原子爆弾の殺戮
死の灰のどこかで原爆孤児が泣けり
■長崎の原子爆弾の殺戮後撮影され「Cremation Site, Nagasaki 1945」と題された写真。
この写真は、アメリカ海兵隊所属のカメラマン、ジョセフ・ロジャー・オドネルが撮影したもので、亡くなった弟を背負い、火葬の順番を待っておられる様子だとされています。
10歳くらいの男の子が歩いているのが見えました。彼は赤ん坊を背負っていました。 何か重大な用事があってこの場所に来たのが分かりました。彼は靴も履いておらず、表情は険しく、小さな頭はまるで赤ん坊がぐっすり眠っているかのように後ろに傾いていました。 白い仮面をつけた男たちが彼のところに歩み寄り、赤ん坊を縛っていたロープを静かに外し始めました。 男の子はじっとそこに立ち、じっと炎を見つめていました。下唇を強く噛んでいたので、唇は血で光っていました。 |
---|
徴兵によって父親はおられないと考えますし、長崎市が壊滅状態になったのですから、お母さんもお亡くなりになったのではないかと思うのです。
人口が集中する区域の子供達は学校ごとに疎開させられました。これは「国民の生命が尊い」から、という風に考えるかもしれませんが、戦争を推し進めた者たちはそんな感情などありはしないのです。
そもそもそのような人間的な感性があれば、戦争は起きていませんし、なにより彼らのお母さんや老人なども疎開させるはずです。
女性達には男手がほとんどいなくなった都市を護らせ(男手のない都市にあえて残すのですから、空襲で多くの死傷者が出ることも想定済みと言えます)、子供達は戦後復興の労働力として避難させたにすぎないのです。
お兄ちゃんの身なりから、戦争が終結したとして疎開から解放され、帰ってきて自宅があったところで弟が亡くなっていたのを見つけたのでしょう。
お母さんがいらっしゃれば、家族を火葬するような現場に一人でいかせるなんて考えられません。撮影者のオドネルは8月28日に日本に入ったとされていますから、もしお母さんがご健在で、弟さんだけ亡くなられていたとしたら、お兄ちゃんが帰る前に弟さんの火葬が終わっていると思うのです。
つまりは、この男の子は天涯孤独の身になられてしまったのではないか、と思うのです。この後どうなったのか気になって足跡を調べた方もいらっしゃるのですが、同級生が見つかり「あきひろくん」という名前と、現代技術でカラー化してみたところ放射能による身体の異変が見られる、ということにたどり着いたのがやっとのようです。
子供らしい楽しさを味わうこともできず、ひとりこれから崖を歩くような人生を歩まねばならない。放射能によって苦しい症状に責めさいなまれたり、結果短い人生となられたやもしれないのです。
■平和祈念像(2018年12月30日撮影)
「人間的なものから非人間的なものへ そしてさらに超人間的なものへ」、人類がなしえなかった平和を超人間的な存在が具現化してほしい、そのように願い「仏様」「神様」「思想」を超えたデザインを目指して作られたといわれます。
■旧広島県産業奨励館(2024年3月24日撮影)
原子爆弾の殺戮10年後に発刊された句集「広島」が発見され、ミルトス館さんが公開されています。浴びてはいけない光を浴びさせられ苦しく生きる方々が多くいらっしゃった時代。
「死の灰のどこかで原爆孤児が泣けり」はこの句集の河内俊成さんの作品です。
広島市の原子爆弾の被害
光禅寺
■広島県廿日市市の光禅寺にある原爆死没者慰霊碑と、五日市町陸海軍戦死者墓地の門標(2024年8月6日撮影)
広島市佐伯区五日市の光禅寺。軍人さんのお墓にお参りにするために行ったのですが、原子爆弾の被害を受けた方々の納骨堂と、ご戦歿された軍人さん方兵隊さん方のご慰霊碑があり、驚きました。
原子爆弾が炸裂した8月6日午前8時15分。この時間にあわせて原子爆弾の犠牲者の方々へのご法要があると伺ったとき、少し前からご法要が始まり、時間ぴったりで市内で一斉にサイレンが鳴り響き、また驚きました。犠牲者の方々に思いをよせ、黙祷を捧げ、数人の僧侶の読経が始まります。
その日の様子をお伺いしました。原子爆弾の殺戮に遭い、被爆された方々は大変な思いでなんとか難を逃れようと、郊外へ郊外へと向かう人波ができていたそうですが、その向かわれる途中、お寺をみつけ安心なさったのか門前で息絶えられた方々も多くいらっしゃいました。
山のように霊となられた方々のご身体が積み上げられ、荼毘に付されました。
これほどの数が一瞬に亡くなられたのですから、一般的には「ご慰霊碑」として境内に置かれるのが普通なのですが、このお寺には、慰霊碑とは別に、その下にご位牌を安置している部屋があります。
「名前なく弔うのは」と、救助にあたられたご住職さんは、荼毘に付す方の、当時は身元を示すため衣服の胸部分に布名札が縫い付けてあったものですから、それを切り取り、手がかりにして後にご遺族を探されたそうです。しかし一家全滅になったのか、ご遺族につながらない方も多いとのお話でした。
また、南方特別留学生として、戦前南洋諸島出身の優秀な若者達を「大東亜共栄圏確立のための人材」とするため日本各地の大学に留学させる制度がありました。たまたま、広島に配属されたばかりに、原子爆弾の被害を受け亡くなられた方がいます。このお寺にはこのような方々のご慰霊碑もあります。
【交通】
広島電鉄宮島線「佐伯区役所前」から徒歩6分、同線ならびにJR山陽線「五日市駅」から徒歩10分
国民が全滅するような危機に導いた血統が国の頂点に君臨する資格があるのか
その後も、御代御代の天皇は、民草を子のやうにおいつくしみになりました。國民もまた、親のやうにおしたひ申しました。かうした、なごやかさが續いてゐる間に、日本の力は、若竹のやうにずんずんのび、御稜威は、やがて海の外まで及ぶやうになりました。 |
---|
初等科国史<上> 五十鈴川の項(国立国会図書館デジタルコレクション)
スメラミコトは国民を子のように慈しみ、子である国民もスメラミコトを慕った。どのような形であれ少なくとも、君主たるべきものはこうあるべきです。
教科書はいつの時代もその時代の政府が「国民をどう引っ張っていくか」、特に教育は幼児期から青年になるまでの頭が柔らかい時期に、多かれ少なかれ洗脳をしていくわけです。そこで、いかに人間らしい教育をするかが肝心なのです。
戦前の教育は現代人が受けているよりも遙かに純朴で素晴らしい内容が多いのですが、ただ実際に「戦争が形になってしまった」という結果は、「戦争というものに対して断固と反対をする」という教育が行われてこなかった、とも言えるのです。
それはただただ「天皇に盲目的に従う人間を育てる」教育目標と、学校行事での過剰までの裕仁の取扱いを子供達が肌で感じることで、支配者を粗末にしてはならんという教育の結果、裕仁の暴走を許し、国民が苦しむ社会となってしまったのです。
誰が今の天皇に至ったか、家系図を覚え込まされたり、教育勅語を丸暗記させられたり、意味のない教育が繰り広げられたのです。
政府にとっては天皇がいるとやりやすい。象徴天皇になる前は、「神」なのです。天皇自身が周りに自分の考えをチラッと小出しにして、周りはその「考え」を推測しながら、国民から見えない存在として君臨していることをいいことに、自分のやりたいようにやれる。
ただし、国民をいかようにも扱える「おもしろい」地位は、もちろん高給ですし、手放したくないから、天皇の意向から外れるわけにはいかない。天皇の周りには天皇のイエスマンばかりが集まり、天皇もその周りの人間も、国民には徹底して天皇が素晴らしい存在であることを刷り込んでいく。
そうすることによって、天皇の名前を使えばなんでもできるような社会が完成していました。
いくらでも焼き増しができる写真すら「ご真影」といい、過剰なほどに大切にする。学校が火事になった、ただの裕仁の写真に過ぎないのに、燃えてなくなって校長が責任を感じて自殺した話すらあるのです。
軍隊の登場する映画をご覧になる方は、ある言葉を言う前に一呼吸置いて「カシコクモ」と言った途端、周りの人間は姿勢を正し、次の言葉を待つ間(ま)が置かれるのをご存じでしょう。
これは、続いて「天皇」という言葉を出すという予告で、こんな馬鹿げた儀礼までありました。
このように徹底して社会は天皇を持ち上げるし、天皇は当然としてその上にのさばる。誰も批判できないからこそ、どんな暴虐な政治も行えるし、その腰巾着に当たる政府の人間は「天皇の意向」という言葉であれば、道理も理屈も引っ込めて国民を苦しめ、議会も金持ちで納税者しか議員になれないものだから、国民みながそんなどうしようもない行政、戦争につながるような政治に巻き込まれた。
先ほどの教科書でもそうです。こんな理想的な人間はどこにもいないのです。
国民の考え方の基本を、政治をやる人間の思いのままに、いかようにもそのように引っ張っていくための教科書の記述であるし、裕仁はじめ過去の子供として国民を愛おしむこころがあり、親として自覚していたならば、戦争を起こすことはそもそもない。
親が東京に住んでいて、子供が広島にいるとする。「広島で新型爆弾が落ちて街が壊滅したそうだ」、このような情報が入ったらいても立ってもおられず、雑踏をかき分けでも広島の子供の安否を見に、汽車を乗り継いで、切符も買えるところまで買い、いくら時間がかかろうが広島をめざすだろうと思います。
都合のいいときだけ「親」といいながら、そのような素振りはまったくない。結局は皇居の上に原子爆弾が落ちなければそれでよいのか、ここまで国民に苦しい状況を押しつけておきながら。
幾分でも君主たる自覚があるなら、自分が開戦した以上、広島に原子爆弾の殺戮があったときに「すぐにでも連れて行け、大変なことになっているのだ」と広島に向かうぐらいの心がなくて、どうして君主たる地位を占める資格があるでしょうか。
国民が大変なときに、それも自分がしでかした戦争でこれだけの辛酸をなめさせられているにも関わらず、都心でむしろ国民の生命を自分の盾に護らせながら安穏と生活していた。
しかし、広島で原爆が落ちても、自身は住むところは都心の森付き数戸建て。抵抗を排してまで動こうともしないし、新型爆弾に対する切迫感がない。
アメリカの大統領は「アメリカに楯突くな」と新型兵器を世界に見せつけたい。
開発した科学者は、計算と実験で実現した知的興味の塊の効果のほどを検証したい。
このような野望や欲望の結果、とにかく日本が白旗を揚げるまでに核爆弾を落とし、その威力を検証したいものだからと投下されてしまった。
立て続けに長崎には、わざわざ広島と違うタイプで兵器の実証実験をされてしまった。
広島で原子爆弾により市民が殺戮がされ、それでも戦争の指揮者たる裕仁がボーッとしているから、続けざまに長崎にも原子爆弾で殺戮が行われたのです。
軍都の苦しみ
■広島市内比治山にある陸軍墓地。敷地内が整備され、入口にホールができてご焼香ができる場も設けられました。(2024年8月6日撮影)
■広島は瀬戸内最大の都市であり、軍都でありました。空襲が激化する中で、広島だけはその被害がなく不思議がられていたと言います。
原子爆弾の殺戮があったときも、多くの軍人さん方兵隊さん方が救援に駆けつけ、被爆なさった方々も多くいらっしゃいました。
どうして広島に原爆が投下されたのですか |
---|
(被爆に関すること よくある質問と回答/広島市)
本来北九州の小倉市にあった陸軍工廠を照準にしていたことが戦後発表されると、小倉市長の痛切な声明が発表されました。手狭となった東京陸軍工廠の誘致合戦を小倉市が勝ち取り、軍都に成長した末に標的とされたのです。
「全身に粟が生ずる思いがした(=恐ろしさや寒さのために皮膚に粟粒のようなぼつぼつができる。鳥肌が立つこと。)」、と、小倉市長は次のような声明文を市内に回覧させました。
■北九州市平和のまちミュージアム 展示パネル(2023年12月5日撮影、当館掲載承諾済)
■北九州市平和のまちミュージアムのすぐ南の公園内に原子爆弾で殺戮された方々のご慰霊碑があります(2023年12月4日撮影)
地位と名誉がほしい科学者の意地がカタチにしてはならないものを地上に生み出した
アメリカは「実験を兼ねた殺戮兵器を世界に見せつけ、力を誇示したい」。アメリカの世界征服の材料として広島の市民がまず犠牲となり、科学者の科学的興味のまま、到底やってはいけない科学実験の舞台として、それも戦争が終わってしまえば殺戮実験はできないものだから、続けざまに種類のちがう原子爆弾の実験をされて、長崎の市民にも犠牲が出たのです。
特別攻撃もそうですが、人間はそれができてもカタチにしてよいことと、悪いことがあります。
原子爆弾の殺戮にしても、「原子爆弾を使用せずに、その威力を日本に知ってもらう方法はないか」と、原子爆弾実現に熱中するオッペンハイマーに疑問を呈したアーネスト・ローレンスというような人もいたのです。
このような兵器を作らなくても、日本は自滅するのだから、周りが開発を止めよう、という動きすらあったと言います。
それでも、ライバルがいて、自分はアメリカの科学者の頂点たる地位を失いたくない、と原爆の父オッペンハイマーは開発に夢中になりました。
自分がやっていることを自覚せず、「いかに効率よく人間を殺戮するか」の知見を確立するために、原子爆弾の一発目と二発目は仕様が異なるのです。
「いかに効率よく人間を殺戮するか」の先には、自分があくまで「殺戮する側」であり、「殺戮される側」にならないという確信があり、慢心が潜んでいるからこそ、これだけの非道ができるのです。
科学者の興味のまま大量殺戮兵器は実現し、広島や長崎で何の罪もない市民を(黄色人種ということで何をしてもよいという差別意識もあった中で)殺戮し、なんとか生命を失わずに済んだ方々も、大怪我を負い、放射能による様々な症状にずっと生存を脅かされ続けて、苦しい生活をされました。
その後ライバルはオッペンハイマーは共産主義者だとレッテルを貼り、オッペンハイマーは地位を追われます。ライバルは対抗心を燃やしてもっと威力のある水素爆弾を地球上に生みました。オッペンハイマーは、地位を追われ名誉も失って、ようやく「反原爆運動」に目覚めましたが、もうこうなっては意味がないのです。
ないよりマシだと思われるかもしれませんが、やったことの大きさや、それまでに何度も「立ち止まる」機会は天から与えられていたにも関わらず、それでも地位や名誉を追いかけた責任が問われるのです。
社会に及ぼす影響が大きい自分の存在に酔いました。皮肉にも「反原爆運動」をやるにしても、それは自分がやってきたことの否定で、それはそれでつらいことではあるけれど、制御しきれないろくでもない怪物をこの地球上に生み出した、しかも二つの都市を壊滅させた張本人が、地位も名誉も失った老人になって今更そのような活動をしても誰が彼の話に耳を傾けるでしょうか。
第一、生み出した怪物を「なかったこと」には決してできないのです。
そして、今もなおその原子爆弾の成果を肯定するために、「原子爆弾があってこそ戦争が終結したのだ」という認識があり、映画「リッチランド」でも描かれています。
原子爆弾という人体実験の「威力測定」は続き、新型爆弾の開発で競い合う世界
広島市内、比治山の陸軍墓地へ参拝に行ったときに、わたしから見るととても不気味な建物がありました。調べると「放射線影響研究所」といい、以前は英語のサイトしかなかったように思います。
被爆された方々の検診をここで定期的に行っていて、Google mapでも「タクシーの送迎にお土産つき、親切丁寧な診察に感謝感謝です 」という好意的な書き込みも見るのですが、一方で「病院ではないので治療は行われません」とはっきり書き込みがあります。
日米共同の組織であって治療も行わず、原子爆弾の威力と成果を測るためこのような施設が広島にあるということ。検診のふりをしていますが、現在もなお人体実験としての位置づけが普遍であることの証拠のように思えてなりません。
北朝鮮は水素爆弾の実験に成功し、2025年3月に中国では、それまで核物質を併用してきた水素爆弾を核を使用しない純粋な水素だけの、さらに威力を高めた「新型爆弾」の実験に成功した、と発表しています。
ここまでの困難を与えておきながら「仕方がなかった」で済ませる神経
その後の人類は、わたしたちは、どこかで戦争が起こるたびに、「核戦争」がちらつき、一瞬で自分たちが滅ぶ危険性を憂慮しなければならない、そんな世界に生かされています。
特別攻撃がカタチにされてしまったときに、そこで戦争を止めることができたならば、
関行男海軍中佐をはじめとする最初の特別攻撃隊の隊員さん方の少数の犠牲で、その生命を悼み、これ以上厳しい戦禍に国民を追い込んではいけない、という普通の感覚がある人間が天皇であったならば、
特別攻撃隊の隊員さん方の死と引き換えに原子爆弾の完成まで終戦が引き延ばされてしまう、という人類史上これ以上もない厳しい世界になることはなかったのです。
■1975年10月31日、日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見」
核爆弾によって、体の内部からも外部からも強烈な何千度という熱風で大やけどを負わされ、苦しみながらたくさんの方々が亡くなられたことは、スメラミコトが「国民を民草として慈しむ」どころか、民草という藁束を「これでもか、これでもか」と燃えさかる戦火に投じ続けた事実は、権力者同士の戦争ゲームにとって庶民なんてコマのようなもの、国民を平気でそういった苦しみの極地へ追い込むことができる、という証明でもあります。
400万人もの国民を霊とし、その数倍の国民と社会を困窮させた。
周りの国の国民と仲良くやっていくことを放棄し、領土を奪い、資源を奪い、人命を奪う。そして心に届かない表面的な「お言葉」で済まして、十分な償いもしないものだから、いまだに日本という国が怨恨を背負い続けねばならない。
戦争によって、進駐軍によって「この国古来の美徳や伝統」、大和魂と言っていいようなものまで、すべて骨抜きにされてしまった。つまりは裕仁こそが国民を地獄に導いた末に国を破壊したのです。
本当に君主であり、天皇であるならば、特別攻撃の一報を聞いたときに、「ここまで追込まれたのであれば、勝敗は決した。とにかく戦争を終結させよ」と言い、ここで「自分はどうなってもいいから」というべきだった。さらに本当に「国民を慈しむ」のであれば、堂々といかなる抵抗があろうとも、生命をかけて戦争を食い止めようとする度量器量や勇気をもった資質のある人間でなければならないが、これらが決定的に欠損していた人間が天皇となり、能力不足を自覚せず移譲もしない。
たかだか死んだ、どこの馬の骨かわからないような血統が祭り上げられて、神様まで祖先だとうそぶくような血統、それもたった百二十数代の死んだ人間を重んじて、同時代に生き養ってくれる国民を平気で殺しにかかる。
この動画を見たときに一番に思ったのは、原子爆弾の炸裂で霊となられた方々や、その被害で苦しみの中で生きられた方々が、このオッサンの「仕方がなかった」という発言で納得なさるだろうか。
そもそも霊となった本人は今、地上には血税で墳墓を作ってもらっているけれど、霊の世界で居場所があるのだろうか、そんなことを思います。
そんな人間が国民の上に立つ立場を手放さなかったのがこの国の不幸です。そもそも皇族皇統というものが国民に善政を行ったことはあるだろうか。すべて教科書で教え込まれた、虚ろで実績のない記録しかないではありませんか。自然災害で一時的に国民の前に現れて、慈愛あふれるフリをして、マスコミの撮影が終わったらいそいそと東京へ帰る。被災者はこの後10年単位で嘆き苦しまなければならないが、この人達はもしそうなったとしても、税金ですべて速やかに新調してもらえるのです。
皇族の子供は何も生活にも就職にも困らないのに、国立大学の枠に怪しい選考を経て無理矢理押し入り、庶民が大学に行く機会、それは「職を得て生活をするため」という大事な部分があるのに、その枠すら奪って、長距離を血税で平然と運転手付きのクルマ通学、こんな大学生どこの世界にいるでしょうか。大学側もいろいろとセキュリティに金を掛ける。こんな存在が国民の象徴でいいのか、莫大な血税を掛けて生かす必要があるのでしょうか。
『土の歌』
国民を数多殺戮したようなクズの動画でページを締めくくりたくなかったので、いろいろ考えていたのですが中学生の合唱でよく使われる曲「大地讃頌」の組曲をご紹介します。
■男声合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』
最終楽章の「大地讃頌」が余りにも有名ですが、第三楽章の「死の灰」で、「運命の不安よ 科学の恥辱よ 人智の愚かさよ」と原子爆弾を痛烈に批判しています。
第三楽章から再生できるようにしていますが、時間があれば最初から聴いてみてください。混声合唱はよく聴くのですが、男声合唱を見つけまして、迫力に感動しましたのでご紹介します。歌詞はこちらのサイトで紹介されています。
このような悲しい歌詞の曲が生まれざるを得ない国にしてしまった当時の治世の最高責任者、戦争の最大犯罪人たる裕仁に怒りしかありません。