人間が獣にさせられる――食糧なき戦地の果てに

表現の峻烈さについて

亡くなられた方々の苦しみにこころを寄せていくうちに、時代の構造や責任の所在を曖昧あいまいにすることは不誠実であると考えるに至りました。関行男記念館で、峻烈な表現をあえてそのまま提示しているのは、そのためです。

特定個人への攻撃や賛同を意図したものではありません。読むに耐えなければ、いつでも中断してください。

地域名の表記について

このページには「支那」「朝鮮」と記述する部分がありますが、心を傷つけることを企図したものではありません。地域を政府や統治体制によらずに表現する言葉として、やむなく使用するものです。ご了承願います。

最高権力者が戦争を決めたおかげで、敵味方双方が人間性を奪われ、獣にされて殺される

国民がどれだけ戦禍に逃げまどうような事態でも、「やんごとなき面々」は贅沢な暮らしを享受できた(信州戦争資料センター様のTweet)

帝都で偉そうにしている者たちは戦時中であろうがびっくりするような食事を摂っているし、戦地でも軍高官用にはそれなりのものが用意されるにも関わらず、それらはすべて庶民を犠牲にしたもの。

前線で奮闘させられている軍人さん方兵隊さん方にまで絶対的に行き渡らない食糧。そもそも国内で人口が増え、食糧不足ですら、朝鮮などに頼ろうとしていた国ですから当然です。本土の食糧不足の10~20%を「移入」という言葉で朝鮮や台湾から収奪していました。

このような状態で、どうして日本から大陸や広大な「占領地」に補給が十分にされるでしょうか。戦地でも兵隊に喰わせるメシがない、となっていよいよ「徴発」という名目で軍が略奪を許します。これも言葉による「略奪」「収奪」の正当化です。

戦争で荒れ果てた土地、耕作地にも火を放つようなことをし、毒を投じるようなことをやって、ますます食糧争いが熾烈になる。想像以上の惨状と交戦の激しさの上に、「人間食べられなければ死んでしまう」本能の生存欲求まで覆いかぶさってくる。みなみな血眼になって「生き延びるための食糧確保」のために「死んでしまう」「殺されてしまう」という本末転倒なことが、戦地全体に拡大し、そうしていく間にもどんどん確保した食糧が減るものだから、過激さを増していくのです。

裕仁の軍、皇軍の「皇」とイナゴの「蝗」を掛けて、蝗軍と揶揄されました。一斉に畑の作物を食い荒らす蝗に例えられた日本兵がやってくる、食料が奪いつくされ、略奪のために殺すことも厭わない、と恐れられました。

さらに、「糧食は現地調達せよ」という命令は、無理やり軍服を着せられた質の悪い兵隊たちの「暴虐の公認」にもつながりました。

憲兵は横暴を働き嫌われていましたが、警察権を持っています。しかし、戦線が拡大し、内通・スパイ容疑の取締まりで手一杯になると、腐敗した部隊を「軍紀」で取締る役割まで手が回りません。

占領地の治安維持に努力していた部隊があった一方で、現地の人たちに横暴に横暴を重ねる、残虐な部隊が統治した地域は、治外法権のようなありさまでした。

老人から奪う食糧(昭和12年11月頃、南京追撃戦)

民家には住民の残る家もあるが、足腰の立たぬ老人のみ放置して逃げる家族等色々で、老人や病人だけ残る家で「僅かの食糧だ残して置いてくれ」と手を合せて哀願する老人に、「残して置いてやろうや」と言うと、兵は「俺達が残してやっても、後から後から来る兵が持って行くから同じだ」と言い、兵は根こそぎ攫えてゆく。しわだらけで醜い老人が哀れに思えるが、これも戦場の敗残国の掟か。

市街を荒らし廻る日本兵(昭和12年11月25日頃、無錫市)

兵達は、此処で当分警備と達せられると、翌日も翌々日も落付いて徴発の名の下に三、四名から数名でグループを組み市街を荒して廻った。
食糧は勿論、酒、煙草、貴重品、これ等は兵の一番好む品であり、住民は不在であり、物資は豊富。兵達は思い存分徴発して、色々の物を見せ合っては喜び、御馳そうを作って楽しそうであった。

無錫市攻略時における日本軍の蛮行(昭和12年11月25日頃)

放火して「俺はこれで何軒目焼いた」と言い、「俺はこれで何人目殺した、何人目犯した」と自慢しあい、何処に何がある、何処に女がいると、兵の間には直ぐ伝ってゆく。
「何処、其処にこのきれいな娘の写真があったので何処か隠れているかも知れん、探しに行くか」と言う者、「何処にこんな女がいる」と言うと、目の色変えて、二、三人でボソボソ密談していたと思うと、いつの間にか消えて行くグループ。

日本兵の蛮行が繰り返される上海戦線(昭和12年8月頃)

(住民に向かって)四発目を放そうとした石川の腕を押込み、三発射って当らないのだ、もう許してやれと。然し兵達は試し切りや銃殺で支那人を虫ケラの如く殺して楽しんでいるような風情が見られた。
兵達は、飢餓と恐怖に脅える住民から略奪し、或は女を姦し度胸づけや、試し切りで絶えず住民を血祭りにあげ住民達を当然のように簡単に殺してゆく。

(歩兵第43連隊、陸軍軍曹)

玉井清美『侵略の告発-暴虐の上海戦線日記』, 教育出版センター, 1984, 175, 197, 204ページ

一方で、攻め込んだ側の日本の軍人さん方兵隊さん方に立ってみます。

「戦地で窮乏があっても補給がある、それまでの数日耐え忍ばなければならない」としてそれなりに欠乏をしのぐ術は教育があったと思うけれども、実際に「食料の補給はいつになるのかわからない、来ないかもしれない」ということは生死に直接つながり、絶望・動揺は相当だったでしょう。

最初は出征する軍人さん方兵隊さん方皆に「五族協和」なんて夢を見せられ、現地に着いてみると略奪が正当化され、誰が味方で誰が敵か分からなくなっていく。やがてタガがはずれて殺人・強姦と凶暴さを増していく。現地の人たちの憎しみを一身に受けながら、自分もいつ殺されるかわからない。食べるものすらろくにない中で、人間が獣にさせられていく。

民家に押し入り、水がめに隠れていた中国人を引きずり出した。上官に「桑原やれ」と命じられたが弾が出ない。ほっとしていたら、「弾が出ないなら銃剣で刺せ」と。その時の手の感触が、書いてありました。

 強烈だったのは、中国軍のトーチカ(コンクリート製防御用陣地)を攻撃した時の体験談でした。山の上にあるトーチカに向けて攻め上っていくのですが、上からはバンバン撃たれる。弾も水も補給がないまま攻撃を続け、味方も殆ほとんど死んでしまった。ようやく相手の陣地に飛び込んだら、中国兵が8人か10人か、死んでいたそうです。足を鉄の鎖につながれて逃げられない状態で。

 その光景を見た父は「愕然とした」と記していました。「中国兵も日本兵も、2等兵は大変や」というような同情を、従軍記に書き残しているわけです。そんなことが次から次と、つづられていました。

大久保真紀 「おやじ何人殺しとんねん…」元日本軍兵士のDVに耐え続けた家族が見つけた“陣中日記”の真実, ダイヤモンドオンライン, 2025.11.8

これほど残酷なことがあるでしょうか。足枷をつけられた兵隊さん方。相手の国の兵隊も日本の兵隊も血みどろになっては累々と死体になっていく光景。こんな中で「自分たちは生きて郷里へ帰れないのだ」と悟られて、絶望の中で観念しなければならない。

死んで霊になるまで戦わされ、それは霊になってからも続く。記憶が壮絶だからこそ、死んでも死を自覚できず幻覚の中で戦い続ける。ご成仏なさるまで、これらの兵隊さん方は日本の兵隊の応戦をさせられるのです。

水瓶に隠れていた人も、生き延びたかったが見つかって殺されてしまった。そして、それをやる皇軍も相手の国の兵隊たちも、お母さんが一生懸命産み育まれた男の子なのです。いったい何のために、こんなむごいことをやりあわなければならないのか。

資源が欲しいなら、裕仁が頭を下げて「売ってください」とお願いすればいいだけなのに、一体どんなプライドが「人様の国を力で押さえつける」「生命を踏みにじる」決定を促すのか。睦仁の日清日露戦争での勝利があまりにもまぶしく、「天皇とはこうあるべきだ、自分もそうなりたい」と天皇の「地位」に酔いしれていたと思うのです。

庶民は食わずに戦うことを強要され、挙句「徴発」というお墨付きを得た

攻め込んだ日本人も攻め込まれた周辺国の軍人さん方兵隊さん方も、何のために戦っているのか分からなくなりながら、自分の生命を護るために、相手の生命をむしりとることを強要し、強要されました。絶望の中開き直るしかない。「徴発」が許されている。食料の略奪にはじまり、財産の略奪、挙句女性の尊厳の略奪、人命の略奪にまで平気で繰り返すやけっぱちの日本の兵隊たち。それもこれもみな、皇統に、裕仁に、普通の「社会人」の立場をはく奪されて、「父親」でもなくなり、「人間」でなくなる道をつけられたことに端を発するのです。異国の人に恨まれながら殺される。当然その地で弔ってくれる者はいない。友軍、戦友すら自分の敗退に必死で、弔いなんてしている余裕がない。彼らの生命の炎が消え、「何のために生きてきたのか」とご戦歿せんぼつのあとどれほど苦しまれるでしょうか。

そればかりではありません。それがその土地の「怨恨」として語り継がれていくのです。なんとか戦火を逃れても蝗のように食糧を奪いつくしていき、抵抗して多くの国民が殺戮されたのだ、這ほう這ほうの体ていで戦火から逃げ切っても、手持ちのわずかの食すら奪われて生きながらえることもできなかった。それが「反日」の意識となり、それはその国の為政者にとっても格好の国まとめる手段にも利用されながら、立場の弱くなった日本の外交にくびきとなって影を落とし続けるのです。

自分たちがこれほどの理不尽を、苦痛、屈辱をどうして受けなければならないのか、特に攻め込まれた側の「恨み」は当然です。

そしてスメラギの「聖戦」とやらで攻め込むことを強要された、日本の庶民もただでは済みませんでした。

陸軍の軍人さん方兵隊さん方が、お腹を空かせて死ぬ。陸軍の兵隊さん方の4割が餓死であるという惨状。国民皆から巨額の金を貢いでもらっていながら、「戦争によって社会矛盾を解決する」なんて安易な方法しか浮かばず、力でねじ伏せることを決めた為政者。これだけ国民を殺した実績をもつ皇統に、そもそも国民に養ってもらうだけの価値はあるのか、疑問に思えて仕方がないのです。

そして、戦争を起こし、終戦となっても恨みや憎しみはずっと続いていく。元の状態に戻るためには大きなマイナスから始めなければならない。これを「国難」と言わず何を国難というのでしょうか。そしてこの「国難」を招来させたのは、他でもない開戦を決められる人間です。

謝辞

このページではTwitter 前原様公開の日本陸軍が支那の治安戦で起こした出来事の書籍の引用を紹介しており、掲載に当たってご許可を戴きました。厚くお礼申し上げます。

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