別攻撃」と表記しています。あわせて、「特別攻撃隊員」という言い方も、兵器の名称のように聞こえ人間らしさを感じないため、なるべく「特別攻撃隊の隊員さん方」と表記しています。
ただし例外として、名詞化された表記(「航空特攻」など)はそのまま表記しています。

「支那」「朝鮮」の表記について

この国が中国大陸や朝鮮半島に攻め込んだばかりに、大陸での二大党派の争いが複雑化して「中華民国」と「中華人民共和国」となり、半島では太平洋戦争後にイデオロギーを背後にした代理戦争から「北朝鮮民主主義人民共和国」と「大韓民国」とそれぞれ分断されました。
今もお互いがお互いを(公式には)正統と認めず、今に至るまで複雑な関係のままとなっていますし、それは個人レベルで国名をどう表記するか考えてみても悩ましく、あえて包含した表現が必要な場合に支那、朝鮮をサイト中に使うことがありますが、差別的意図はありません。ご了承ください。