最後の特別攻撃隊長――上官に殺された中津留なかつる達雄たつお海軍少佐

表現の峻烈さについて

亡くなられた方々の苦しみにこころを寄せていくうちに、時代の構造や責任の所在を曖昧あいまいにすることは不誠実であると考えるに至りました。関行男記念館で、峻烈な表現をあえてそのまま提示しているのは、そのためです。

特定個人への攻撃や賛同を意図したものではありません。読むに耐えなければ、いつでも中断してください。

最初の特別攻撃隊長に命ぜられたのは関行男海軍中佐ですが、最後の特別攻撃隊の隊長を命ぜられたのは関行男海軍中佐の同期にあたる、中津留なかつる達雄たつお海軍少佐でした。中津留達雄海軍少佐のご事績をご紹介します。

故郷にある航空隊への異動

中津留達雄海軍少佐
中津留達雄海軍少佐。
海軍兵学校第70期生アルバムの班別写真から

最後の特別攻撃隊の隊長を担われたのは、中津留達雄海軍少佐で、関行男海軍中佐とは海軍兵学校の同期生(第70期生)です。

海軍兵学校では卒業すると少尉候補生として現場へ出て行かれ、少尉、中尉と進級されていきます。関行男海軍中佐も中津留達雄海軍少佐も特別攻撃で戦死された時点の階級は大尉でした。
特別攻撃隊での戦死では少尉以上は2階級の特別進級があり、大尉であれば中佐になります。
しかし中津留達雄海軍少佐には適用されていません。中津留達雄海軍少佐は8月15日に特別攻撃でご戦歿せんぼつされているにも関わらず、です。

1945年、鹿屋かのや海軍航空隊に配属されていた中津留達雄海軍少佐。沖縄が米軍に占領された後、九州の各基地は沖縄への特別攻撃への基地となったこともあって、米軍から猛攻撃を受けます。
そのため、鳥取県境港の美保基地へ部隊が転属となりましたが、その頃中津留達雄海軍少佐にはご令嬢がお生まれになったばかり。
上官が気を利かしてご家族に会えるようにと、8月に故郷の大分へ配属できるよう図られての異動でした。

「終戦」への道筋を覆さないための苦しみ

彗星の機体模型
中津留達雄海軍少佐のご墓所へ行くと、立派な「彗星」の機体模型が置いてあります。, 2022.4.23
中津留達雄海軍少佐のご生涯を説明する看板
中津留達雄海軍少佐のご生涯を説明する看板が立てられています。下に文字起こしをしましたのでご覧ください。,
Google mapから設置当初の画像を転載

8月15日に終戦が伝えられる。戦争の指揮を執った者が「戦争の責任」をどう取るか。特に下士官を特別攻撃に追いやっておきながら、いざ責任を取る覚悟が問われる場面で「自分は死ぬ係ではないから」などと逃げ回る軍高官もいました。
中津留達雄海軍少佐にとっては、郷里への人事異動でしたが、鹿屋から第五航空艦隊司令部が移り、宇垣うがき纏まとめが司令長官になっていたことで、人生を奪われます。

宇垣は、ラジオ放送で終戦が伝えられた後、中津留達雄海軍少佐の部隊に特別攻撃を命じました。少佐の部下達には戦争が終わったことを隠し、ただ自分の死に場所を求め、中津留達雄海軍少佐の隊を道連れにしたのです。

1945年8月15日17時。中津留達雄海軍少佐は隊長職であったので、部下を引き連れて、彗星11機は沖縄の伊平屋いへや島の米軍基地へと向かいました。大分を出発してから沖縄までの飛行中、中津留達雄海軍少佐はどれだけ苦しまれたことでしょうか。

中津留達雄海軍少佐は、もしここで基地を攻撃したならば「終戦」が覆されると判断されました。「不意打ち」としてさらに戦争終結が困難になり、もっともっと国民が苦しい思いをする。

戦争が終結していることは、彗星に対して米軍基地から対空砲火がないことでも分かったことでしょう。
米軍基地では戦争終結を祝ってパーティをしていました。宇垣を乗せた中津留達雄海軍少佐の彗星は岩礁に、部下の隊員10機16名の若者は次々と水田へと突っ込み自爆されました。

中津留達雄大尉
1922年~1945年

1922年大分県津久見つくみ町(現津久見市)に生まれる。セメント会社に勤める父親と教師の母親の一人息子。

幼少時代から水泳が得意でかつ成績優秀、県立臼杵うす中学(第38回生)では庭球部の選手として、県大会にも出場する。

1938年に難関の海軍兵学校(第70期生)に臼杵中学からただ1人合格。1941年11月に卒業する。

巡洋艦「北上」、さらに駆逐艦曉に乗込む。その曉は1942年11月12日から15日にかけての死闘、第3次ソロモン海戦(1942年11月。連合軍ではガダルカナル海戦と呼称)で撃沈される。水泳が得意の中津留は、16時間の漂流の末、奇跡的に命拾いし、無事掃国する。

その後、第39期飛行学生となり、名パイロットとして名を馳せ、大分の宇佐海軍航空隊(宇佐基地=地獄の部隊)の教官として、パイロットの養成に努めた。

1945年7月に第701海軍航空隊 攻撃103飛行分隊長になる。

同年8月15日午後5時(敗戦を告げる玉音放送後)に、山本五十六連合艦隊司令長官の元参謀長で当時、沖縄航空特攻作戦を指揮した第5航空艦隊司令部長官であった宇垣纏中将を後部座席に乗せて沖縄に特攻出撃(当時の最新鋭機「彗星」11機)、新婚1年4か月の妻と、3週間前に生まれたばかりの愛娘の鈴子を残して死亡した(戦後死)。享年23歳。

城山三郎著『指揮官たちの特攻一幸福は花びらのごとく』(新潮社)では以下のように推測している。

その夜、特攻機は沖縄・伊平屋島の米軍基地に到達した。日本の無条件降伏で米軍の勝利が確定したことから、米軍の対空砲火を受けなかった。明々と電灯がつけられた同基地では、平和と勝利を喜ぶパーティの最中であった。明るい基地の様子に、特攻が国の命令ではなく、宇垣長官の独断と自己満足であることを悟った中津留は、特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突したのである。続く部下機も、また基地を越えて、水田に自爆した。

なお、翌8月16日早朝、沖縄・伊平屋島の岩礁に突っ込んでいる彗星を米軍が発見、機体から3人のご遺体を収容したが、その中に飛行服を身に着けていない遺体があり、所持品の中から短刀(山本五十六の形見)が発見された(宇垣中将の特攻機ではないかと推測されている)。

新妻を残してレイテ沖に散った最初の特攻関行男大尉に対して、中津留は最後の特攻隊長といわれている(両大尉は海軍兵学校第70期の同期)。

ご墓所に建てられた説明, [引用の一部を引用者が修正])

中津留達雄海軍少佐にとっては「もう、戦争は終わったのですから、あなたと私は上官でも部下でもありません」、宇垣にそのように言い放つことができたらどれだけ良かったか。
また部下の方々も隊長が行くと言えば従わざるを得ない。苦しまれたと思うし、宇垣に従われた中津留達雄海軍少佐を苦々しく恨まれたかもしれない。本当の意味で「喜んでついていく」なんて心の底から思えるだろうか。「郷里に帰れる、お母さんに会える」のが目前だったのです。
そもそも、中津留達雄海軍少佐の大分への異動にしても、「郷里のこと、家族のことなど軍人さん方兵隊さん方にとっては念頭にないんだ」という主張であれば、あり得ないことになってしまう。

隊長機の彗星に宇垣はふんぞり返って座り、中津留達雄海軍少佐に対して空いた操縦席に「座れ」と言わんばかりに無言の圧力を掛けていたことでしょう。
ここに自分が座るのが命令であり、これに座れば奥様にもご令嬢にも未来永劫会えないということ。さらには戦争は終わっている筈はずということが念頭にあれば、余計に苦しまれただろうと思います。しかも相手は司令長官という身分。どれだけ腹立たしいことでしょうか。

〈長官のすぐ前の操縦席で発進準備中の長身の士官が俯うつむき気味に計器を点検している。その後姿を見た瞬間、えも言われぬ「悲愁」と「無常」を感じ、しばしそのお姿を見つめていました。〉

筆者は、神戸商業大学(現神戸大学)出の頴川え良平主計大尉。学生飛行連盟に居ただけに、操縦員中津留の後姿に人一倍痛切なものを感じてのことであった。

城山三郎『指揮官たちの特攻』,新潮社, 2001

ご戦歿後の不条理な仕打ち

さらにこの命令が無茶苦茶であったことで、中津留達雄海軍少佐の死後の待遇にも影響を与えます。ご戦歿時点では「大尉」でいらっしゃったのですが、その上の階級は「少佐」「中佐」「大佐」となります。
特別攻撃によるご戦歿は2階級の特別昇進とされたため「中佐」となるべきなのです。

しかし終戦が伝えられた後に「戦死」した人間を「特別昇進」することは、戦争終結を否定していると進駐軍に解釈されるのを恐れて、軍は1階級の昇進にとどめました。
これは名誉にも関わりますが、ご遺族に支払われる恩給も影響があります。戦死は金銭でも報えないものではあるけれど、戦争へと導き国民を殺したことに国は金銭でしか報いることはできないのに、それすら不平等で満足に支払われないのです。

中津留達雄海軍少佐が遺されたもの

穏やかな景観の津久見湾
穏やかな景観の津久見湾に、説明板にも書かれている太平洋セメントの工場が半島のように突き出している。, 2025.2.24

中津留達雄海軍少佐は、自暴自棄で自らの狭い視野から発した「敵に対して」特別攻撃をせよという宇垣の命令をはねのけ、自らの生命と引き換えに、祖国の戦禍を食い止められました。

宇垣の言うとおりにしていたら、終わる戦争が終わらなくなるところだったのです。

付き従われた部隊の方々も続かれ、皆々苦しい戦死を遂げられました。

中将たる立場の人間が発した「終戦を告げるラジオの後の特別攻撃という命令」は、「中津留達雄海軍少佐と16人の部下の方々を自分の思惑で殺した」だけでも残酷であるのですが、それ以上に「戦争の終結を阻害し、一歩間違えればより過酷な戦況へと国を導き、国を転覆させるもの」であり、「さらに多くの国民を死に追いやり泥沼化させ、国が滅亡する命令であった」ということに着目してもらいたいのです。

しかも当の本人は死んでこの世にいません。自分が命令したことで国が転覆したとしても、「生きた人間」は誰も責任を問うことができない。それをいいことに、と思えて仕方がないのです。

しかも自分は地位も名誉や俸禄も国庫から充分にせしめた上で、若者達を道連れとして私情で殺した上の「国家に対しての裏切り行為」ですから、どれほど罪深いことでしょうか。

多くの部下の命を預かる司令長官たる立場の人間が、大局を見ないばかりか、道連れを求めて若者を最後の最後に犠牲にする。

「死で戦争の責任をとる」という自身の納得のために(中津留達雄海軍少佐や部下の方々の気持ちを思えば、わたしははっきりと「宇垣の自己満足のために」と言って差し上げたい)「ようやく目前にやってきた戦後を生きる夢」を部下から奪いました。そもそも、どうして中津留達雄海軍少佐とその部下の方々が、「自分のいのちを絶つこと」で宇垣の責任を分担しなければならないのでしょうか。

戦争の責任を「死んで責任を取る」と言っても、地位も名誉も財も得たうえに当時長寿と言われる年齢を重ね、軍人として人生を充分謳歌したような高官が、死んで責任を取る、というのです。一体その死に何の価値があるのでしょうか。

中津留達雄海軍少佐とその部下の方々のご戦歿。
その尊さの極めつけは、「存命しておれば、地位を利用して何を画策するか分からないような火種」のうちの一人を引き受け、はては開戦を決めた権力者の尻拭いをしてくださったこと、わたしにはそう思えてならないのです。

宇垣が「終戦を告げるラジオ放送の後に」米軍基地を標的にした命令を発する。このこと自体が宇垣の人格を物語っているのではないでしょうか。死ぬるときほど人格が出てくるとよく言われます。
さらには宇垣自身、生存中「いかにも自分は素晴らしい」と肯定する著作を残している。最悪のタイミングで、部下に死を与えておきながら。

そんな著作を遺そうとするぐらいですから、戦後宇垣が生きておれば亡くなられた方々をどう扱ったでしょうか。
自分には責任はないと肯定し、功績は自分のもの、失策は他人が原因、と吹聴して回ってもおかしくないのではないでしょうか。
部下のいのちを巻き込んで自殺しようとするぐらいですから。

こういう「どうしようもない高官、輩と言ってもいいようなうちの一人を背負うて、葬ってくださった」という別の解釈をすれば、中津留達雄海軍少佐や隊員の方々は、上官の巻き添えとなって亡くなられた、そのような単純なものではありません。

終戦が決まり、生きていたのにも関わらず生命を奪われる。中津留達雄海軍少佐とその部下の方々は、一般人ならば悔やんでも悔やみきれないような時点での「死の強要」を受け入れられた。すなわち、最後の最後までしっかり軍人としての責務を全うされたのです。

「自分はどうせ生きて帰れないのだ、もうどうなってもいい、死んでも誰も自分を裁く者はいないのだから」。こういう考えに至ったならば、宇垣の命令をそのまま聞いて、操縦桿を米軍基地へ向け、彗星もろとも突っ込めばよかった。

「死ぬのだからどうとでもなれ」という行動もできた中津留達雄海軍少佐。もう少し手を伸ばせば生きて戦後の暮らしができたのです。摑みかけていたのです。彗星に乗られていた中津留達雄海軍少佐とその部下の方々は、愛する奥様や子供、お母様や家族を抱きしめる筈の腕を、現代風に言うならば老害と言われても仕方がないような人間に切り落とされてしまった。どれほど悔しくて悔しくてたまらなかったことでしょうか。なおのこと自暴自棄になられてもおかしくないのです。

それでも宇垣の命令をはねのけられたのはどうしてか。死ぬ間際に彗星の狭い機内の中で、中津留達雄海軍少佐と宇垣との間で言い争いもあったかもしれない。それでも、ただただ奥さんや娘さんの未来を思っていらっしゃった。会えないけれども、戦争が終わった、幸せに生きてほしい、自分は死にゆく身ではあるけれども、我が娘と奥様の幸せをただただ思って、道理や情すらかなぐり捨てた上官の命令に毅然と抗ったのだと思うのです。

一方で、自分が生き得ない日本の将来を見据えて、生命を捧げてくださったにも関わらず、また本来であれば2階級の特別進級ですら釣り合わないご労苦なのに、1階級のみの特別進級にとどまったのは、軍が中津留達雄海軍少佐の死の尊さを理解せず、進駐軍の顔色とを天秤に掛けた結果です。

戦争で死んだ人間のことなど、生きた人間からしたらもうよその世界の人間とばかり「強きを助け弱きを挫く『皇軍』」という組織。戦端をあちこちで広げすぎて、収拾がつかなくなっても、それでも戦争を続けること、戦争の中止を先延ばしにしてきたツケは、みな庶民たる若者たちに押し付けられました。そして、死んでこそ責任を取れると考える上官たち。それだけのことをしているのだけれど、「人様の生命まで奪う」ことの善悪が分からない人間が権力者を支え、そういう人間を権力者が取り立ててきたということ。そしてなにより、自分の血統を護るために、庶民の生命を奪うことに疑問を抱かなかった、仮に抱いたとしてもそれに対して善悪を考えずにずるずると「やめる決断」すらろくにできないようなクズがこの国の頂点にいたということ。

中津留達雄海軍少佐のご遺族すら、自分の身内である筈の、味方である筈の海軍に裏切られた。軍高官に巻き添えになって死んでいるのに、たったひとつの賠償、遺族年金の決定ですら、階級によって「いのちの値段」が変わる仕組みなのに、値踏みされた。決める立場の者らは、誰も、中津留達雄海軍少佐ご自身や、戦後を生きなければならない奥様やご子息、ご遺族の立場に立ってくれない。

「強き」のためにはいくらでも忖度そんたくするが、ご遺族にすべて負担を押しつける結果に持って行った軍や政府官僚ら。関行男海軍中佐にしても、ご遺族全体に対しての処遇があまりに冷淡であったからこそ、辛酸に辛酸を嘗め続けさせられる困難な人生を否が応でも強要された。戦時中は散々利用し尽くして、霊になって死んでしまえば途端に手のひらを返す。

さらには、ご遺族や庶民は、国がやることにおいそれと口は出せない。それをいいことに、政府はGHQに媚こび諂へつらいながら、ご遺族の立場や生涯が台無しになることもためらわずに行う。そして庶民の生命を平然と盾にした「お上」を祭り上げて「決定に従え」と無理矢理煮え湯のような苦難まで飲み込ませ続ける。

自らの保身のためなら風見鶏のようにくるくる回り、状況状況で上の人間の機嫌を損ねないように、損ねないように、と道理をひっこめて無理を通しを無限に繰り返した結果が、昇格という名の出世。苦難を「為政者」の名で押しつけるだけ押しつけ、そして転勤を繰り返して責任を回避し、後は他人の人生、知ったこっちゃない、と知らん顔の挙げ句、定年になったら退官する。

中津留達雄海軍少佐は、戦後の階級がどうであれ、「軍人として」立派に生きられた。

戦争の旗振り役どものの卑怯さが際立つからこそ、中津留達雄海軍少佐とその部下の方々付き従われた隊員さん方の死の尊さを思わずにはいられません。

海軍兵学校はおろか海軍大学校まで出て、挙げ句司令長官にまでなった人間が最後にやろうとしたのは、捨て鉢の暴挙であり国家転覆の策動。これを自らの死と引き換えに押しとどめられた24歳の中津留達雄海軍少佐とその部下の方々。若い彼らが、倍ほども年が違う司令長官の暴挙を止めたのですから、勲章ものだと思うのです。

しかし、裕仁が立派な勲章を与えた相手は宇垣でした。それも旭日章の中では最高格の勲一等旭日大綬章だった、という結果が遺る。
私情でこれほどまでに理不尽な犠牲を与えたようなクズに、これほどの勲章を授けた、という終幕でした。

皇統が国民に対して行う「叙勲」という制度。一体何を見て、どういう基準でなされているのだろうか。
叙勲に当たって、皇統はさほど相手を精査せずにこのような高い格を与えているのか、精査自体なしに部下の仕事、上がってきた決定を盲目的に承認承認で裁可しているのか、その過程は我々に見ゆるはずもない。
しかし、当時の軍人さん方兵隊さん方のご遺族にとってみれば、結果的に「皇統が授けたもの」になる。

そして死した後に与えられる「人生の評価」「皇統からの評価」、そして「国からの評価」の物差しはどれ程「いのちの価値」と乖離しているのだろうか。思惑もあるだろうし、おぼえがめでたいものが評価が高いこともあるだろう。
しかし、このような皇統に近い人間が制度を作り、建前上は「公明正大」な基準を掲げたとしても、果たして全くの思惑を排除して制度が出来上がり、運用すること、評価していくことができるだろうか。

少佐・中佐・大佐などの軍人としての「階級」、官吏としての序列である「官等」、そして功績や栄典に対する評価としての「勲章や褒章などの栄典」。軍人さん方兵隊さん方にとっては、様々な切り口で人生が評価され、人生の総決算が叙勲や処遇に反映される。しかし、中津留達雄海軍少佐が宇垣を、そして前線でいのちを失った兵隊さん方が安泰なところにいる高官らを超えることができ得るだろうか。

そして、この仕組みはすべての軍人さん方や兵隊さん方に適用される。人生が「軍歴」で評価され、思惑を免れない「人間の基準」で決定づけられる。それがご遺族の恩給にも反映されて、ご遺族の人生をも支配していく。

理不尽を与えたものの方が皇統にとっては価値が高く、それに巻き込まれた中津留達雄海軍少佐の部下の方々のいのちの価値が低い、ひいては前線でいのちを奪われた兵隊さん方のいのちの価値は死んでまで上官を超えることはないというようにしか見えない、やり切れない評価が、軍人さん方兵隊さん方それぞれの墓標に刻まれている。これほどいたたまれないことはないではありませんか。

さらには、彼らの特別攻撃を見送る側はどういう態度だったか。

爆弾は通常の500キロのものから800キロのものに変えられ、それを理由に燃料が減らされていた。

宇垣纏, Wikipedia

このことの意味。

終戦は伝えられている。大元帥たる裕仁がこれほどまでに戦線を広げた以上、指揮統制は曖昧あいまいになり「ラジオ放送」ごときで一斉にその瞬間に止められない。

このどさくさと言ってもいいような状況で、「自分の責任を取りたい高官」はもちろんのこと、「その様子を見ている周りの高官どもも含めて」、誰も、彼らに生き残る道を与えず「巻き添えになって死んで来い」と言わんばかりのことをしたということ。
中津留達雄海軍少佐とその部下の方々も、宇垣にモノを言える人間、或いは中津留達雄海軍少佐の気持ちに寄り添える人間が、「自軍に」居てくれたら、それだけでむざむざと宇垣に殺されることはなかったのです。それも敵軍は関係のない、自分の軍隊内部の話なのです。

もちろん激戦地や日本を遠く離れた土地で、開戦を決め戦禍を招きながら、困窮とも生命の危機でさえ無縁な人間の録音ラジオ放送を頭を下げさせられて聞くような余裕もなく、放送中も攻撃し、攻撃されている戦場もありました。

しかし、中津留達雄海軍少佐と宇垣のやり取りは戦地ではなく、自軍の基地内です。
さらには「その判断ができる時間があった」のです。

それに、悲壮な表情で死ぬ準備をさせられるに等しい状況に追い込まれ、死の瀬戸際に立った彼らの様子については、前述のように頴川良平主計大尉の証言があります。さらには、戦闘機のメンテナンスにも多くの人間が関わります。作業をしながら、横目で中津留達雄海軍少佐とその部下の方々の姿や動作を目撃し、頴川良平主計大尉と同じように彼らの気持ちを察した方々も少なくなかったのではないでしょうか。

そして、この状況を見て、或いは見ずとも状況を知って、何故誰も「どうして終戦が報道されたのに、死ににやらねばならないのか」と義憤、義侠心と言ってもいい感情を抱き、行動を起こさなかったのか。
彼らの、いや人間の「いのちの尊さ」を理解できる人間がいたのだろうか、とわたしは思わざるを得ない。

地域差はあるでしょうが、大分の言葉では「なし終戦が放送されちょったちゅうに、わけえしぃが死ななならんのかえ」と話すそうです。こういうことを言う人がいてくれたら、どれほど掬われたか、と思わずにはいられない。

それが、誰も居なかった、或いは仮に居たとしても、中津留達雄海軍少佐とその部下の方々の死を制止できなかったからこその「今に伝わる結果」ではありませんか。

そして、中津留達雄海軍少佐とその部下の方々は出撃の準備をする背後で、その飛行機の整備をしている方々も含めて「これが最後の仕事だ、戦争が終わった、故郷へ帰れる」とウキウキした気分でいる。
これほどまでに「死にゆく者」と「再び生きる道を示された者」が同じ空間に存在する状況自体、辛くないでしょうか。安堵した雰囲気が漂う中で、中津留達雄海軍少佐とその部下の方々は、ただただ宇垣が上官であったために、宇垣に殺され、未来を断ち切られようとしている。

こんな状況で、果たして、「喜んでお供します」「光栄です」と諸手を挙げて「勝手にやればいい、宇垣の『自殺』」についていけるでしょうか。

そもそも、どうして中津留達雄海軍少佐とその部下の方々が、「自分のいのちを絶つこと」で宇垣の責任を分担し、道連れにされなければならなかったのでしょうか。

立場が上になるほど、その地位に応じた名誉も俸禄も得る。そして、それは対価なのです。例え建前にしても、「相応するだけの責任を担う」対価です。

立派な軍服を着て、勲章を沢山胸に飾り、俸禄も多く得る。対価だけは相当に国庫からせしめておきながら、司令長官の責任すら一人で担うこともせず、最期に若者を巻き添えにするなど、自分一人で人生の始末すらできない人間だという証拠ではありませんか。そして、わたしは映画などで観る「沈没する戦艦で艦長がたった一人残り、艦の最期を見届ける」。このことの是非は事情が違うので一概には言えませんが、同じ海軍軍人でありながら、対極の存在に見えて仕方がない。

ただただ当時の軍高官の地位を占めていた、「クズの象徴の一人」としか見えないのです。

戦争を決定した者とそれに従う高官ら、若者たちの生命を握る立場の人間どものやったことが、これなのです。中津留達雄海軍少佐はこれほどない「生きるチャンス」まで奪われ、一瞬「戦後を生きる」という夢までを見せられた末に、殺されたのです。これほど残酷なことはありません。

中津留達雄海軍少佐とその部下の方々は、「戦争では『庶民にだけ』これほど残酷で無惨な試練が与えられる」。必死のご生涯は、このことを後世の人間に伝えるがための尊い人生だった、とわたしにはそのように思えてならないのです。

もしあなたが、中津留達雄海軍少佐の立場であったとして、その死を納得できるでしょうか。
さらには、宇垣と同じ瞬間に、宇垣によって殺されたのも同然であるのに、死後に現世を見つめていたら、裕仁は宇垣に破格の勲章を与えた。
そればかりか、津久見の街を、自分の家を見つめていると、奥さんが、娘さんが、自分が生きて帰れなかったことで、しなくてもよい苦労を背負って人生を歩んでいる。それが視界に入るとしたら。

あなたが中津留達雄海軍少佐だったとしたら、「スメラギイヤサカ」と、果たして言えるだろうか。

ふたつの死の意味の違い

そして宇垣の死と中津留達雄海軍少佐、そして部下の方々の死は同時ではありましたが、まったく異質のものです。

宇垣は「死んで戦争の責任を取る」と言い、実際に死んだ。けれどもそれなりの立場だからこそ、生きて戦勝国の裁判に掛けられるのを恐れていたのだと思うのです。そして死刑になるぐらいならいっそこちらから死んでやる、という打算もあったでしょう。

多くの卑怯な高官たちは、散々若者達の人生を下敷きにしてきました。中津留達雄海軍少佐と隊員さん方のことなど、下敷きそのものです。戦争がない時代に高官に上り詰めて置けば、後の人生では部下を押し出すだけでいい。そんな卑怯な高官どもが山程いました。沢山の庶民の若者たちが、追い詰められ、上官の出世の駒にされて殺されていったのです。高官どもの軍服につける勲章は、部下たる若者たちの死、そして敵とされて殺された、相手の国の軍人さん方兵隊さん方の魂とも引き換えなのです。

そうしてやってきたことの罪、そして最後の最後、宇垣は極めつけのことをやりおおせました。「将来を生きる可能性が確実であった若者達、しかも自分に従ってきた部下」を一人ではない、大勢殺害したのです。それも自分一人が「責任から逃れたい」がために、自殺することを決めたのです。それに人様まで巻き込むということは、戦争の責任を取る云々とは別の次元の話です。なぜなら中津留達雄海軍少佐と部下の方々は戦争責任を担わされる義理はないからです。

結果的にこの人は何の責任をとるつもりだったか分かりませんが、大変なものと引き換えにして自殺したにすぎない。

さらに言えば、地上で戦勝国の裁判に掛けられ、死刑にしろそれなりに罪を償う機会があるのなら、そこで裁きを受けておいたほうがよかったのでは、とわたしは思うのです。

つまりは、「裁き」をどこで受けるか、という話です。証拠はすべて揃っていて、やったことはおろか、その時の心情や背景まで明白に判明した、言い逃れのできない逝った先の世界での判決のほうが遥かに厳しいことでしょう。やったことは、到底地上の裁きだけでは足りません。しかし、一応は地上で裁きを受けておれば、僅かながらでも考慮してくださるかもしれない。

やったことの結果は、気も遠くなる、途方もない刑期ではないでしょうか。もちろん、これは戦争を決めた皇統も同じことでしょう。単純に見ても「人間」が「人間を殺す」さらには「人間を殺させる」、道筋を付けたのです。現世でも大罪である筈なのに、これがどうして、「無罪放免」なんてことがありましょうか。やった事実を直視するのではなく、立場で減刑や無罪になるならば、そもそも「裁き」と言えるでしょうか。

果たして、宇垣の死は「戦争に対する贖罪」として認められるでしょうか。「現世の裁きからの逃亡」として贖罪どころか罪を重ねた、とご覧になるでしょうか。

死ぬ間際に追加した、この「自分に従ってきた部下を大勢殺した」大罪をどう償うつもりなのでしょうか。その大罪は中津留達雄海軍少佐や隊員さん方に対するものだけではありません。奥様やご息女、それぞれの隊員さんご家族の生活と、何より幸せを奪っているのです。戦後に生き、家庭を持ち幸せに生きる。そして若い彼らによって生まれる筈のいのちはどれほどがっかりなさったことでしょうか。

久保浦団地停留所
津久見駅から久保浦団地行終点下車、バスはここで旋回して駅へ戻ります。, 2025.2.24

【中津留達雄海軍少佐のご墓所への行き方】JR津久見駅から臼津きゅうしん交通バス乗換え。バスを降りて山側の住宅地を見ると、カーブミラーに墓碑の位置案内看板があり、停留所から歩いて1,2分です。

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