護國神社のご英霊拝観施設では「特別攻撃」をどう扱っているか
護国神社ごとに「ご英霊」に対する熱量は大きく異なる
護国神社、各地の道府県にあり、「県出身の」軍人さん方兵隊さん方をお祀りの対象とし、ご祭神としています。
◆幕末維新期以来、第二次大戦に至る戦役で没した人々祀る神社 |
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(宮崎県神道青年会サイトの護国神社の説明を要約)
例えば青森県護国神社にはこれらの方々の名前が地域別にまとめられて、おひとりおひとり名前が掲示されていたり、ご遺影を展示しているところもあります。
■祭神銘板の説明に、護国神社の趣旨も書かれています。(青森県護国神社/2022年5月18日撮影)
■青森県護国神社の祭神銘板(2022年5月18日撮影)
■青森県護国神社の史料展示室。小さいながらよくまとまっており落ち着いて拝観できます(2022年5月18日撮影)
■岡山県護国神社のご遺品の展示館は新旧二つもありました(2022年8月13日撮影)
軍人さん方兵隊さん方のご遺影やご遺品を、ご英霊のご行跡として拝観させていただける護國神社を訪問した範囲でまとめました。熊本縣、高知縣、廣島については神職にお伺いしたものです。いずれも2020年前後の情報です。
◆拝観施設がある護國神社 |
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拝観施設があるなしに関わらず、護國神社の神職の方々、いろいろ教えてくださり感謝申し上げます。建物の新旧も含め、展示の工夫や見せ方、説明に着目すると、護國神社ごと、また建てられた時代ごとに個性があります。
国が一律に軍人さん兵隊さんとして駆り立てていったのだから、一律に国の責任において彼らのご慰霊とご遺品を現世、そして後世に伝えていくべきだと思います。
こういうのは、現状、全部護國神社、あるいは自治体に丸投げしているのですが、護國神社もご遺族が多いところ、少ないところ、いろいろですし、自治体もこういったことを平和教育の一環として熱心に取り組むところと、腫れ物に触るように忌避しているところ、さまざまです。
軍人さん方兵隊さん方にとっては、自分の所属する護國神社を選ぶことはできません。ご遺品の展示すらしてもらえない軍人さん方兵隊さん方はどう思うでしょうか。また、個人であれ何であれ、結果的に資料が死蔵されるだけであれば、価値が活かせません。
特別攻撃をどう見せるか
そして、限られた中はありますが、これだけ訪問しても、特別攻撃隊の隊員さん方を取り上げて顕彰していらっしゃったのは、ただ福井縣護國神社のみなのも愕然としました。
■福井縣護國神社の特別攻撃隊隊員の展示コーナー(2019年9月15日撮影)
慰霊団体が同じ銅像をあちらこちらの護國神社に建てていますが、それはオブジェでしかない、と思うのです。
銅像に貼り付いた短い文章で、特別攻撃隊の隊員さん方の苦しみがどの程度伝わるでしょうか。
飛行服を着た少年軍人さんの勇ましい銅像、よほど気になって回り込まなければ何なのか、あるいは知っている人だけが価値を分かるモノよりも、知らない人間が見て、考え込むようなモノのほうがよほど値打ちがあります。
一見でこういう見方があるんだ、こういう背景でこのような苦しみを与えられた軍人さん方兵隊さん方がいるんだ、と数分でも立ち止まって示唆を与えてくれるパネルの、よほどよほど値打ちがあるでしょう。
どれだけご偉勲にパネル説明だけで迫ることができるかで、パネルの価値が決まる
資料を展示する護國神社でも、「戦争全体の経過」が俯瞰できるように年表や説明文を用意して、パネル展示までしている。そういう護國神社は多くありません。
ただ、説明要員を配置するわけではない以上、遺品を並べて「経過をパネルでみせる」ことこそ、その遺品が生きる、「モノが語る」ことができるのです。そのよい例として、徳島縣護國神社の展示パネルをご覧頂きたいと思います。
わたしからすると絶賛の迫力ある内容です。なにより戦史全体の説明を多数のパネルで展示し、わかりやすく説明も丁寧です。
時間があれば全体を、時間がなければ概観して、関心があるところをじっくり読む。これはパネルならではなのですが、徳島県護国神社のパネルは、ひとつひとつの項目に手を抜いておらず、核心となることはきっちりと伝えていて、とにかく迫力と読み応えがあるのです。
友人でご先祖が高砂義勇隊に参加、ニューギニア島のムンダで亡くなられているのですが、遊就館で「高砂義勇隊」の記載がなく落ち込んでいました。徳島で「薫空挺隊」まで、限られたスペースでありながらしっかり触れてあり、本当に「隙がない」と感じました。
逆に言えば隙があると言うことはそのことでご戦歿されたご英霊を無視すると言うことと同じですから、単に歴史解釈をしているのではなく、「説明を通したご慰霊」そのものを実践されているように思います。
■徳島縣護國神社「空で、海で、陸で、日本軍が展開した特別攻撃」パネル(2020年6月28日撮影)
■徳島縣護國神社「戦況の悪化と特攻作戦の展開」で特別攻撃の過程を年表で説明しています。赤線は当館が付けたものです。(2020年6月28日撮影)
特別攻撃についてはパネル2枚にもわたって説明があり、年表で関行男海軍中佐や敷島隊のことを明快に「軍神となる」とまで説明があったのには感激さえ覚えます。
徳島と愛媛の落差に目眩がする
同じ四国で、敷島隊隊長の関行男海軍中佐、隊員の大黒繁男飛行兵曹長の出身県である愛媛縣護國神社の展示パネルでは、どのように説明されているでしょうか。
■愛媛県護国神社の戦史説明パネルのうち、特別攻撃関係部分(2019年12月14日撮影)
■上のパネルの写真の説明文(愛媛県護国神社/2019年12月14日撮影)
この説明文ですと、この写真は「握手する松葉杖の司令を撮影したもの」でしかありません。
また写真にあるように「特別攻撃隊(敷島隊)」と隊名が入っていますが、説明本文(④各戦線での破綻…(玉砕・特攻…))にも他どこにも「敷島隊」はおろか、特別攻撃隊の文字はあっても説明がないのです。
隊名を括弧書きで表示してあるのは関心や注意を惹くためと思うのですが、拝観者が「知っているのが前提または当然」あるいは「自分で調べろ」では不親切すぎないでしょうか。少なくとも県出身者が大変な思いをして初めて成し遂げたことなのです。
このそっけなく貼り付けられた写真、この写真は、特別攻撃に関して言えば、第一級の写真です。
左端は神風特別攻撃隊敷島隊隊長、関行男海軍中佐(西条市出身)ですし、この敷島隊の隊員さんには県内出身者の大黒繁男飛行兵曹長(新居浜市出身)もいらっしゃいます。
これだけの功績を挙げられた方々が県出身者に関わらず、本文でそのことに全く触れないばかりか、彼らの写る写真をわざわざ掲載しながら、あえて「これは『司令の写真』ですよ」と説明をつけるというのは、どういう当てつけでしょうか。
しかもその司令の名前も挙げないのであれば、「握手」が写真の照準なのでしょうか。無理矢理に死ぬるを押しつけられ、上官は生き残る卑怯な人間ばかりです。
その形ばかりの握手を「すばらしいのだ」と絶賛する意図なのでしょうか。ますます理解不能です。
軍人さん方兵隊さん方の気持ちに心をよせていける貴重な光景の写真を使っているのです。
しかもそれに県出身者が映り込んでさえいるのに、何が目的かわからないような説明をつけているのです。
どうしてこんな情もないような説明を「護国神社が」平然とつけられるのだろうか、と思うのです。たとえ宗教色を排した県立の歴史博物館であったとしても、郷土出身者をぞんざいにすることはありませんし、折々に取り立てて展示するなど大切にするでしょう。
ましてや県出身の軍人さん方兵隊さん方は県護國神社にとって「ご祭神」のはず、この「ご祭神」がいらっしゃることでしか存立する意義がないはずなのに、こんな意味不明な扱いをしている。
果たして敷島隊の方々は、特別攻撃隊の方々はどう思われるだろうか、と考えてしまいます。
このことは何とも残念なことですし、護國神社間で必ずしも同じ説明をする義務がないからこそ、愛媛縣護國神社には隣県の徳島縣護國神社に負けないぐらいに、まずは彼らの功績を高く評価していただきたいのです。
中立的な歴史記述は、それこそ教科書や至る所の歴史博物館でさんざんされています。
しかしながら、「地元のご戦歿した軍人さん方兵隊さん方」を強く「推す」、博物館的な展示は護國神社、しかも展示施設を持つ護國神社しかできません。
せっかくの立派な展示施設があるのですから、前代未聞の苦しい作戦の先鋒は愛媛の出身者が担ったのだ、ということが迫力を持って拝観者に伝わるような、丁寧な説明文に改訂していただきたいと、切に願います。