関行男記念館 | いのちの尊さと人生を考えるために
いのちと引き換えの名誉――「軍神」
1944年10月25日。
フィリピン・レイテ沖に向けて出撃した
海軍中佐 関行男は、帰還しなかった。
彼は「軍神」と呼ばれた。
しかし、その前に一人の息子であった。
石鎚山に抱かれ、燧灘に面した
水都西條に母は、ひとり残された。
国家が与えた「軍神の母」という名誉は、世間の耳目を集めた。
しかしそれは、関行男海軍中佐の「いのちそのもの」に
果たして見合うだけのものであっただろうか。
上辺だけの記号を、親子は欲しただろうか。
「その後の暮らし」も国家は与えることはなく、
残ったのは「名誉」だけだった。
このサイトは、
軍神を讃える場所ではない。
また、戦史を整理する資料館でもない。
奪われた息子達とお母さん方の幸せを、
国家が作った「物語」から取り戻すための場所。
戦況の窮迫の中で選ばれた攻撃作戦は「特別」とされた。
「志願するか! しないか!」と上官が言葉を荒げる。
国家の作戦として突き付けられた「死んで来い」、
それは断じて依頼でも懇願でもない。
作戦として提示された時点で、
命令なのだ。
上官の命令を、若い彼らが拒めるはずがあろうか。
出撃は個人の決断として語られた。
しかし作戦は、個人では決定できない。
若い彼らの目の届かないところで、
自分たちの生きる死ぬるが秘密裏に決められる。
ご子息の帰りを待つお母さん方の願いとは裏腹に、
はるか遠く届かないところで
「爆弾の照準を定める部品」として我が子を殺す準備が
着々と進められていた。
その準備がいつの間にか整い、人選がされ、初の特別攻撃隊が出撃した。
戦争で死ぬることがない血統は
その報告を聞き、良心に問うこともしなかった、
「これはやっていいことなのか否か」と。
遥か高みだからこそ、自国の、そして相手の国の国民の
庶民の苦しみすら見えないとおかしいのに、
それが視野に入らなければ、入れる努力をしなければならない立場のはずなのに
この人の眼には、そして脳裏には一体何が映っていたのだろうか。
庶民の、将兵の苦しみは国境を越えた。
庶民の暮らしの苦しみは「戦争で解決する」と遠いところで決められた。
束の間の「戦勝」は、麻薬だった。
これを為政者の思惑のままに打たれて、国民は浮かれる。占領された土地の国民も日本軍を歓迎している、
皇軍万歳、天皇陛下万歳と。
新聞も本質を隠し、統制された絶頂部分だけを見せるものだから、
飛ぶように売れて、戦勝記事の中毒になっていた。
しかし、一気に酔いが覚める瞬間が来る。
順番が回って来たのだ。
依頼文でも、通知書でもない。「令状」が届く順番が。
犯罪を犯したわけでもないのに「參著スベシ」という明朝体の大きな文字。
「おめでとうございます」と、届けに来た人間は深々と礼をする。
先に「踏みつけられた」同じ庶民の気持ちが突き付けられる瞬間。
「一体何が目出たいのか」と思っていても口にできない。
そして、気が付かされる。
かつて打たれた麻薬は、
「ほかのお母さんにとって、かけがえのない、愛しい子供の死」と
引き換えに得た麻薬であったこと。
自分達は例外ではなく、たまたま遅かっただけのこと。
「宣戦布告」は「愛する人を失うこと」だと。
普通の暮らしは奪われて、
形のない「国のかたち」=「国体」を護るための人身御供にさせられる。
挙句に相手の国の人様を殺すことまでも強要される。
決めた人間はその庶民を盾にはするが、庶民に降りかかることには関心がない。
ついには
若者たちを武器の部品に使い装填することすら、
「愚策」とすら判断できない鈍感さだった。
むしろ「作戦」と信じて疑わない。
だからこそ「大元帥」は宣った、
「よくやった」、と。
「いのちは尊い」と考えるならば、このような言葉を口にできるだろうか。
そもそも、両国の庶民を地獄と悲しみに突き落とすようなことを決めるだろうか。
国民には折り合わない隣の家の住人とすら「隣組」で仲良くしろと言いながら
スメラギを筆頭とした国家は、思い通りにならなければ、拗ねて国際連盟の椅子を蹴る。
それも端緒は「人様の領土を占領したいという思惑を否定された」と言って駄々を捏ねる。
こんな国をそもそも国際社会はまともに相手をするだろうか。
世界からつまはじきにされて、戦争で難題を片付けようと決め、
絶対に離れることができない隣国を下に見て、
仲良くする努力もそこそこに、隙を伺う。
重大な裁可でスメラギを通らないものはない。
世界はおろか味方である軍人さん方兵隊さん方にも、そして国民にさえ「真実を隠し通す」ことがまかり通った。
報道機関も権力と一体化して、「周りの国と仲よくしよう」なんて一言も言わない。
仕立て上げた「敵」と命懸けで戦わせるよう、準備を整えていった。
「さあ皇國の威信を広めるため、異国の民と戦え!」と。
命令通り、庶民出の若者たちはいのちを賭けて戦った、懸命に。
戦わされた。 誰の為に?
死んでしまえばそれで人生終了だ。
だからこそ「何の為に戦うかを懸命に探しながら」懸命に戦った。
故郷に帰るために、お母さんを思いながら。
帝都から目が届く範囲なんてたかが知れている。
にも関わらず、自らの目が届かない程に、君主は戦線を広げることも躊躇がない。
遥か異国で斃れていく国民は、ただの「兵力」だからか。
「身の程」を弁えず世界に挑みかかった結果はただ、
自国の、そして「敵」に仕立て上げられた隣国の人達をも
空を仰ぎ、嘆きながら霊に変わりゆく場、
苦しみと悲しみの場を
新たに用意しただけだった。
他国民と言い、自国民と言い関係なく「殺しに殺しまくるよう」庶民に下命したのは誰か。
軍隊の通り過ぎた後には美都久屍、草牟須屍が累々と続き、
日本に何の怨讐もなかった人たちが無惨に殺され、死体が累々と続き
農家が家族同然で育てた馬まで「軍馬」と仕立て上げられ、彼らもたった一頭すら故郷へ帰れなかった
幼少から忠孝を事あることに説きながら、最大の恩義あるご両親へのご孝行はさせてもらえず
赤の他人である皇統への忠義ばかり要求され、いのちまで奪われた。
ご遺書には「孝行として、お母さんに自分のいのちを捧げる」と多く書き遺された。
しかし親にとって、我が子が死体となることを親孝行だと思えようか。
彼らの「こころ」が宿っていた体躯は、鳥や動物、大魚の餌となり、
異臭を放ってバクテリアにまで喰らわれて、骨にさせられた。
忠義を尽くした相手がもたらしたものは「こんなどうしようもないところで死ね」、ということ。
死んでしまえばそれまでになる、
そこに手を合わせてくれる血の通った人間すらおらず、友軍は全滅し、あるいは「自殺」を強要された。
それをそのまま書くのは流石に気が引けるものだから、「玉砕」の文字が躍る。
本当に「玉」のように尊いものであれば、どうして砕くようなことを強要するのか。
海で、遥か離れた孤島で、大金を掛けないと行けないところ、国境警備が厳しいところで骨になった戦友たちに
現代人の誰が思いをかけて、そこまで足を運んでくれるだろうか。
大皇乃敞尓許曽死米 と称えられた「大君」なる者は
死ぬる兵卒たちの思いに応え、死ぬる彼らの傍らで、いのちが尽きるのを嘆いてくれただろうか。
そもそも、ちっぽけな自分一人の死に、涙を流すひととの出会いも「宣戦布告」と言うもので奪われたのだ。
生きておれば、愛する人がいて、或いは愛する人ができて、涙を流してくれたやも知れぬ。
命令通りに懸命に、勇敢に戦ったのに
大君は宣うた。自分の「方面が悪い」と。
戦友たちを含めた自分達の戦いは否定された。
見ていたのは自分ではなく「方面」。国民の死ではなく「戦果」だけだった。
戦わされた。 何の為に?
国は破滅した。それが当然であるかのように。
こんな人間に国の命運を握る資格があったのだろうか。
そして、
「国民を死地に追いやるような『国体』」を
いのちを賭けてまで
家族のいのちを差し出してまで
庶民が護り、維持するほどの価値は
そもそもあったのだろうか。
そんな血統が続くこと、それ自体を
なぜ、庶民はいのちを賭してまで支えねばならなかったのか。
国民の「親」と教科書で教えられたのは何だったのか。
将兵方は、「国民の親」は「赤の他人だった」と戦場で思い知らされる。
親が自分の子を爆弾に括りつけるのか。
そもそも、親が子供が惨たらしく殺されることを容認するのか
赤の他人だからこそ、殺せるのだ。
村中の人々から旗振り見送られた。
「悠久の大義」という言葉まで用意され、
「崇高な自己犠牲の象徴」に祭り上げる準備も
「軍神」ばかりでない美辞麗句が周到に用意される。
戻ることはお母さんに恥をかかせることになる。
逃げ道は巧妙に塞がれ、無造作に置いてあった。
死ぬる選択肢だけが。
象徴にされて「いのち」は消え、
本当の気持ちも遺させてもらえない。
自分たちのいのちを死体にしては踏みつけて、
あたかもそれが当然であるかのように生き延びる血統にすら
「万歳」と書かねばならなければ、
最期の手紙すら、お母さんに届けてもらえない。
なんとか心配させないようにと、何度も、何度も、書き直し
悲痛を懸命に押し殺した、一通の手紙がお母さん方に届く。
「がんばってきます」
と。
関行男海軍中佐のはがきにしても
あわただしく「青春」と「人生」を味わわんと、ご母堂様に送られている。
軍人であるのに、生と死につながるのに、戦争について一切お書きになっていない。
そのすべての郵便には「檢閱濟」と
雑にスタンプが押されていた。
涙も、迷いも、ご子息を懸命に育てたお母さん方の声も、
もう遠い昔のことで、
英雄譚のようにさえ語り継がれるようになってしまった、今。
特別攻撃隊の隊員たちは、
国家が意味づけした「英霊」の中でも極めて異質な存在である。
数多の戦歿者と同列には語れない。
それは、「命令されて」生きると死ぬるの狭間に立たされ、
「国体」というものによって殺された、ということ。
味方であるはずの軍が、部下である軍人を「命令して殺す」という。
世界に類例をみないということは、「思っていてもやらなかった」ということ。
「倫理」も「軍の恥」もあるからこそ、どこの国も手をつけなかっただけであって、
この国は「人としての『情』」さえないから、手段も外聞もなく冷酷なことをやりおおせる。
これは本当に自軍が決めたことなのか。
こんなものを「特別」攻撃と名付けること自体、ほかの攻撃とは違う、ということ。
つまりは「酷であることは分かってやった」という、
どうしようもない証明が、命名そのものに表れている。
彼らは人生の楽しみを奪われた代償に、
哲学的な苦しみを与えられた。ここで死ぬ意味を、生きた意味を逡巡させられる。
死ぬ寸前まで、いのちの炎が消えるときまで、
そして死んだ後までも続いていく。
冷たく頑丈な鉄の塊に、あたたかな血が通った身体を爆弾と共に破裂させ、
故郷の記憶も、お母さんの記憶も、消去し
霊になることを強要された。
24歳の関行男海軍中佐。そして10代の予科練を卒業したばかりの若者達。
明晰な頭脳を持ち、鍛え上げられた身体は、
甲板の上に、洋上に肉片として散らばり、
フカがその肉を喰らう
これほど残酷な事実、いのちがむざむざ捨てられるような作戦に
「制止を上奏できる人間」はおろか、
「大元帥たる宣戦布告をした人間」すら
まともに注意を払わず、そもそも関心を示さない。
だからこそ、終戦間際まで、いや終戦後も特別攻撃は続いた。
彼らこそ、未来の日本に生きるべき方々であったであろうに、
誰が殺す名簿に振り分けたのか。
「俺は『死ぬ係』ではないから」と逃げた高官もいる。
逃げたいのは誰も同じではないか。それでも庶民の若者達は
「他のいのちが生き行く為に」と懸命に操縦桿を振るい、
いのちをお母さん方に捧げられた。そして尊い魂となられた。
彼らは「お母さん!」と叫ばれることはあったとしても
どうしてそんな間際にまで「自分たちの死を見過ごし続けたような人間」に、
「万歳」などと叫ぶだろうか。
関行男海軍中佐は話された
――「僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない」、と。
現代の同年齢の若者達よりもずっと有能な方々が皆、「天皇万歳」と
杓子定規のように一律に称えながら、亡くなられただろうか。
わたしたちよりも、ずっと有能な方々が。
落とし込まれた構造の中で
生きるを中断する「意味」を探そうと必死でもがき、
答えの出ぬまま「国の体制を護るために」殺された。
命令一下、6,000ものご子息の魂が「部品」に変えられてしまったこと。
これほどの不条理が、どうして「忠義」だなんだと美辞麗句で
単純な美談にすり替えられ、語り継がれていくのか。
一方でどうして、「犬死に」とまで言われなければならないのか。
現代人が作り上げた「立場」に死した彼らが納得していると考えるならば
そもそもその視点は、彼らと同じ場所に立っていると言えるのだろうか。
庶民が「欲してもいない戦争」を庶民ではない人間が決断し、
やれ高原でのデートだ、結婚だ、出産だとその度に国民から、
そしてご主人や息子を殺された遺族からも祝儀をせしめながら
そのくせ「宣戦布告」の責任を問われると貝のように黙り込んでは、
結局何も責任を取らずに霊界へと去った。最期に何千年前様式の時代遅れの山のような墳墓まで
香典として庶民の血税から奪って。
――関行男海軍中佐のお墓は、お母さんが亡くなった後にようやく建てられた。
一家が全滅した原子爆弾や空襲の苦難を被った人たちはお墓すら、お参りしてくれる人すらいない
挙句千鳥ヶ淵霊苑には「名前すらわからない」という、庶民を馬鹿にしたようなご墓所がある
兵士に仕立て上げる時には戸籍や役場の人間、
特高警察や憲兵までも駆使して、地の果てまで追いかけていくのに
ご遺体が誰のものか、どこでどういう風に亡くなられたのか
最後にどういうことをおっしゃっていたのか
死んだらその人間は「国にとっては用なし」そのものではないか、「名前すら追求し尽くさない」ということは。
ここまでこの国は冷淡なのか、到底戦死は報われぬことだと思い知らされる。
いくらきらびやかな地位であっても、同じ血が流れる人間のはず。
その人間のひとつが選ばれて、「昔の人間の都合」で最高位の序列をつけられた。
そして脈々と受け継がれて誇るものは、その血筋の善政ではなく、単に「長さ」だけ。
庶民が「国難」を招くわけではない。なのに昔から、庶民は国難の度にいのちを擦りおろされてきた。
可良己呂武
須宗尓等里都伎
奈苦古良乎
意伎弖曽伎怒也
意母奈之尓志弖
――私の服の裾に取りすがって泣く子供たちを、
(あの子たちにはもう、守ってくれる母親もいないというのに)
残したまま、私は遠い死地へ来てしまった。
遥か昔の万葉集の時代から、やんごとない人間はいのちを護られ、
庶民はいのちも人生も、その供物にされる。
侍従は、戦争責任を問われ「辛い」と漏らす君主に対して
こう慰撫する。
「もう過去の歴史の一こまにすぎない。」と。
高みにいる人間そのものだけではなく、とりまきからでさえ
庶民の「いのち」はこの程度の認識なのか。
明治に作られた軍隊手帳の冒頭に書かれている文章:
――死ハ鴻毛ヨリ輕シト覺悟セヨ
鳥の羽よりも軽い庶民のいのちは、
勅諭にしてここまであしらうようなことを言われてしまえば、
死に直面して「辛い」と声にすることもできない。
それをいいことにか、死ぬる後には、君主はおろか、腹心までもが
庶民のいのちを平然と軽視する、冷淡な言葉を吐くのだ。
君主にいのちを奪われた者たちは、人間として価値がないとでも言うのか。
戦後8月が来るたびに周年が繰り返され、
その度、戦争は「遠い出来事」になる。
慰霊式典では、戦争を決めた血統を高いところに据えたまま、
戦争を決めた血筋こそ、ひとり反省せねばならぬはずなのに、
その戦争で苦渋をなめた被害者そのものである先祖をいただく国民にまで
「戦争の反省」を要求し、
「戦争はもうしません」と
一緒に頭を下げさせられる。
そもそも庶民たちの誰が
「人様の国の領土を、資源を、『大切な家族のいのちを差し出してまで欲しい』」と
願っただろうか。
プロパガンダを巧妙に準備して、勇ましい掛け声を発していたのは誰だろうか。
そして戦争に反対する人間に「非国民」などという残酷なレッテルまで用意したのは誰だろうか。
さらには責任の「隠蔽工作」が巧妙すぎた。
特別攻撃を命令した側の人間に
「特別攻撃隊の隊員たちの代表」として腰を据える席を設けること。
「ご英霊」だと「戦争の被害者」を祀る役を担う者たちが、
回り巡ってきた幣帛料なる「庶民の血税の分配」を喜び、
「国民を殺す道を決めた側」により深く傅くこと。
この矛盾を当時の人間はおろか、現代人までも気が付かせない。
そして、何十年も時間が経過した。
このような世界が続くようでは、到底
戦争が正当化されて、若者の戦死を意味づけし、
過去の物語も再利用しながら「庶民を好き勝手に活用する」社会が再来しても
何らおかしくはない。
国の代表も象徴も庶民自身の側に置かれること。
特定の血脈の独占や、密室で決まる「権力の選抜」「権力の専制」を許さないこと。
庶民も権力に白紙委任しているか自問し、
自らの運命を自らで決し得る社会にする努力を地道に続けること。
これをしなければ、再び国が庶民を供物にするのかどうか、
怯え続けなければならない政治がやってくる。
大国の世界支配の思惑で放たれた、一瞬の閃光で焼き殺された人々。
大事にしてくれる両親を奪われ、社会を彷徨うしかなかった子供達。
郷里から切り離されて、異国で虐げられた外国人達。
両親と自分のルーツを求め、言葉を忘れた「祖国」へ訪問する、かつての幼き日本の子供達。
あまたの「生き得たはずの人生」が、
「普通に人生を送るはずだった生涯」が中断させられ、
生き得た人たちにも熾烈な人生が待ち構えていた。
こころにも身体にも大きな痛みと傷を伴う人生は、
宣戦布告がなければ決して、あり得ないものだった。
言葉で表せない程の辛酸を嘗めさせられた方々は、
数百万どころか、人間はつながりで生きる。
そのつながりの先にある人々、敵に仕立て上げられた人たちのつながりをも含めれば、
数千万人に及んでも不思議ではない。
彼らは望みもしないのに、早くに霊の世界へ連れて来られた。
人間が生を終えてやってくる世界。
そればかりではない。
人様を虐げた人間、
部下のいのちを下敷きにした人間、
他人の痛みに無関心でいた人間たち、
自分だけが生き延びればそれでいいと、行動に移した人間たち。
そこへ、ずいぶん遅れて、
「現世で何ら責任を取らなかった人間」もまた、やって来る。
人様の「いのち」を粗末にした人生を送った人間達は、死して必ず来るべき場所に、
果たして居場所があるのだろうか。
関行男海軍中佐に特別攻撃の道をつけた者たちは、
そして戦争が終わるまで誰一人として
このような惨いことはやめようと言わなかったことは
君主が国民のいのちを、国を護らんとする尊き魂たる将兵達のいのちを
死ぬことが仕事と言わんばかりにさつりくしたことの責任は
そしてなにより「開戦を決めた」「国民を死地に追い込んだ」ことの責任は
もう現世では、誰も問わないのか。
生き遺っても、霊となった家族を想って悲嘆に暮れ、
最低限のくらしさえ保障されぬまま行き詰まる。
息子と過ごした日々を積み重ねた土地を追われ、
関行男海軍中佐のご母堂様は、ご縁のなかった山深い村で生涯を終えられた。
それが「自分の生涯そのもの」の記憶となり、
罪人でもないのに、烙印の跡のように忘れさせてくれないのであれば、
あまりにも理不尽で残酷ではないか。
同じような境遇を経たお母さん方も逝かれた霊の世界で、
息子や主人のいのちを奪い、またその道筋をつけたかつての人間は、本人はもちろん、ご遺族にどう相対するのだろうか。
関行男海軍中佐に特別攻撃を命じた人間は、関行男海軍中佐のご母堂様に、どういう言い訳をするのだろうか。
「平和」という言葉ほど、
輪郭のはっきりとしない概念はない。
ただ「戦争という状態であるか否か」という現実だけがある。
戦争になる、ということは
「そのスイッチを握る者が存在する」ということ。
国難だというのに、その「国難」に立ち向かわされるのは庶民だけ。
なぜか「見下ろすだけでよい人間」がいて、
心配している素振りを見せるだけでいい。
庶民が一番死ぬるのに、
庶民の手の届かないところで切り替えられる。
庶民がよそ事に目を向けている間に周到に戦争の準備が進み、
報道はそれに無視を決め込む。
政党の後押しで国を代表する放送局の局長が決められるような人事がされているのでは当然ではないか。
新聞も、テレビも、思惑を隠しながら、巧妙に隣国を「外敵」に仕立て上げて
日本人が行う悪政こそが理由の生活苦を「外国人のせいだ」と報道機関が煽る。
真実を伝えることを報道機関は何度放棄してきたことだろうか。
そして、庶民の視線が「どうでもいいこと」に釘付けにされているその隙に、
社会では何が起きたのだろうか。
スイッチが切り替わる。
我々の先祖はそれを体験させられた。
体験させられたがゆえに、この世にいることができなくなってしまった。
供物にされた国民は、「国体」とやらで護る対象にすらしてもらえない、という
強烈な教訓を遺して。
そして赤の他人に忠孝を押し付けられ、愛しい人に愛情を注げないような道筋と、
死んで来いなどという無茶苦茶の善悪すらわからないような人間が国を統べる、
これほど非情で頼りない世界に、我々は生を享けている。
戦争がはじまり
若者が少なくなったこの国で
特別攻撃隊そのものだと批判を受けるから
巧妙に別の名前が付けられて
「国の体制を護るために」と庶民が窮地に追いやられるような時代が来てから
自分がもっと若い、或いは経験の浅い人たちを引き連れて
「このように死ぬのだ」と手本を見せないといけない立場にさせられたら。
戦死を強いられた若者たち。
その死の物語に箔が付き、
その時代の空気感が失われ、
遠い過去の物語となったときこそ
危険だ!!
20世紀前半の庶民がその血と引き換えに
関行男海軍中佐をはじめとした特別攻撃隊の方々
ほうぼうでいのちを踏みにじられた将兵方と庶民の犠牲と引き換えに
後世の日本人にもたらしてくれた、
「戦争のない時代」。
やんごとない人間に下敷きにされた庶民に畏敬のこころを抱き、
戦争がない時代こそが「尊い時代、有難い時代」として、
そのまま、その幸せを後世の人たちにも、手渡してあげたい、
そう願える人間であるかどうかが、問われている。
自らの先祖たる将兵方から、
そして未来、この国に生を享ける人たちから。
「『庶民だけに』生きる死ぬるの苦しみを強い、
周辺国の国民をも巻き添えにする戦争を決めたような『血統』」を
いのちを賭けてまで
家族のいのちを差し出してまで
庶民が護り、維持するような値打ちは
これからもあるのだろうか。
そして、
自ら戦禍をもたらしながら
いのちの危機が迫るや
国民のいのちを盾とし、自己の血脈の維持を優先するばかりか
庶民には苦難と辛酸のみを 高みから畳み掛けた血統に対して、
子孫ばかりか新しい世代の国民が
――盲目的に日の丸の旗を振り、
「スメラギイヤサカ」などと唱える姿を。
軍人さん方兵隊さん方を「ご英霊」とまで持ち上げながら
加害者と両天秤に掛けるどころか、
庶民より加害者に重きを置く祭祀を行う神社を。
苦しみに満ち溢れた人生を送られた 軍人さん、兵隊さん方、
戦禍に受け身になるしか術がなかった、かつてのこの国の庶民の方々、
そして理由なくその戦争の被害に巻き添えとなられた周りの国の方々は、
どうご覧になられることだろうか。
関行男海軍中佐のご母堂様が、送られた
故郷の西條にあるいくつかの神社のお守り。
お母さんのこの願いと祈りは
神であり、親であったはずの為政者たる皇統には通じなかった。
この同じ悲しみと苦しみを
後世のこの国に住む、庶民の親と子が
経験するような道筋が、いま、着々と進められている
ここは告発の場でもなく、
しかし、沈黙の場でもない。
敬意をもって、尊厳を擁護し、
怒りをもって、構造を見据える。
上辺だけでない「いのちの尊さ」を知ろうとする人達に
ここに記された「峻烈な表現」ですら
「奪われた、いのちの輝きの『哀しみと尊さ』を代弁するに到底足りぬ」、
そう思える人達に。
いのちの尊さと人生を考えるために
――関行男記念館
