最後の特別攻撃隊長 中津留達雄海軍少佐
故郷にある航空隊への移動
最後の特別攻撃隊の隊長を担われたのは、中津留達雄海軍少佐で、関行男海軍中佐とは海軍兵学校の同期生(第70期生)です。
海軍兵学校では卒業すると少尉候補生として現場へ出て行かれ、少尉、中尉と進級されていきます。関行男海軍中佐も中津留達雄海軍少佐も特別攻撃で戦死された時点の階級は大尉でした。
特別攻撃隊での戦死では少尉以上は2階級の特別進級があり、大尉であれば中佐になります。
しかし中津留達雄海軍少佐には適用されていません。中津留達雄海軍少佐は8月15日に特別攻撃でご戦歿されているにも関わらず、です。
1945年、鹿屋海軍航空隊に配属されていた中津留達雄海軍少佐。沖縄が米軍に占領された後、九州の各基地は沖縄への特別攻撃への基地となったこともあって、米軍から猛攻撃を受けます。
そのため、鳥取県境港の美保基地へ部隊が転属となりましたが、その頃中津留達雄海軍少佐にはご令嬢がお生まれになったばかり。
上官が気を利かしてご家族に会えるようにと、8月に故郷の大分へ配属されました。当時、第五航空艦隊司令部が鹿屋から移って、司令長官は宇垣纏(うがきまとめ)海軍中将になっていたことは、中津留達雄海軍少佐の人生を踏みにじる結果となります。
「終戦」への道筋を覆さないための苦しみ
8月15日に終戦の詔勅。戦争の指揮を執った者が「戦争の責任」をどう取るか。特に下士官を特別攻撃に追いやって「自分は死ぬ係ではないから」などと逃げ回る者もいた一方で、自殺を選ぶ者もいました。
宇垣は、終戦の詔勅(ラジオ放送)が終わると、中津留達雄海軍少佐の部隊に特別攻撃を命じます。少佐の部下達には戦争が終わったことを隠し、ただ自分の死に場所を求め、中津留達雄海軍少佐の隊を道連れにしたのです。
1945年8月15日17時。中津留達雄海軍少佐は隊長職であったので、部下を引き連れて、彗星11機は沖縄の伊平屋島の米軍基地へと向かいました。大分を出発してから沖縄までの飛行中、中津留達雄海軍少佐はどれだけ苦しまれたことでしょうか。
中津留達雄海軍少佐は、もしここで基地を攻撃したならば「終戦」が覆されると判断されました。「不意打ち」としてさらに戦争終結が困難になり、もっともっと国民が苦しい思いをする。
戦争が終結していることは、彗星に対して米軍基地から対空砲火がないことでも分かったことでしょう。
米軍基地では戦争終結を祝ってパーティをしていました。宇垣を乗せた中津留達雄海軍少佐の彗星は岩礁に、部下の隊員10機16名の若者は次々と水田へと突っ込み自爆されました。
中津留達雄海軍少佐にとっては「もう、戦争は終わったのですから、あなたと私は上官でも部下でもありません」、宇垣にそのように言い放つことができたらどれだけ良かったか。
また部下の方々も隊長が行くと言えば従わざるを得ない。苦しまれたと思うし、宇垣に従われた中津留達雄海軍少佐を苦々しく恨まれたかもしれない。
隊長機の彗星に宇垣はふんぞり返って座り、中津留達雄海軍少佐に対して空いた操縦席に「座れ」と言わんばかりに無言の圧力を掛けていたことでしょう。
ここに自分が座るのが命令であり、これに座れば奥様にもご令嬢にも未来永劫会えないということ。しかも戦争は終わっているはずということが念頭にあれば、余計に苦しまれただろうと思います。想像するだけでもう腹が立って仕方がありません。
ご戦歿後の不条理な仕打ち
さらにこの命令が無茶苦茶であったことで、中津留達雄海軍少佐の死後の待遇にも影響を与えます。ご戦歿時点では「大尉」でいらっしゃったのですが、その上の階級は「少佐」「中佐」「大佐」となります。
特別攻撃によるご戦歿は2階級の特別昇進とされたため「中佐」となるべきなのです。
しかし終戦の詔勅後「戦死」した人間を「特別昇進」することは、戦争終結を否定していると進駐軍に解釈されるのを恐れて、軍は1階級の昇進にとどめました。
これは名誉にも関わりますが、ご遺族に支払われる恩給も影響があります。
中津留達雄海軍少佐が遺されたもの
中津留達雄海軍少佐は、自暴自棄で自らの狭い視野から発した「敵に対して」特別攻撃をせよという宇垣の命令をはねのけ、自らの生命と引き換えに、祖国の戦禍を食い止められました。
宇垣の言うとおりにしていたら、終わる戦争が終わらなくなるところだったのです。
付き従われた部隊の方々も続かれ、皆々苦しい戦死を遂げられました。
国民を慈しむどころか、凄まじい戦禍へと導くようなクズの皇統が国のトップでいたばかりに、周りの国まで無茶苦茶にし、終戦のまぎわですらこのような惨事が起こる。
宇垣のような生命の尊さを理解せず、自分の死に他人を巻き込んでも平気でいるような人間ばかり自分のそばに侍らせていたばかりに、そして自暴自棄のために詔勅すら無視できるような人間があちこちにいたばかりに、戦争の終焉すら8月15日のラジオ放送でぱったり終了、とは行かなかったのです。
中将たる立場の人間が発した命令は「中津留達雄海軍少佐と16人の若者を自分の思惑で殺した」だけでも残酷であるのですが、それ以上に「戦争の終結を阻害し、一歩間違えればより過酷な戦況へと国を導き、国を転覆させ、さらに多くの国民を死に追いやり国が滅ぶ命令であった(しかも当の本人宇垣はヤケクソになって死んでいる)」という、国家が滅ぶような内容であった、ということは特筆しておきたいと思います。端的に言えば、国家に対しての裏切り行為です。
このようなクズ人間が多数軍の上層部にいて、宇垣の場合は、中将をやっていた。
多くの部下の命を預かる立場の人間が、大局を見ないばかりか、道連れを求めて若者を最後の最後に犠牲にする。
「死で戦争の責任をとる」という自己満足のために、本来「戦後を生きる」夢を摑みかけた部下から、生きる希望を奪い、全くプライベートな犠牲を強要し、結果犠牲となられた隊長・隊員さん方の特別昇進すらかなわかなかったのですから、どれほど罪深いことをしたかと思わざるを得ません。
そもそも、死して責任を取ると言っても、地位も名誉も財も得て、既に当時の長寿を得て人生充分謳歌した人間の死なんぞ、将来がある若者達の死と釣り合うはずがない、とわたしは考えます。
中津留達雄海軍少佐と隊員の方々は、宇垣という火種、それは言い換えれば「自分の納得のためには地位を利用し、人様の生命を巻き込んでも平気である」という、人間としてもどうしようもないクズの一人を引き受け、はては開戦を決めた裕仁の尻拭いをしてくださったうちのお一人に思うのです。
中津留達雄海軍少佐にとっては『「もう、戦争は終わったのですから、あなたと私は上官でも部下でもありません」、宇垣にそのように言い放つことができたらどれだけ良かったか』と書きました。中津留達雄海軍少佐は、一般人ならば悔やんでも悔やみきれないような時点での死への道程を受け入れ、最後の最後までしっかり軍人としての責務を全うされたのです。
ただ、自分が生き得ない日本の将来を見据えて、生命を捧げてくださったにも関わらず、また本来であれば2階級の特別進級ですら釣り合わないご労苦なのに、1階級のみの特別進級にとどまったのは、軍が中津留達雄海軍少佐の死の尊さを理解せず、進駐軍の顔色とを天秤に掛けた結果であり、悔やまれて仕方ありません。
中津留達雄海軍少佐は、戦後の階級がどうであれ、「軍人として」立派に生きられた。
宇垣の卑怯さが際立つからこそ、中津留達雄海軍少佐と付き従われた隊員さん方の死の尊さを思わずにはいられません。
【行き方】JR津久見駅で臼津(きゅうしん)交通(バス)乗換え。
◀中津留達雄海軍少佐のご墓所へ行くと、立派な「彗星」の機体模型が置いてあります。(2022年4月23日撮影)。
説明板にせよ、模型にせよ、中津留達雄海軍少佐のことをずっと伝えていきたい、そういう願いがひしひしと伝わってきます。
◀中津留達雄海軍少佐のご生涯を説明する看板が立てられています(わたしが撮影した物は老朽化で読みにくいためGoogle mapから)
◀穏やかな景観の湾内に、説明板のセメント工場が半島のように突き出している(2025年2月24日撮影)
◀津久見駅から久保浦団地行終点下車、バスはここで旋回して駅へ戻ります(2025年2月24日撮影)。
バスを降りて山側の住宅地を見ると、墓碑の位置案内看板があり、停留所から歩いて1,2分です。
この記事書くまで「うすつ」交通とばかり思っていました。