関行男海軍中佐のご母堂様の苦しみ
「死にに行け」という命令の善悪すらわからないようなクズが天皇であったばかりに
食糧もまともに手に入らない時代が長く続き、どの家庭でもお母さんは子供の養育に大変なご苦労をなさいました。お母さんご自身が空腹であっても、「お母さんはお腹いっぱいだからお食べ」、と懸命に我が子を育てられました。
その子供がいつの間にか裕仁の子供ということになってしまい、人を殺すことを教え込まれ、厳しい戦場でたくさん戦死されます。
そうすると上層部は人数を割り当て、下へ下へと伝達するうちに地方が指定され、名前が絞り込まれ…、最終イヤだと言っても役場や警察、特別高等警察まで使い、地の果てまで追いかけて「お国のため」といって軍服を着せられます。
裕仁は人の生命を大事にするなどとは対極の人間です。軍人兵隊は死んで当たり前、裕仁の「ガチッと叩きつける工面は無いのか」「ピシャッとやることは出来ぬか」「『ガン』と叩き度いものだね」「ガチッと叩きつける工面は無いのか」、このような「お言葉」のたびに、苦しみながら他国の兵士と生命の奪い合いをやらされている前線の兵士により過酷な命令が下され、国民という「民草」を束にして霊にしていきます。
遂には「よくやった」と特別攻撃を賞賛し、「死にに行け」という命令の善悪すらわからないようなクズでした。
自分は絶対に死地へ赴くことのない脳天気さと気位からかの無慈悲さを最大限に発揮して、国民がどれだけ死のうが、どれほど苦しい死に方だろうが、お構いなしに次々と霊にしていきました。
元気に玄関を出た息子さんや旦那さんが、このようなクズ君主の開戦決定した戦争で、ご遺骨、あるいはご遺骨すらなく名前の紙片や石ころが入った白木の箱で無言の帰宅をする。それも数百万人。
■戦没兵士の帰還(昭和12年日中戦争以降の仙台の第二師団の合同慰霊祭。背景は、こちら)。
画像は221名の兵士の慰霊祭の様子を撮影したものと推測されています。戦死者が増え国民生活が窮乏すると、前線で苦しく亡くなった軍人さん方兵隊さん方のご慰霊祭すらなくなります。(せんだいメディアテーク提供)
そうして戦争を遂行する人間の思惑のままに生命をもてあそばれて、変わり果てた姿で小さな白木の箱が、お母さんに、奥様に「大事な人の死と、生きては還ってこないということ」を否応なく突きつけるのです。
お母さんが、奥さんが、どれほどつらく悲しく思われたか、察するに余りあります。
愛おしい息子が殺されても、裕仁の戦争のために社会は「気丈でいること」を無理強いする
関行男海軍中佐が率いられた敷島隊の2番機、中野磐雄さんのお母さんは、息子の戦死を映画館の「日本ニュース」で知り、卒倒されたといいます。
関行男海軍中佐のご戦歿後、ご母堂サカエ様も他の子供を失った母親と同じように、ご子息の戦死で悲嘆に暮れる気持ちは同じです。
しかし、国や軍部、報道機関に敷島隊、特別攻撃隊は一方的に祭り上げられ、戦争遂行の材料とされてしまったために、表立って中佐の死を悼むこともままなりませんでした。恐らく新聞の指示のままに、「にこやかにかいがいしく弔問客の応対をしている姿」などが写真に撮られます。
これが新聞に掲載されると、「これこそ軍神の母」と標題がついて、紙面を賑わせます。
■弔問客に答礼する関行男海軍中佐のご母堂様。敷島隊の隊員さん方のご母堂様方は折々に新聞記事に「軍神の母」として取り上げられました。
関行男海軍中佐を「軍神」として高く祭り上げたことが木碑でもわかります。
戦争に負けて、憤懣やるかたない人間は生け贄を求める
これが、戦後に関行男海軍中佐を亡くされたご母堂様に手ひどいしうちになりました。
敗戦した。自分たちの息子は、旦那は死んだ。どうしてくれるんだ、とやり場のない怒りを、『戦争の看板』に仕立て上げられたばかりに、関行男海軍中佐のご母堂様個人にぶつけるのです。
現代よりもずっとずっと近所の付き合いが濃い社会の中で、ご主人様を亡くし、関行男海軍中佐まで苛酷なご戦歿、たったお一人になられて、今度は社会から熾烈な迫害をされるのです。
息子や夫を失った人たち、さらに戦争で大変な思いをした人たちからみれば、報道のせいで有名になられてしまったがために、戦争を憎悪する感情の恰好のはけ口にされたのです。
「戦争犯罪人」などの罵言を浴びせられ、あからさまに石を投げつけられることもたびたびで、「関中佐は実は生きている」などと噂を立て、その情報に右往左往するサカエ様を陰で笑いものにするなどの悪意に満ちた、壮絶な嫌がらせを受けられました。
さらに海軍解体とGHQの指示で遺族に支給される恩給が止まり、経済的にも困窮されるようにもなります。西条の市街地から引き払わざるをえなくなり、街のはずれに狭い物置を借りて住まわれます。そこで農家から分けてもらった餅米を石臼で挽いて、細々と草餅を作り商店街の店に頼み込んで、店頭に置いてもらう行商をなさって、なんとか糊口を凌いでいらっしゃいました。
特に砂糖の入手が困難で、甘みを出すことに大変ご苦労されたといいます。
しかし、戦後徐々に復興が進み、菓子屋も再建し始めると、砂糖や小豆など安定して仕入れることができる専門店の味には太刀打ちできません。店に置いてもらっても見向きもされなくなり、やがては店から店頭に並べることすら断られるようになりました。
そこで、病弱な身体を押して山深い村まで出向き、重労働の山の農作業の手伝いまでされて苦しい生活をされていましたが、さらに追い打ちを掛けるようにまたも住むところを追い出されます。都市部で空襲があり家を焼け出された人たち、戦後続々と復員された軍人さん兵隊さん方などで社会的に住宅不足が深刻化し、そのあおりを受けてサカエ様までも家主から退去を突きつけられたのです。
この状況に心を痛めた小学校の先生が、空き家になっていた古い建物があり、ここに住まわせてあげてもらえないかと西条市役所や愛媛県庁へサカエ様の窮状を訴える手紙を出しました。しかし、その手紙に返事が来ることはありませんでした。
この状況の中、先生に転勤の話が持ち上がります。西条市の背後には石鎚山という西日本最高峰の山があり、霊峰として修験者や参拝客、登山客で古くから親しまれていました。麓の国鉄予讃線がある小松町から、渓谷に沿った街道を石鎚登山者が行き交います。その観光需要(旅館業など)や林業を主産業にした石鎚村が広がっていました。村内には小学校と中学校が同じ敷地に併設され、そこへ先生が赴任されることになったのです。
■石鎚小学校・石鎚中学校の跡。廃校が決まり卒業生の要望で門柱が遺ります(2020年6月6日撮影)
石鎚の区域、走ってみて分かるのですが、平地が本当に少ないのです。村の入口、関門旅館のあたりに少しある平地は村役場や農協がありました。学校は高い山を貫く河原、おそらく土も運び入れて、浅いところに苦労して建設したものと思います。学校用務員が欠員になっており、教員方が雑務もせねばならずいろいろと不便をきたしている状況でした。
そこで先生が当時の石鎚村長に掛け合い、欠員となった学校用務員にサカエ様をご推薦されました。用務員室に住み込みもでき、住居の心配もなくなります。村長はサカエ様のご苦労の状況も先生から聞いて快諾され、学校用務員として採用されました。当時は小遣いさんと呼ばれていました。サカエ様は最初、中佐のご母堂様でいらっしゃることは一言も話されませんでしたが、どこからともなく噂で村の人たちにも知られることとなり、子供達からは「日本一の小遣いさん」と親しまれました。
当時は石鎚村まで電気が来ていません。来客の給仕や、鐘(ハンドベル)を振って時刻を知らせ、給食を準備し、と忙しくされましたが、用務員になられ子供達に囲まれて、ようやく落ち着いた生活を得られました。
また、関行男海軍中佐の恩給も海軍消滅で停止していましたが、いよいよ来年から支給再開になるとのこと、手続きに周りの方々が奔走され再開を待つばかりでしたが、受給を前にして病気により55歳で世を去られました。
また、当時の人たちが関行男海軍中佐のご母堂様にした「仕打ち」について、そんな事実はみられない、というコメントを見ました。しかし、これこそ後世の人間は何とでも言えるのです。
人間は団結をするために生け贄を求める。戦地で散々苦労して復員された方々、松本駅に到着したら全ての宿に宿泊を断られた。ダニやシラミを遺されたら困る、と。特別攻撃隊の隊員さんに選ばれた人たちが帰国したら「特攻崩れ」と言って非難する。戦地で地獄を見た人たちに「貴様らが弱いからこの国が負けたんだ」と鬱憤を晴らす。
枚挙にいとまがないほど、敗戦後のこの国の人間は、弱い人間をめざとく見つけ、これ以上もない弾劾、私刑のようなことをして追い詰める一方、極端に権力には媚びて、先祖を殺した裕仁を国民が賞賛する。
関行男海軍中佐のご母堂様に多くの方が接し、そのご苦労を多くの方が知るからこそ、後述しますが小説を書けるほどの分量になるのです。火元がないのに煙が立つなんてことはありません。
サカエさんが亡くなった際、戦時中は「軍神の母」につきまとっていた新聞記者が、「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」と吐き捨てるように言ったという。 |
---|
23歳特攻隊員「日本はおしまい」「妻を守るために死ぬ」無念と絶望…母は「戦争協力者」と貶められ(産経ニュース2014年10月23日掲載より抜粋)
関行男海軍中佐のご母堂様が、関行男海軍中佐のお墓まで毎週のように汽車で通われていたと、その姿をご覧になられた方から聞き及んでいます。それだけ、それだけ人生が厳しくつらかったという表れでしかありません。
石鎚小学校・石鎚中学校の訪問記はこちらです。
人を殺す、ということ
玉井は戦後、関行男海軍中佐のご母堂様に会っているのです。関行男海軍中佐に特別攻撃を強いた男です。生き延びて、「死ぬ時までずっと特別攻撃隊の隊員さん方の御霊を慰めるために仏門に入り、住職をしている」、と。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない運命(さだめ)になっている人間もいます。私は若いころ、空母の艦首に激突しました。ですから散華された部下たちの、張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がします。せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが。」 |
---|
ずいぶんしおらしく書かれているのですが、こういうことも伝わっているのです。
玉井浅一は戦後になって敷島隊が結成されたときの様子を、全員が目を輝かせて挙手をして志願者が集まったと回想していますが、当時の隊員の証言では玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだためしぶしぶ手を挙げた者が多かったと言われています。 |
---|
相馬高校の中野磐雄先輩と日本で最初の神風特攻隊(はてな村定点観測所より抜粋。
敷島隊の隊員さん中野磐雄海軍少尉のことが詳しく書かれています)
「目を輝かせて挙手をして」とウソをついても、はっきりと「死を強要していた」なんて証言まで出てくるのです。わたしが特別攻撃隊の隊員さんの立場だったら(優秀でないから無理ですが)、こんな人間の経を聞き、木魚や鐘の音を聞くたびにむしろ余計に恨みが出てきて「魂が鎮まる」どころか、余計に怒りが湧いて仕方がありません。こんな人間の経など何のご慰霊になるのか、と思うのです。
福祉もなにもない、空襲で家を焼き出され、お父さんお母さんを戦争で亡くした子供達がお腹をすかせてさまようしかない、地獄のような苦しい社会に裕仁が導いた。
そのような中で関行男海軍中佐というご子息がこれ以上もない熾烈な殺され方をされて、ご主人様もご子息もいらっしゃらない中、誰にも助けを求めることもできない女性たった一人、生きていかねばならなかった、その事実は厳然と残るのです。
そして、戦争が終わってからのうのうと生きるのはもってのほかですが、とはいえ、仏門に入ろうが自殺して責任をとったことにしようが、そのやったことは取り返しもできないし、帳消しもできない。人間みなみな自分ひとりのものではないのです。周りの人、社会と影響し合って生きるさだめだからです。
そのようなさだめがあって、世に生まれてきたのに、赤の他人がよそ様の生命を奪う。あるいはよそ様の生命を奪えと社会を導く。となると、償わなければならないのは「その人の送るはずの人生」分だけではありません。ひとりひとりのご家族の人生も狂わせ、社会の一隅を照らす尊い魂を霊にしてしまったのです。照らされるはずだった家族の暮らしや、社会の輝きも償わなければならないのです。
人ひとり殺しても大変なことなのです。ただただ大昔の僧侶が書いた経を読む程度のことで、その人の人生が回復するようであったらなにも苦労しません。何より、本来生きる続けるはずだった時代も人間関係も一度きりで、再現はできないのです。それを奪ったことの罪の大きさは、計り知れません。
人間は永遠に生きる。霊として。自分が殺した人間が先に霊界に待ち構えている。苦しく死なざるを得なかった方々には仏様神様がつかれてるのです。その人間だった霊達が自分を見つけたとき「こいつが俺を殺したんだ!」と大挙して押し寄せてくる。どれだけ恐ろしいことでしょうか。戦争に導いた者たち、すべてそうなることをやってのけているのです。そうならないように「良心」を授けられているのに、人間的な利欲で見て見ぬふりをした。「自分が生きていればそれでいい」と。
先に霊となられた関行男海軍中佐がご母堂様の貧しく苦しい生活を送られているのをみて、どれほど悔しかったか、苦しかったか、と思うのです。母に恥をかかせないように、立派に軍人として生きたと胸を張って言えるように、と死を受け入れ作戦を成功に導かれたのに、国は最低限住む場所食べるものに困らない程度の生活すら母に与えなかった、裏切られた、と。そして、これは多かれ少なかれ、どの軍人さん方兵隊さん方も抱かれた辛さだと確信します。
苦労した方の尊い記録で文学賞を狙ったばかりに嘘か本当か分からないようなものが世に残り、賞も取れず、歴史記録にも役に立たず。絶版となって消えていく
関行男海軍中佐のご母堂様、サカエ様のご事績について、ご本人関係者から聞き取った記録にあたりたくても、知る限り、小説しかありません。
あとがきに「関親子をモデルにしている。可能なかぎり事実をふまえているが、虚構をまじえて作品化したことを付記しておきたい。」とあります。
小説内では、のっけから例えば姓の「關」様を「梶」とし、中佐の名「行男」中佐を「昭夫」に、ご母堂様の名「サカエ」様を「サナエ」にと改変しているので読みにくくて仕方がありません。
著者は愛媛新聞社に勤務していました。ご母堂様関係の取材も新聞社のつてや情報を最大限に利用したことでしょう。ジャーナリズムに関わっているならば、得られた内容が後世貴重な史料にもなると考え、そのまま後世に伝えるという選択を取ることは考えなかったのでしょうか。
可能なかぎり事実を踏まえるのではなく、ノンフィクションとしてこのような苦しい人生をお送りになったのだ、とそのまま書けばよいのです。ただただ戦争でご子息が苦しい目に遭わされ、戦争賛美で遂行にご子息もご母堂様も利用され、あげく周辺の人たちから迫害される。
このような厳しい現実を受け入れざるを得なかった関行男海軍中佐とそのご母堂様の人生は、結局は「戦争は絶対にしてはならない」というひとつの教訓として純粋に遺されるべきだったのです。
この記念館もその意図で作成し、今ご覧いただいております。
著者自身も西条市出身、愛媛県立西条高等学校の卒業生(関行男海軍中佐の後輩)という経歴です。愛媛新聞社を平成4年に退職し、その前後に刊行されました。関行男海軍中佐親子の壮絶な死を利用して「作品化・商品化」するために、嘘を混ぜ、芥川賞を取ってヒット作にしたい、有名になって金儲けも、と実際に出版社に持ち込んだということでしょう。
格別の苦労されて世を去られた方々の「死」に虚構を混ぜ、読者にインパクトを与えて本を売る。証言した人たちも、ただただ著者が有名になること、著者が芥川賞を取って、ヒット作にしてほしいなんて願って応じるでしょうか。
そもそも、虚構を織り込む行為自体、関行男海軍中佐とご母堂の尊厳を傷つけ、証言した人たちの好意を踏みにじることと考えもしないのでしょうか。
史実になるものを手に入れながらそれに手を加え、上書きして商品として書かれたものしかこの世に残さなかった/残らなかった結果、将来の日本人が人生を考える指針となる記録のうちの一つを失ってしまった、とわたしにとっては残念でなりません。
もし記録としてのこされれば、学術的に使われる、そうするとずっとずっと長い期間、貴重なインタビューは生きるのです。金儲けのために、安っぽい小説にわざわざ仕立て直された結果、苦労した方々の記録が残るせっかくの機会をなくしました。
しかも小説。娯楽本という扱いですから売れなくなったら廃版です。虚構含みに仕立て上げたばかりに、単なる小説として、今後世の中から消えるでしょう。このことが現世にどれだけ大きな損失となったか、と嘆かずにはいられません。
しっかりとした史実が記録されている歴史のできごとは、派生した小説がいくら出されてもいいのです。真実とそうでないことの区別ができ、真実を知りたい人は史実に当たることができるのですから。
しかし、関行男海軍中佐とそのご母堂様という時代に翻弄され、苦しく生きた親子の史実に触れた当時の人たちが存命し、証言していただける機会は極めて短い。それに遭遇できる手段を持ち、取材ができた幸運な人間なのに、虚構仕込みで娯楽作品にしたばかりに真実がのこらない。
そして関行男海軍中佐のご母堂様の記録も後世に残らない。それも関わったのは新聞社の人間。立場を利用するだけ利用して、駄作を作ったといっても過言ではないと思います。
そして、西条のまちから関行男海軍中佐のご母堂様をおいやったのと同じようなこと、それは相手の気持ちに踏み込み、相手を貶めるようなこと、自分だけ満たされれば良いという悪意、同じ事をしているように思えてなりません。
関行男海軍中佐のご母堂様の人生について他に書かれたもの・言われたものが、この本を底本にしているとしたら信憑性に問題があります。けれど、他にまとまったものが見当たらない。
著者自身が「できるだけ」といい、できない部分は信憑性がわからない、このようなものを参考にしなければならない、ということが残念でなりません。
(謝辞) このページの戦没兵士の帰還の画像は、せんだいメディアテークのご協力をいただき、申請の上提供をいただきました。ご関係の皆様に厚くお礼申し上げます。