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関行男記念館

いのちの尊さと/人生を考えるために

はじめに ―― 新しい「戦前」に抗うために

戦争を起こし金儲けをしようとする奴が必ずいる。
そんな奴は国を守るためとか、日本のためとか、勝手な理由をつけて戦争に駆り立てるが、騙されるんじゃないぞ(中沢啓治『拍子木の歌』より)

Twitter はだしのゲン/中沢啓治Bot

今、わたしたちの周りでは再び、血なまぐさい妖怪が甦ったかのような報道が飛び交い始めています。軍事増税を一方的に決め、周辺国へ不穏な言動を発しては撤回せず、身内からは核戦争の準備を示唆する発言まで飛び出す。首相となった人間の仕事は、戦争の支度をすることなのでしょうか。自らの言葉が持つ、取り返しのつかない重さを理解しているのでしょうか。

仙台第2師団戦没兵士の合同慰霊祭
戦歿せんぼつされた兵士の帰還, 仙台第2師団戦没兵士の合同慰霊祭

わたしは今、強い危機感の中にいます。 かつて、若者たちの尊いいのちが「国のため」という言葉一つで、まるで消耗品のように扱われた時代がありました。その過酷な時代の象徴とも言えるのが、日本初の特別攻撃隊「敷島隊しきしまたい」の隊長を命じられたせき行男ゆきお海軍中佐です。

なぜ、「戦争がないこと」を希求するはずのオンラインミュージアムで、このような厳しい社会情勢や統治体制を語るのか。それは、戦争は「ある日突然始まる」のではなく、言葉が荒廃し、いのちの価値が軽んじられる「空気」の中から、じわじわと、しかし確実に準備されるものだからです。

戦争という、庶民にとっては苦しみと哀しみしか生み出さない惨禍を繰り返さないために。 今、この時を「新しい戦前」にさせないために。 そして、若者や国民すべての生命が、再び皇統や支配層、権力の下敷きになる世の中を拒むために。 願いを新たにせずにはおられません。
関行男記念館が、皆様方の思索の一助となれば幸いです。

記述・表現の峻烈さについて

当館には峻烈な表現を用いている記述がありますが、これらはあえて削ったり柔軟な表現に言い換えたりしておりません。かつて、社会への遠慮から誰も声を上げなかったことが、結果として権力の横暴を許し、「いつの間にか戦争」が始まる土壌を作ってしまったこと。その果てに、名もなき庶民が命を奪い合う時代が到来したという歴史の教訓を、庶民たる心ある方に伝えたいのです。

特定の個人を攻撃することは目的ではないのです。時代が変わればわたしも、またここに挙げた存命の人たちもやがて霊になるときがくるでしょう。そうすれば、過去の話と捨ててしまうのでなく、これを読んでいる時代の当てはまる人間に置き換えて考えてもらえば、過去の出来事がずっと活かされます。

関行男記念館は、わたしが関行男海軍中佐の「無念さ」や「くやしさ」を思い、特別攻撃についてのさまざまな史料と対峙した個人的な思索の結果であり、思い至った切実な心情です。だからこそ峻烈でありこれをありのままに提示する――、峻烈な言葉の向こうにある「生命の尊さと人生を考えていただく」という大きな目的のために、当館は開設されました。

わたしは、皆さんに「この考え方が正しい/広まってほしい」といった大それたことは考えていません。この広い世界の片隅に、こんな考え方をする人間がいる/いたんだ、というところから、個々の良心に基づく思索を深めていただければそれだけでいい、と思っています。

読みにくければ、あるいは読むに耐えなければやめていただいていいし、わたしの考えに必ずしも賛同する必要もありません。

考えることをやめたときに、戦争が起こるし、実際に起きました。再び庶民同士が血で血を洗い、権力者がその結果をワクワクしながら見ているなんて惨禍が起こってはならないし、そうなってから(=権力者どもが外堀を埋め切ってから)考え始めても遅いのです。記述は特定の個人を攻撃する目的ではないことを重ねて申し上げるとともに、峻烈な表現についてもご理解いただければ幸いです。

引き裂かれた母子の絆 ――「軍神」の鎧を脱ぎひとりのこころある人間として

太平洋戦争の末期、多くの優秀な若者達が生きながら「死んでこい」と命じられた「特別攻撃」が始まりました。

軍はこれを「事後報告」しましたが、それに対して制止できる権限は大元帥たる天皇にしかありません。これに裕仁は「よくやった」と答え、追認したのです。

このことで特別攻撃という無茶苦茶で到底作戦と呼べないものによって、6,000名もの若い国民が殺される道筋がつけられました。

このような「人間を部品として使い捨て、自国の軍人に想定もしない死を強要する無茶苦茶」が生まれ、「よくやった」と言ってのけたやりとり。裕仁には「この国に不足する資源をよそ様の国から奪うこと」から始まり、「自国民の『いのち』を下敷きにし、他国の人々の『いのち』を奪うこと」の恐ろしさへの自覚や覚悟がどの程度あったのだろうか――そう考えずにはおられません。

国の資源が底を尽き、多くの国民のいのちが霊へと変えられてもなお、『勝ち戦をしたい』という妄執にしがみついたからこそ立ち止まらない。その思惑は「強欲」そのものではないでしょうか。そのような思惑にかなうよう発案され、推進されたのが『特別攻撃』そのものなのです。

この無茶苦茶な作戦を一番に押し付けられたのが最初に編成された特別攻撃隊の隊長、愛媛県西条市ご出身のせき行男ゆきお海軍中佐、そして彼が率いた敷島隊しきしまたいと名付けられた部隊の5名の隊員様方で、ご出身も愛媛県、福島県、京都府、宮崎県と全国各地に及びます。

関行男海軍中佐は、未亡人となられたご母堂様が、女手一つで懸命に慈しみ育て上げられた、たった一人のご子息でした。

次々とたおれゆく国民を尻目に、1944年10月25日、関行男海軍中佐が特別攻撃命令でご散華されるやいなや、そのご戦歿せんぼつは「国民の厭戦気分の封じ込め」のために華々しく使われました。軍やマスコミは裕仁の推し進めた戦争が継続できるよう、従属する報道機関を最大限に活用します。

特別攻撃でご戦歿せんぼつされた方々は、報道機関の格好の餌食になりました。引き裂かれた親子の深い情愛を「軍国美談」へとすり替え、「軍神」と「軍神の母」という偶像にし、新聞や雑誌、ラジオなどで「軍神に続け!」ともっともっと苦しい戦況へと国民生活を追い込む材料にしたのです。

「命令によって『自国の軍人の生命を自国の軍が殺しにかかる』ほどに追い詰められた戦況」でありながら、元帥たる裕仁がそれを直視しなかったばかりか、速やかに負けを認め敗戦を決定させなかったことで、どれほど多くの国民くにたみと、周りの国の国民くにたみが苦しく殺され、霊にされてしまったことでしょうか。

さらにこの裕仁の「諦めの悪さ」こそが原子爆弾完成(殺戮実験準備)までの時間稼ぎとなりました。国民のいのちを慈しむような人間であれば、メンツもかなぐり捨てて、もっと早くに降参していたでしょう。

あれまでボロボロにならないと「終戦」の決意ができなかった裕仁こそが「地球上に原子爆弾が世に姿を顕すのに手を貸し、国民を被爆者にさせた張本人」だと思うのです。

皇統は、国民くにたみの生命を盾にしながら、その生命の尊さを理解することなく、ただただスメラミコトたる自己と自己の家族の生存と、その血統が維持されればそれでよいという考え方であること、すなわち皇統の血脈維持が国民の死や苦しみに優先するという考え方である、ということが、幕末から皇統が関わる全ての戦争が如実に証明しているのです。さらには大東亜・太平洋戦争で「敗戦」したときにどう処理したか、というのが最も象徴的に表れています。

そして敗戦。マスコミもGHQからの廃刊命令を恐れて戦争、特別攻撃、そしてご遺族の苦しみすら否定するような報道で社会を扇動します。孤独となられたご母堂様は、広告塔にされて注目を浴びたばかりに、ご子息の死すら理解されず、西条のまちの人たちから迫害されて息も詰まるような社会にひとり放り出されました。

特別攻撃隊の隊員様方は、生と死にまたがるご存在です。

関行男記念館は、その端緒として隊長を命じられた関行男海軍中佐、特別攻撃隊の隊員さん方、そして苦難の末戦争で生命を奪われた数多の方々と、西条のまちを追われ、石鎚山麓の小学校で用務員として働きながら、静かに、しかし毅然としてご子息を想い続けたご母堂様のご生涯を通して、国家の無慈悲によって奪われた「いのちの尊さ」を考え、「いのちのありがたさ」、ひいては「生きるとは何か」「死ぬるとは何か」を問いなおすきっかけとしていただくために開設されました。

更新情報・お知らせ

お知らせ 随時更新しています。石鎚小学校の掲示からお越しいただいた方、関連の記事は、こちらです。
2026. 1. 30
関行男海軍中佐のご事績を加筆しました。
2026. 1. 25
静まりかえった石鎚村のタイトルを"静寂の石鎚村 ―― 消えゆく「村と関行男海軍中佐のご母堂様の記憶」"に変更し、加筆しました(たくさん)。
2026. 1. 20
このページに以前書かれていた内容は、ご挨拶へ移動しました。
2026. 1. 19
関行男海軍中佐のご母堂様の苦しみのうち「母の碑」について追記しました。
2026. 1. 18
静まりかえった石鎚村関行男海軍中佐のご母堂様の苦しみを加筆しました。また当館は長文のページが多い中で、「ご紹介リンクを閲覧してから戻ったとき」や、「ページの再読み込み」をしたときに、ページの先頭に飛ばされる(特にページの下の方だと不便極まりない)挙動について、前に見ていた位置へ戻れるよう修正を施しました。
2026. 1. 16
静まりかえった石鎚村関行男海軍中佐のご母堂様の苦しみを加筆しました。
2026. 1. 4
特別攻撃とはを加筆しました。
2026. 1. 1
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
このページの『はじめに』を加筆しました。
2025.12.30
このページの『はじめに』を加筆しました。
2025.12.28
このページの『はじめに』を更新し、原子爆弾による大量殺戮を加筆しました。
2025.12.26
戦争の本質を加筆しました。
2025.10.25
「哀悼の誠を捧げる」なんて、どうしてこのような仰々しく、いかにも自分が偉いような、もったいぶった表現が流行っているのだろう。たかが人間、ただただ祈ることしかできないのに、それを「誠」と自分で持ち上げることに恥ずかしさはないのだろうか。
それが、自分たちよりももっともっと苦難に満ちた人生を送られ、その時代を引き受けてくださった方々に対してなのですから、ただただ傲慢にしか思えないのです。
昨日上京しました。靖國神社にて関行男海軍中佐、敷島隊の隊員様方、そしてあまねく自国と他国、ことこの国の皇統が「敵」として踏みにじった数多の戦争の犠牲となられた方々の魂のご安寧をお祈りしました。
2025.10.19~25
戦歿せんぼつから81年81年前の10月19日、関行男海軍中佐が敷島隊と名付けられた特別攻撃隊の隊長に任じられます。21日から敵迎撃に出撃されましたが、出撃されれば敵艦影見当たらず帰投される、これが5日間連日におよびました。
通常ならば「生還できて良かった」と言える戦いが、「死んでこい」が命令であったということ。霊にならなければ解放されないということ。
関行男海軍中佐も敷島隊の隊員様方もどれほど肉体的にも特に精神的にもご疲弊され、苦しくいらっしゃったでしょうか。2025年はご散華されて81年目にあたります。
2025.8.29
お誕生日関行男海軍中佐のご生誕日(1921年 8月29日)でした。
誕生日ケーキ
今年は熊本県菊池市でお祝いしました。, 2025.8.29
2025.5.27
関行男記念館開設
2025.5.13
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