関行男記念館

海の底に沈んだ魂-長生炭鉱という地獄と、この国の朝鮮人の受難

「長生炭鉱」という地獄

山口県宇部市の「長生炭鉱」。瀬戸内の海の底にあった炭鉱です。海のすぐそばをJR宇部線が走っているのですが、そこから沖の方に坑道が延びていました。

 ■長生炭鉱があったところとはやや離れた宅地に炭鉱の悲劇を伝え追悼する場が設けられています。(2024年12月8日撮影)


海の底の坑道と聞くだけでその惨事がどういうものか見当がつくのですが、海底を掘り進み、頭の上には海水が満ち満ちている。ただでさえ鉱山労働は危険であるのに、それがどれほど恐ろしいか、想像に難くありません。
現在「追悼ひろば」が近傍にその悲劇を伝えていますが、その説明文をご覧ください。

一九四二年二月三日早朝、ここ西岐波の浜辺にあった長生炭鉱で、「水非常」(水没事故)が起き、一八三名もの人々が生きながら、坑道に封じ込められてしまいました。
アジア・太平洋戦争に突入した日本は、国策として、石炭の増産を強く推し進めたのです。それは漏水を繰り返していた危険な長生炭鉱も例外ではありませんでした。
犠牲者のうち一三六名は、日本の植民地政策のために土地・財産などを失い、やむなく日本に仕事を求めて渡ってきたり、あるいは労働力として強制的に連行されてきた朝鮮人だったのです。
また、日本人四七名も、多くの戦災者と同様、戦時中の混乱の中でかえりみられませんでした。
無念の死を遂げ、今もなお目の前の二本のピーヤの底深く眠っている人々に、つつしんで哀悼の意を捧げます。
とりわけ、朝鮮人とその遺族にたいしては、日本人として心からおわびいたします。
私たちは、このような悲劇を生んだ日本の歴史を反省し、再び他民族を踏みつけにするような暴虐な権力の出現を許さないために、力の限り尽くすことを誓い、ここに犠牲者の名を刻みます。
二〇一三年二月二日
長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会

お父さん! 私達が今日も来ました。
いまだ地下に居られるお父さんの事を思うと私達の胸には悲痛しかありません。
お父さん! 私達がたとえあなたの実の息子、娘では無かったとしても実の息子、娘としてうれしく迎えてください。私達も実の父親だと思ってお仕えします。今日、参席した遺族達はほんのわずかではありますが、いつかこの場所に埋没されている全ての方々の子孫達が集まることでしょう。 私達全員は一九四二年二月三日 その日を記憶します。冷たい風が吹き、雪が降る冬の海辺、恨みに満ちた絶叫と絶望の声だけがみなぎるその海辺、帝国主義の軍靴の音と監視する兵士達の拳銃の音 そしてその日 お父さんの悲鳴の声 お母さんの苦痛の泣き叫び 子供達の悲鳴、大きな叫び声、泣き声 あぁ……ここがまさに地獄だったのです。
今、海の底でもこのようにして居られますか? 長々と続いた歳月をすぐ目の前のあの海の中でもこのようにして居られますか?
お父さん! これからは安らかにお眠り下さい。 たとえ故郷の暖かい山河ではなかったとしてもその長い歳月を忘れこれからは安らかにお眠り下さい。 生きて居られれば成されるはずだった全ての事を忘れ私達に任せ安らかにお眠り下さい。なぜならば 私達はその日を正確に記憶しこの場所に一緒に居られる多くの人達が その日を正確に記憶しているからです。
お父さん! 私達がお父さん達を故郷の地に帰す事が出来る力と知恵を下さいますように。 その場所が微力で窮屈だとしても 故郷の地は私達の憩いの場ですから そこではもう少し安らかに休むことができるでしょう。
お父さん! その日が来れば 本当に安らかにお眠り下さい。
二〇一三年二月二日
日本長生炭鉱犠牲者大韓民国遺族会

長生炭鉱追悼ひろば 掲示説明から

わたしがこの追悼文に思うのが「他民族を下敷きにするような君主や国家は暴虐である」ということ、そして、朝鮮人は熱情的だと言われるけれど(追悼文を見てもそう思います)、「例え当事者に直接つながる血脈でなくても、同じ民族としてともにその心の痛みを分かち合いたい」という民族内の愛情というものと人間らしさに心を打たれました。

この炭鉱はどのようなものだったか

 ■海と鉄道、川に挟まれた狭い土地に鉱業施設を作り、坑道が沖へと延びていました。

(長生炭鉱追悼ひろば 展示パネルから)


■事故の概況について(証言からの想像図/長生炭鉱追悼ひろば 展示パネルから)


海底を掘り進み、出水事故が起きる、そのために一定の規制がされていたことが分かります。

【海底抗道に関する鉱山法 福岡鑛山監督署】
一、炭柱拂堀り禁止
一、海底下第四紀層が5メートルから10メートルの場合(→7mしかない)、第三紀層の厚さは40メートル未満(→最厚部分で30mしかない)の箇所は採掘禁止

掲示されていた説明によれば、当時の鉱山法の規定からも違反して操業していたことがわかります。

そもそも、このような危険な場所で法令すら無視して石炭を掘らなければならない状況というものを考えてみると、ただただこの国に資源がない、ということに尽きます。だからほんのわずかでも資源があれば、人命に代えてまで危険を顧みずに採掘しなければならない状況。それは儲けうる者が儲けるという目的が背後にあったにせよ、このように法令まであっても無視できたのは(行政が容認したのは)「戦争」という大義名分があったからにほかなりません。そして、戦争があったからこそ、朝鮮人がこの国家の下層に取り込まれることにつながったし、苛酷な労働に従事させてまともにお弔いもしない、という態度に現れているのです。

 ■事故の想像イラスト(長生炭鉱追悼ひろば 展示パネルから)


この戦争も、「周りの国を敵に回す」という決断を裕仁がしたことに端を発するし、国際連盟の椅子を蹴るような国にまともに他の国が相手するだろうか、と考えるとまともな交易で外国から資源を購入する方法を自ら手放してしまった。だから大陸に、南洋に、東南アジアに、よその国に奪いに行かせる。そればかりではなく国内でもわずかでも資源があるとすれば、なんとしてでも(尊い人命と引き換えにしてでも)入手しなければならないほど追い詰められた、ということです。

鉱業はただでさえ落盤・崩落事故が起きたり、地下水の出水、ガスの噴出など予期せぬ事故災害と背中合わせの危険な業務です。ましてやこの長生炭鉱は海底です。鉱山での掘削以上に厳しい現場で、何らかの事故が起きれば、たちまち水没するのは誰が考えても容易に分かるでしょう。そのようなところだからこそ労働力の主力を朝鮮半島に求めたのです。連行であるか志願されたのであるかは別にしても、日本人が朝鮮人を蔑視していたことから、危険な現場に朝鮮人を動員することに躊躇しないし、どれだけ犠牲があろうと彼らの安全は軽視されました。明治以降の近代化に向けての開拓では、危険な現場の多くに朝鮮人が従事され、ろくに睡眠や食事も与えられず使い捨てられました。このように重労働に従事させられ亡くなられた方々の枚挙に暇がありません。

 ■動員される朝鮮人の想像イラスト(長生炭鉱追悼ひろば 展示パネルから)


北海道の常紋トンネル

わずか500mのトンネルに3年もの期間をかけて1914年に完成した、石北本線の常紋トンネル。仕事の内容を隠されてだまされて連れてこられた日本人や朝鮮人労働者は「タコ」と呼ばれました。重労働と栄養失調で多く犠牲となり、弱った労働者は治療するどころかそのまま生き埋めにする、亡くなった遺体は穴に投げ捨てられ弔いもされなかったと言います。

タコ部屋の名のいわれは、地元の土工夫を『地雇』といったのに対して、自分で我が身を蛸のように足を切って食べる、道外の者を『他雇』と言ったのが、始まりと言われている。 

常紋トンネル幽霊秘話(正確性は分かりませんが「他雇」の語源説明は珍しいので紹介します。)

そして監督者に楯突いた労働者は、見せしめにトンネルの人柱として生き埋めにされたと語られていました。その後鉄道が開通しましたが、トンネル付近でさまざまな怪奇現象が起き続けます。
1970年にはトンネルの入口を修繕しているときに人骨が出てきて、人柱が伝承ではなかったことで衝撃が走りました。その後現場と街道沿いに慰霊碑が建立されて、毎年JR北海道の職員が慰霊祭を開催しています。

北海道はその開拓の歴史から、労働の名の下に虐げられた方々が格段に多くいらっしゃって、現在も彼らの労苦はインフラとして残っているのですが、なかなか関心を向ける人は少ないのが現状です。彼らは「殉難者」と言われ、道内各地に殉難碑、慰霊碑が建立されていて、こちらのサイトで北海道内各地の殉難碑が紹介されています。
こと、たくさんの死と引き換えに工事を強引に進めていったものの、敗戦で投げ捨てられた橋脚(斜里町越川橋梁)、ここで犠牲となられた方々、特に異国で亡くなることになられた方々は「何のために死んだのか」、とどれほど深い怨念を抱かれたかと思わずにはいられません。

関東大震災で犠牲となった朝鮮人の殉難碑

1910年9月1日に発生した関東大震災。巻き起こった熱風が上昇気流となり熱風の嵐となって都心を燃やし尽くします。後に太平洋戦争において、米軍が東京を空襲するにあたり、関東大震災の風向きや延焼状況のデータがあったことから(中央気象台が計測していた)を丹念に調べ、甚大な被害を与えるためのデータにしたといいます。

 ■火災の様子(Wikipedia )


東京都心から見ると、城東にあたる区域が火災に遭うと、東あるいは北東にしか逃げる方向がないのですが、荒川が横たわっているため、橋まで回って渡らねば火災から逃れられません。

 ■現在の四ツ木橋(2024年10月24日撮影)


火災後、自警団が消火の援護などをしていましたが、このときにスケープゴートにさせられたのが朝鮮人達でした。朝鮮人が火をつけた、などと根拠のない噂が流れ、彼らの生命を奪い、惨殺することで不安やいらだちのはけ口にしたのです。ほうほうのていでここまでやってきた住民達は、ここで朝鮮人かどうか選別され(朝鮮語にない発音をさせ、不自然であれば朝鮮人とする)、朝鮮人とみなされると、公権力を振るう立場でない者たちや民衆たちが彼らを見せしめとして惨殺し、死体は橋から突き落としていったのです。
朝鮮人を殺害した日本人は警察に追及されることもなく、調書の被疑者も「朝鮮人」と記入されただけでしたから、「誰か」ということすら分からず、ご遺体も事件後しばらくしてから作業員に偽装した何者かによって痕跡なく持ち去られてしまい、のちにご遺骨を拾い集めることも、それを手がかりとして被害者が誰か調べる手がかりもないままです。

四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路直上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして橋の下手のところに3ヶ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた。

追悼する会編『風よ 鳳仙花の歌をはこべ』(1992年)浅岡重蔵さんの話

この現場となった四ツ木橋のたもとに、追悼する会が中心となって慰霊碑が建立されました。

 ■関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼碑(2024年10月24日撮影)


 ■関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼碑説明文(2024年10月24日撮影)


関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼碑 建立にあたって

一九一〇年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、一九二〇年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
一九二三年九月一日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川正手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
六〇年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。
二〇〇九年 九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺得を発掘し追悼する会 グループほうせんか

一般社団法人ほうせんかが設立された追悼碑の説明

日本人と分離してほしい、という願いをどう考えるか

こちらは、長生炭鉱の慰霊碑ですが、よく見ていただきたいと思います。

 ■長生炭鉱追悼ひろば(2024年12月8日撮影)


長生炭鉱では、事故後ほどなくして慰霊碑が建立されましたが、そこに刻まれたのは日本人犠牲者だけでした。ようやく「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が犠牲となられた朝鮮人を調べ(まだ名が分からない方もいらっしゃるそうです)、慰霊碑建立にこぎつかれたのです。
そして、今は遺骨を収集するための活動 を精力的に行っておられます。しかし、慰霊碑が「強制連行 韓国・朝鮮人犠牲者」と「日本人犠牲者」と分割されている意味、分割してほしいと言った朝鮮人の気持ちをどれほど日本人がくみ取ることができるか。それを突きつけられているように思えてなりません。そしてこれは、靖国神社に合祀されている朝鮮人の遺族が分祀してほしいという願いにも通ずるところがあります。

靖国神社に戦没者合祀 賠償求めた韓国籍遺族の敗訴確定 最高裁

靖国神社に戦没者が合祀されるのは政教分離を定めた憲法に違反すると韓国籍の遺族が国を訴えた裁判で、最高裁判所は、賠償を求めることができる期間が過ぎているとして上告を退け、原告の敗訴が確定しました。一方、裁判官1人は反対意見を述べました。

東京 千代田区にある靖国神社には、第2次世界大戦中に日本の統治下にあった朝鮮半島出身の戦没者もまつられ、韓国籍の遺族が「侵略した側の戦没者と合祀するのは家族への侮辱で、国による戦没者名簿の提供は政教分離の原則に違反する」として国などに賠償を求めました。
1審、2審ともに訴えを退け、遺族側が上告していました。
17日の判決で最高裁判所第2小法廷の岡村和美 裁判長は「原告らの家族の合祀は昭和34年までに行われ、賠償を求めることができる20年の期間が過ぎている」として、上告を退け、原告の敗訴が確定しました。
一方、4人の裁判官のうち、三浦守 裁判官が反対意見を述べ「国による合祀への協力は、政教分離制度の中心に位置する問題だ。合祀を望まない遺族にとって、亡くなった近親者を思い出すという精神的な営みに影響を及ぼす可能性がある。 高裁でさらに審理を尽くすべきだ」としました。
最高裁の裁判官が靖国神社への合祀について意見を述べたのは初めてです。

2人の裁判官が意見
判決では2人の裁判官が個別意見を述べました。
検察官出身の三浦守 裁判官は、高等裁判所で審理をやり直すべきだとする反対意見を述べ「靖国神社で第2次世界大戦の戦没者を合祀するには国による情報提供が不可欠で、平穏な精神生活が妨げられたという原告の主張には相応の理由がある。 政教分離の規定に違反するかどうかは合祀の内容や情報提供の経緯、一般の人の評価などを踏まえて総合的に判断すべきだが、高裁では審理が尽くされていない」としました。
一方、裁判官出身の尾島明 裁判官は、判決を補足する意見を述べ、原告の損害について「宗教的な思いの深さで異なるが、命や身体に対する重大な侵害と比べると相当程度軽いと言わざるをえない。そうすると賠償を求めることができる20年の期間が過ぎていることが著しく正義・公平の理念に反するとまでは認められない」としました。

靖国神社に戦没者合祀 賠償求めた韓国籍遺族の敗訴確定 最高裁(NHKニュース 2025年1月17日)

朝鮮人と日本人は隣国でありながら、「支配」「被支配」で押し切ろうとした、それも「戦争」で「併合」し、本来であれば朝鮮民族が民族として周りの国に渡り合っていく当然の権利を奪った。
しかもその相手は国際連盟の椅子を蹴って外国から進んでつまはじきになるような「ならず者国家」の日本。生活が困窮したら日本へ出稼ぎを考えるしかない、そして植民地統治のためにいくら国庫の大金を台湾や朝鮮に投入したと言っても、結果的に出稼ぎせざるを得ない状況、あるいは無理矢理連れてこられるような状況をこの国がもたらした。
慰安婦問題にしても、自発だ強制連行だ、女性達は高給で志願したと様々に言われているけれど、少なくともそのようなセックスワークをこの国が斡旋した事実と、それで買春した男達があった事実は取り消せないのです。

ただただ日本は植民地に何をもたらしたか、それは幸せなのか、不幸なのか。ただただそれだけだと思います。それも日本が逆の立場だったら、と考えれば寄り添うこともできると信じます。

戦争を決めた睦仁や裕仁の決断、そして日清日露まで含めると皇統というものが、国家の危機を外交ではなく力で押さえつける好戦主義者で、それがために日本と外国の庶民を締め上げ、たくさんの生命を霊にした。このことが今の今まで尾をひいて、日本もアジアに対して堂々と立ち回ることはできないし、相手の国も悲痛を抱いているから要求をするが、日本からすると「おかわりばかりだ」「たかられっぱなしだ」となって、「日本を取り返す」とかそれを与党が選挙で言う訳の分からない事態を招いている。こんな不安定な状況があと何世紀続くのだろうか。

本当に日本が困ったときに、進んで手を差し伸べてくれる国がどれほどあるだろうか。一億人もの人口を抱える国だからこそ、味方になってくれ、対等にいてくれる国が世界にたくさん必要だと思うのです。

卓庚鉉さんと李秀賢さんのこと

わたしは、朝鮮人といえば特別攻撃隊の隊員で光山文博さん(朝鮮名:卓庚鉉さん) の存在が忘れられません。戦後すぐにこの方のご経歴やご遺族を調べようとしたが当時は分からずじまいだったと聞きます。それは、朝鮮人達にとっては「敵国に加担した」ということだから、親御さんにその事実が伝わっていたかどうかも分からないけれど、もし分かっていらっしゃっても名乗り出せないし、墓に刻むも難しかったと思うのです。ただでさえ「死んでこい」で、当時植民地の国民は特別攻撃については免除されていたのです。それでも祖国を護るために、生命を投げ出された。また、大久保駅で転落した乗客を助けるために犠牲となられた李秀賢さん も本当に立派だと思います。

このような尊い魂は朝鮮からお生まれになられ、なさったことは国境を飛び越えて「人間とはこうあるべきだ」と示してくださっている。

長生炭鉱や各地での苛酷な労働死も「朝鮮人だから」、関東大震災も「朝鮮人だから」で特定の民族を名指しで虐めてきた。しかしながら、いつまでも何何人だからという目線ではこれほど立派な人たちの姿は映ってこない。「日本を取り返す」もナショナリズムも民族主義も、言い換えたらすべて「孤立主義」にほかなりません。国際連盟の椅子を蹴るような外交政策を可とし、結果世界から孤立して誰も相手にしてくれず、資源が手に入らないものだからよそ様のものを奪いに行くことを決めた裕仁。その結果庶民と、軍人さん方兵隊さん方が、この国であろうが敵国とされた国であろうが霊にされてしまった。もう一度そういう歴史を繰り返すのかどうか。

被害者が納得して許してくれるまで、大東亜戦争は本当の意味での収束はないし、対等に渡り合っていく外交はそれからではないか、とそのように思うのです。わたし個人では、その「指標」を特別攻撃隊の隊員さんである卓庚鉉さんに求めています。彼のこころを理解して、彼の尊い犠牲の本当の価値が日本人と朝鮮人の双方が共有できるとき、お互いにわかり合える時代になったといえるのではないか、と。そしてそのような時代が来てほしいと願ってやみません。