静寂の千足山村――消えゆく「村と関行男海軍中佐のご母堂様の記憶」
記述・表現の峻烈さについて
墓標を前に、亡くなられた方々に何を語ればその御霊が安らぐだろうかと、ひたすら思索してきたことをそのまま記述しています。オブラートに包まず、棘のある表現もあえて提示しているのは、個々の良心に基づく思索を深める一助にしていただくためです。
特定の個人や団体を攻撃することは、本意ではありません。また、内容に賛同いただく必要もありません。もし読むに耐えないと感じられた場合は、いつでも閲覧を中断してください。
関行男記念館が、時代や構造への考察を深める一助となり、こころの奥底にある良心へ静かに問いかける、そのような場であることを願ってやみません。
はじめに
関行男海軍中佐(1921-1944)は愛媛県西條市のご出身です。初の神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として、1944年10月25日にご散華されました。
特別攻撃とは、軍が苦し紛れに立案し、様々な思惑で生まれた、作戦とは到底呼べない、非人道的な愚策です。
しかし、軍も社会もその非人道性や、「自軍の将兵を殺しにかかる異常性」には目もくれず、関行男海軍中佐を軍神としてご戦歿を利用するばかりか、特別攻撃隊を戦争の宣伝塔に仕立て上げました。
このことで戦後、サカヱ様は息子や夫を失った人々から憎悪の感情を一身に集めることとなります。自宅への投石や心ない噂話、壮絶な嫌がらせを受けました。その上、都市部での空襲が原因で住宅難が地方にまで影響を及ぼします。需要の高まりから低家賃の借主を家主が追い出すことも公然と横行し、敗戦で軍人恩給は止まったこともあってご遺族の生活を追い詰められました。
関行男海軍中佐のご母堂様は、ご主人もご子息関行男海軍中佐もなくし、福祉も何もない中で窮乏された暮らしをされていらっしゃいました。
そのご窮状を見かねたご友人の先生が何かと気にかけておられましたが、赴任先の千足山村立千足小学校の用務員の欠員を知ると、村長に掛け合い、ご推薦されました。関行男海軍中佐のご母堂様にとっては、このことで住み慣れた西條の街を追われることになりましたが、結果として、ご安住の、そしてご終焉の地となったのが千足山村です。
ほどなく村は石鎚村、学校は石鎚小学校と改称されました。1977年に廃校後、今は学校の門柱だけが、子供達に囲まれて過ごされた関行男海軍中佐のご母堂様の最晩年の記憶を静かに留めています。
ロープウェイ開通と林業衰退、そして石鎚小学校・石鎚中学校の閉校
林業と石鎚山登山客に支えられた観光業が主要産業だった石鎚村にとって、林業の衰退と隣接する新居郡大保木村でのロープウェイ完成(1969年)は、村の存続に関わる大問題でした。県道142号(石鎚伊予小松停車場線)は石鎚村と国鉄予讃線伊予小松駅を繋ぐ県道ですが、村の入口で県道12号がロープウェイ方面へ分岐しています。石鎚山登山にロープウェイが利用できることは、石鎚村内を通らずに石鎚山に登山する客が増加していくということでもありました。
写真は石鎚村の入口で、先に見える分岐の左が小松町市街、右が石鎚ロープウェイ乗り場です。
住民にとってみても、林業に代わる現金収入が生活に必要になります。特に子供をもつ家庭にとっては村内に高等学校がないことは、進学を契機にして離村を促す要因のひとつになりました。こうして、村内の人口が県道をストローにして麓の小松町市街地へと流れていき、ついには集団移住の方針を決めるに至ります。石鎚村はその後、小松町に合併。さらに西條市との合併を経て、現在は西條市小松町石鎚という地名になっています。
しかし現在、石鎚の地区人口は0人で無住地となっています。市の地区別人口統計では「石鎚」地区の集計欄自体消滅しています。下の表は、1950年と1987年の石鎚村(旧千足山村)の人口ですが、1987年時点で既に14世帯26人にまで減少していました。学校住宅というのはこの石鎚小学校・石鎚中学校の職員住宅でしょうか。
石鎚村の地図
表 3-26 千足山村の世帯・人口の推移 集落名 1950年 1987年 世帯数 人口 世帯数 人口 黒川 26 162 0 0 有永 9 48 1965年廃村 老ノ川 12 70 1973年廃村 正路藪 7 41 1976年廃村 大平 10 67 1 2 成藪 5 22 1978年廃村 折掛 12 61 1975年廃村 上居 15 98 1 1 中村・谷ヶ内 13 96 2 5 石貝 8 55 0 0 槌ノ川 7 36 1975年廃村 郷 9 48 1978年廃村 古防 7 29 1 1 戸石 21 81 1 1 途中ノ川 14 84 0 0 湯浪 16 101 4 7 虎杖 18 81 4 7 学校住宅 5 8 0 0 常住 1 1 0 0 計 215 1,189 14 26
注)1950年の資料は「千足山村誌」による。1987年の資料は小松町役場調べ。
職員住宅に関連して、上の建物は2020年6月6日に訪問したときに唯一屋根が残っていた建物です。関行男海軍中佐のご母堂様の寝泊まりされていらっしゃった部屋(用務員室)と説明される場合がありますが、内部は物置のように見えました。ただ、校長室など含めて校舎が跡形もないのに、後世残るのが用務員室というのは不自然なようにも思え、学校の建物より後に建ったのか…?とも思いますが、知っていらっしゃる方がいたらお教えください。
石鎚小学校・石鎚中学校にある説明文
最後に当地に設置した説明文をご紹介します。訪問前にGoogleマップで石鎚小学校・石鎚中学校の付近を調べたところ、調べた時点では石鎚小学校・石鎚中学校のあった場所までストリートビューが来ておらず、現地に関行男海軍中佐のご母堂様のことを説明したようなものが何もなさそうだ、ということが気になって仕方ありませんでした。
このため現地で貼ることができる場所を見つけることにし、大小2つを業者に依頼してラミネート加工して持参しました。ところが現地に行ってみるとふたつも何も貼られていない掲示板があったのには驚きました。ご用意いただいていたように思い、ご縁を感じた次第です。
後日談になりますが、慰霊碑を掃除していたときに「ハイキングで石鎚の学校(石鎚小学校・石鎚中学校)の前を通りかかって、こんなことがあったのか、とびっくりして(関行男海軍中佐の慰霊碑に)来ました」と声を掛けられました。こんな山奥で掲示を見て、わざわざ慰霊碑まで来てくださった!、とずいぶん嬉しく思いました。
使われていなかった掲示板には、かつてどんな掲示が貼られていたのか
何も貼られていない掲示板でしたが、画鋲は残っているのだから以前何が貼られていたのか。恐らく関行男海軍中佐のご母堂様のことが書かれていたのだろうと推測はするのだけれど、それがどんなものか知りたい。というわけでいろいろ調べたところ、2012年に訪問された方が写真を掲載してくださっていて、以下のように掲示がされていたことが分かりました。
訪問してみて驚くのですが、険しく高い山と山の隙間にあるようなところなので、朝日が差すのは遅く、また日暮れも驚くほど早いです。
このような寒村で町を追われてひっそりと生活をしなければならない。関行男海軍中佐が生きていらっしゃったならば、と失意の中で日々日々思い暮らしておられたと考えると、その悲しみや苦しみは察するに余りあります。
関サカヱ殿終焉の地
親子二人きりの家族でかけがえのない子息を神風特攻で亡くし、どんなにか心を傷めた事でしょう。戦時中は軍神の母と言って持囃しておきながら、敗戦後の心無い中傷事や、冷たい仕打ち等は、同じ日本人として恥ずかしく、なさけなく思います。
こんな山奥で一人ひっそりと貧困と苦悩の中で亡くなられ、悔しくてなりません。貴方の尊い犠牲の上に今の平和がある事を私達は忘れません。
再び愛する夫や我が子を戦場に送り出す事がないように努力します。
どうか、見守っていてください。
合掌
2000年当時の石鎚小学校の様子が新聞で紹介され、書籍で引用されていたので紹介します。
2000年に新聞記者が訪問した石鎚小学校の様子の記事(2008年8月15日)が書籍に引用されていました。当時もいまと同じように建物はなく、ただ門柱だけが「当時ここに小学校があったのだ」と伝えている様子は変わりません。
番外編
訪問時、石鎚小学校・石鎚中学校の敷地への坂道が部分補強されて一部白いコンクリートになっていました。その先には、学校が存続していたらものすごく邪魔であろう校庭のど真ん中にあたる場所に、真新しいKDDIらしき基地局が立っていました(この基地局の利用者はいるのかなという気もしますが、道中の心細さを考えると有難くはあります。)
もともと村立学校の敷地ですので、土地は西條市が貸しているのかもしれません。コンクリートの坂道補強は基地局工事の資材搬入トラックが進入するためのものと思われます。
「道中の心細さ」、こういうのが途中にあり、周桑農協の丹生川出張所の組合長が一億円横領したとかなんとかという、まるで怨念を突き付ける告発文。この建物は旧農協らしく、そのとなりの何もないところに石鎚村役場があったようです。
2025年9月の再訪問
掲示板の様子がずっと気にかかっていたのですが、このサイトの形ができあがったことと、記載していた連絡先が使えなくなっていたことから、2025年9月26日に掲示板の説明を更新してきました。
途中旧農協だったと思われる建物は倒壊し、またナビでは石鎚小学校までの道中に通行止めが表示されていました。それはナビの誤記載で、当日実際には石鎚小学校までは行くことができ、学校の先からの車両規制(バリケード設置)でした。
5年越しの訪問になり、当日9時頃までは涼しいのですが、日が差し込んでくる10時前になると前日の雨もあって、蒸し暑くなりました。5年前にはあった門柱の前の木彫りのふくろうはなくなり、校地内への道は雑草が伸び伸びと茂っていました。
折しも前日の降雨でぬかるんでいることから敷地内に立ち入るのは控えました。相変わらず西日本最高峰の石鎚山の谷間にあるだけあって、夜明けは遅く、日の入りは早いのを実感します。
新しい説明をご紹介します。
ご訪問なさる方へ
旧石鎚村への分岐(西條市街から石鎚ロープウェイへ行く途中の関門旅館があるY分岐)から石鎚小学校・石鎚中学校までは、舗装はあるものの路面は荒れています。
崖からの落石注意の警戒標識もあるようなところですので、訪問される場合は自己責任でお願いします。もし行かれる場合は現地でお花かなにか手向けてあげていただけると幸いです。
ただし、花そのもの以外の食べ物や包み紙などは、動物が荒らす原因となり、山奥の無住地でもあり、誰も処理できないゴミになってしまいますので、お持ち帰りをお願いします。
携帯(povoと楽天モバイル)の電波状況について
山奥で人通りもないため、安全のため携帯電話をお持ちになれば安心かと思います。参考までに、2025年9月26日時点、わたしのiPhone11(5G非対応)での通信状況です。
povo(auのネットワーク)
石鎚小学校付近…良好
幹線に面した関門旅館、河口停留所付近…圏外
楽天モバイル
以前圏外と記しましたが、楽天モバイルはauのネットワークのうち、周波数B18を借りてエリアを拡大しています。後に調べたら持参した機種はB18非対応でしたので、当地での受信可否は次回訪問時に調べてみます(いつになるかな…)。他社携帯の方でつながるか確認されましたら教えてください。
謝辞
2025年9月26日に訪問にあたって事前にネットで情報をみたところ、別の方が訪問、撮影された画像では掲示板が門柱にもたれかけてあり、説明文も道路から見えない様子で心配して訪問しました。
現地へ行きますと、掲示板の木製の足の下の方が朽ちており、それを支えるように金属のポールで木製の足をネジ止めし、さらに倒れないようにガードレールに寄り添わせてくださっていました。
どなたがなさってくださったのかはわかりませんが、手のかかる作業だったと思います。大変うれしく思いました。厚くお礼申し上げます。