関行男海軍中佐のご一生(年表)
関行男海軍中佐のご事績
年表形式で関行男海軍中佐のご事績を紹介します(年齢は数え年表記)。
1921年(1歳) 8月29日 | 愛媛県西条市に出生される | |
1934年(14歳) 4月 | 愛媛県立西条中学校入学(第39回生) 西条中学校(盛実米穀サイト)
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旧制中学校(Wikipediaより抜粋) | ||
1938年(18歳) 12月1日 | 海軍兵学校入学(第70期生) | |
1941年(21歳) 11月15日 | 海軍兵学校卒業 | |
1941年(21歳) 11月15日 | 任海軍少尉候補生 戦艦「扶桑」乗組 | |
1941年(21歳) 12月8日 | (ハワイ真珠湾攻撃) | |
1942年(22歳) 4月 | 航空母艦「千歳」乗組(画像はWikipediaから) | |
1942年(22歳) 6月1日 | 任海軍少尉 | |
1943年(23歳) 1月 | 霞ヶ浦海軍航空隊 第39期飛行科学生 | |
1943年(23歳) 6月1日 | 任海軍中尉 | |
1943年(23歳) 8月 | 宇佐海軍航空隊 艦上爆撃機実用機教程 | |
1944年(24歳) 1月 | 霞ヶ浦海軍航空隊 隊付操縦教官 | |
1944年(24歳) 5月1日 | 任海軍大尉 | |
1944年(24歳) 5月11日 | 海軍大臣に婚姻願提出 | |
1944年(24歳) 5月26日 | 海軍大臣、婚姻許可 | |
1944年(24歳) 5月31日 | 結婚式挙行 | |
1944年(24歳) 9月 | 第251海軍航空隊(台南海軍航空隊)へ異動 | |
9月末頃「一人っ子、妻帯者は席を外せ」その後「フィリピンで特攻をやるので志願者は願書を出すように。」との訓示、同僚とともに願書を出される。 | ||
1944年(24歳) 9月25日 第251海軍航空隊異動の3週間後 | 第201海軍航空隊(航空隊本部:マバラカット飛行場)戦闘301飛行隊飛行分隊長 | |
関行男海軍中佐は艦上爆撃機を専攻・得意とされていましたが、艦上爆撃機は低速で損耗が激しいことから、海軍は零式艦上戦闘機を爆撃機として運用する方針に変更します。 関行男海軍中佐が第201海軍航空隊(戦闘機部隊)の指揮官に任じられたのは、艦上爆撃機のパイロットが戦闘機乗りの爆撃訓練と指導をし、隊長として指揮を執らせる方針があったためです。 しかし、第201空はダバオ誤報事件で零式艦上戦闘機の多数を失い、訓練をするほどの機体も残されていない状況でした。 | ||
1944年(24歳) 10月19日 | 神風特別攻撃隊 敷島隊隊長 | |
1944年(24歳) 10月21日 | 出撃、敵機動部隊発見できず帰投される | |
1944年(24歳) 10月22日 | 出撃、敵機動部隊発見できず帰投される | |
1944年(24歳) 10月23日 | 出撃、敵機動部隊発見できず帰投される | |
1944年(24歳) 10月24日 | 出撃、敵機動部隊発見できず帰投される | |
1944年(24歳) 10月25日 | 出撃、特別攻撃にてご散華される(享年24歳) 同日、奇しくも乗艦された千歳が撃沈される | |
1944年10月28日15時 | 海軍省、連合艦隊司令長官名で戦果を公表 | |
1944年10月29日 | 新聞各紙、初の特別攻撃を第一面で取り上げる | |
1944年10月25日付 | 任海軍中佐(ご戦功により2階級特別進級) | |
■数え年…生まれた時は1歳。その後1月1日を迎えるたびに1歳加齢 ■満年齢…生まれた時は0歳。翌年の誕生日の前日が終了して1歳加齢 |
数え年と満年齢
戦後間もないころまでは、数え年で年齢をとなえるのが一般的でした。このため、上の年表は数え年で表記しています。
明治以降、法律的には満年齢を基準とする、と規定しながら社会ではまったく浸透していなかったので、戦後以下のような法律を出して数え年を排除しました。興味がある方はリンク先を読んでみてください。例規集など法律に関する書籍編集の専門出版社のブログです。
年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年法律第96号) |
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「数え年」から「満年齢」にした理由とは?(法律トリビアより抜粋)