関行男記念館

関行男海軍中佐のご一生(年表)

関行男海軍中佐のご事績

年表形式で関行男海軍中佐のご事績を紹介します(年齢は数え年表記)。

1921年(1歳) 8月29日愛媛県西条市に出生される
1934年(14歳) 4月愛媛県立西条中学校入学(第39回生)


西条中学校(盛実米穀サイト)
西条中学校第39回生は1939年3月5日卒業

「四修」による上級学校への進学
1918年(大正7年)の高等学校令改正以降、戦後の学制改革に至るまで、旧制中学校(5年制)の4年生は、卒業を待たずに(1年の飛び級をして)、上級学校たる高等教育機関(高等学校、大学予科、高等師範学校、専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、高等商船学校など)に進学できた(四修)。
第一高等学校、第三高等学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、東京商科大学予科などの難関校(「一高三高陸士海兵」などと列挙した)に四修で進学するのは秀才の誉れであった。

旧制中学校(Wikipediaより抜粋)

1938年(18歳) 12月1日海軍兵学校入学(第70期生)
1941年(21歳) 11月15日海軍兵学校卒業
1941年(21歳) 11月15日任海軍少尉候補生 戦艦「扶桑」乗組
1941年(21歳) 12月8日(ハワイ真珠湾攻撃)
1942年(22歳) 4月航空母艦「千歳」乗組(画像はWikipediaから)


1942年(22歳) 6月1日任海軍少尉
1943年(23歳) 1月霞ヶ浦海軍航空隊 第39期飛行科学生
1943年(23歳) 6月1日任海軍中尉
1943年(23歳) 8月宇佐海軍航空隊 艦上爆撃機実用機教程
1944年(24歳) 1月霞ヶ浦海軍航空隊 隊付操縦教官
1944年(24歳) 5月1日任海軍大尉
1944年(24歳) 5月11日海軍大臣に婚姻願提出
1944年(24歳) 5月26日海軍大臣、婚姻許可
1944年(24歳) 5月31日結婚式挙行
1944年(24歳) 9月第251海軍航空隊(台南海軍航空隊)へ異動
9月末頃「一人っ子、妻帯者は席を外せ」その後「フィリピンで特攻をやるので志願者は願書を出すように。」との訓示、同僚とともに願書を出される。
1944年(24歳) 9月25日
第251海軍航空隊異動の3週間後
第201海軍航空隊(航空隊本部:マバラカット飛行場)戦闘301飛行隊飛行分隊長
関行男海軍中佐は艦上爆撃機を専攻・得意とされていましたが、艦上爆撃機は低速で損耗が激しいことから、海軍は零式艦上戦闘機を爆撃機として運用する方針に変更します。
関行男海軍中佐が第201海軍航空隊(戦闘機部隊)の指揮官に任じられたのは、艦上爆撃機のパイロットが戦闘機乗りの爆撃訓練と指導をし、隊長として指揮を執らせる方針があったためです。
しかし、第201空はダバオ誤報事件で零式艦上戦闘機の多数を失い、訓練をするほどの機体も残されていない状況でした。
1944年(24歳) 10月19日神風特別攻撃隊 敷島隊隊長
1944年(24歳) 10月21日出撃、敵機動部隊発見できず帰投される
1944年(24歳) 10月22日出撃、敵機動部隊発見できず帰投される
1944年(24歳) 10月23日出撃、敵機動部隊発見できず帰投される
1944年(24歳) 10月24日出撃、敵機動部隊発見できず帰投される
1944年(24歳) 10月25日出撃、特別攻撃にてご散華される(享年24歳)
同日、奇しくも乗艦された千歳が撃沈される
1944年10月28日15時海軍省、連合艦隊司令長官名で戦果を公表
1944年10月29日新聞各紙、初の特別攻撃を第一面で取り上げる
1944年10月25日付任海軍中佐(ご戦功により2階級特別進級)
■数え年…生まれた時は1歳。その後1月1日を迎えるたびに1歳加齢
■満年齢…生まれた時は0歳。翌年の誕生日の前日が終了して1歳加齢

数え年と満年齢

戦後間もないころまでは、数え年で年齢をとなえるのが一般的でした。このため、上の年表は数え年で表記しています。
明治以降、法律的には満年齢を基準とする、と規定しながら社会ではまったく浸透していなかったので、戦後以下のような法律を出して数え年を排除しました。興味がある方はリンク先を読んでみてください。例規集など法律に関する書籍編集の専門出版社のブログです。

年齢のとなえ方に関する法律(昭和24年法律第96号)
 第1項
  この法律施行の日〔※注:1950年1月1日〕以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律(明治35年法律第50号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。

「数え年」から「満年齢」にした理由とは?(法律トリビアより抜粋)