「志願」という建前に隠された思惑

記述・表現の峻烈さについて

墓標を前に、亡くなられた方々に何を語ればその御霊みたまが安らぐだろうかと、ひたすら思索してきたことをそのまま記述しています。オブラートに包まず、棘のある表現もあえて提示しているのは、個々の良心に基づく思索を深める一助にしていただくためです。

特定の個人や団体を攻撃することは、本意ではありません。また、内容に賛同いただく必要もありません。もし読むに耐えないと感じられた場合は、いつでも閲覧を中断してください。

関行男記念館が、時代や構造への考察を深める一助となり、こころの奥底にある良心へ静かに問いかける、そのような場であることを願ってやみません。

軍上層部は裕仁と自分たちが責任を取らずに済む方法を画策した

軍上層部が特別攻撃を始めるに関して、最も神経質になった点は何でしょうか。

それは、軍上層部も裕仁も責任を取らなくて済む方法です。最終的には裕仁に責任が及んでは自分の立場が危うくなるほか、裕仁が糾弾されれば芋づる式に自分も糾弾される。
またご遺族や社会に非難されるに違いない。だから、絶対に矢面に立たずに済むよう、巧妙に策を弄しました。それは、

あくまで「本人の志願」という「建前」です。

特別攻撃隊の志願にしても、雰囲気で熱狂させるような、或いは志願しなければ浮いてしまうような状況を上官達が仕組んだ上で、「熱望」とまで書いて志願書を箱に入れたとしても、夜、冷静になったとき、或いはご母堂やご家族を想ったときに、どのような気持ちになろうかと思うのです。

雰囲気に飲まれて志願したのはいいが、「どうしてあの時に志願してしまったのだろうか」という悔やんでも悔やみきれない思いは、霊になっても持ち越されることでしょう。母親が自分を懸命に育ててくれたのに、自分が死んだがために苦しい生活、貧しい生活を余儀なくされていれば、見るに堪えられないと思うのです。

特別攻撃の作戦の残酷さはここなのです。

「自己責任で死ぬることを決めた」という建前が軍人さん方兵隊さん方を縛り付け、他の戦死とは違った、深い魂の苦難を与える点です。

「命令によって殺される」ことも苦しいのですが、その上に裕仁や上官らが保身や責任逃れのために仕掛けた「自らが志願した」という罠。
これにがんじがらめにされることで、特別攻撃隊の隊員に選ばれた方々は、「自ら生きることが許されない」という選択を「自分で選択した」と、後悔なさって苦しまれたのではないか、と察するのです。それは、ご戦歿せんぼつされた後もずっと。

特別攻撃の「特別」に込められた意味

そもそもこの「特別攻撃」という名前。軍隊が「特別」と冠するものはろくなものがありません。

作戦として呼べるようなものではないから「特別」としたのか、箔をつけようとして「特別」としたのかはわかりませんが、一つはっきり言えるのは、軍人さん方兵隊さん方がなんとか戦場で戦うことができるのは、この戦いの先に、「勝てば生きて帰ることができる」ということに、それが僅かであっても希望をつなぐからです。

しかし、特別攻撃だけは違います。「作戦が成功する=自分が死んでいる」「作戦が失敗する=自分が死んでいる」。もう「救いようのない作戦」ということです。
こんな作戦で軍人さん方兵隊さん方はどうして「戦う」モチベーションを維持させることができるでしょうか。軍人さん方兵隊さん方に一切「希望」というものを与えない作戦である、というのが「特別」の真意ではないか、それでもなんとか自分の死ぬる意味を思って、命令を飲み込まなければならないところへと追い込まれたのです。

ポーランドの「戦争の風刺画」
ポーランドの「戦争の風刺画」

詳細はわかりませんがポーランドの「戦争の風刺画」をご紹介します。安全なところにいる権力者は勇ましく国民、兵士を煽り立てます。
そして戦争が終わると、戦場で苦労された方々は怪我や病気を負いボロボロにさせられ、棺を担いで帰ってくる。しかし権力者におもねる者たちは五体満足で生き延びたうえ、胸に勲章が増えて褒賞が増えていく。

例えば敵兵が出てくるのを一発で仕留めた、という状況、仕留めた側からすると痛快かもしれない。けれど、初めての戦場でろくに訓練も武器もない状態で判断を誤って飛び出した。そこでいきなり射殺された。この兵士からするとたった1回の戦場で人生が終わって霊にされてしまう。

庶民の若者で、無理やり軍服を着させられて兵役につかねばならなかった。故郷には家族も居る、なによりお母さんが無事を祈っている…。

このような若者の死は、一兵卒の死は、当時の人間はおろか、現代人も意に介すことがない。苦しみの中で亡くなられ「何のために生まれたのだろう、何のための人生だったのだろう」と空を仰いで息絶えた多くの若者達の魂はまったく評価されることもない。「偉い人間」が手柄を横取りにして生命の危険のないところで勲章のコレクションを増やしていく。

華やかな場所で誇示するためだけの勲章。これが魂と引き換えになっている。為政者側も目の前にいない死した前線の一兵士よりも生きて媚こび諂へつらう上官の方がよく見えて、せっせせっせと勲章や叙勲の準備をすすめていく。勲章一つがどれほどたくさんの霊と引き換えなのか。その勲章も国民の血税。死した兵士の家族が納めた税金で作られているとは、なんと皮肉だろう。手柄も横取りされ、それをたくさん胸に見せつけてふんぞり返っている者たち、皇族達。勲章は魂との引き換えであることを思うと、当時にしろ現在にしろそれを狙う、集めるということは(霊的に)恐ろしいことである、と思えます。

自軍の兵士を捨て石にした日本軍

さらに「特別」を別の角度から見ていると、特別攻撃自体が「人類史上初」である、という視点からも、特別攻撃がいかに異様・異質(=特別)で、残酷なものであるかがうかがえます。特別攻撃の異常性は、

「軍が味方を護らなかった」、ということ

これにつきるのです。

軍人さん方兵隊さん方がなんとか戦うことができるのは、基本的に「(損得計算はあったとしても、)軍は味方の生命を尊び、味方を護る立場である」と言う常識と、「もし自分が死んでも遺族となる家族の面倒を軍或いは国がみてくれる」という暗黙の信頼があるからです。

特別攻撃はいつの時代、どこの国の軍隊も最低限わきまえていたこれらの「常識」を世界初でかなぐり捨てたこと、すなわち最初に「非常識極まりないこと」、それも生命に関わる重大事をやった、ということなのです。

軍人さん方兵隊さん方は「この国を護る」という理念をたたき込まれて軍隊に入られました。戦争は死と隣り合わせなのは覚悟なさっていたとしても、味方から「死んで来い」と命ぜられるということは、自分の背後から刺されるのと同然です。

若い未来洋々たる若者の生命の大輪の華、一生懸命お母さんが育て上げた息子の人生がいままさに開かんとする、そんなタイミングに軍上層部がつぼみをカミソリで切り落とし、裕仁も「よくやってくれた」などとのたまう。

軍人さん方兵隊さん方にとってみれば、軍に入ったものの、自分が所属する軍隊が率先して自分たちを「裕仁が望む勝ち戦」のために殺しにかかるなんて思いもされなかったことでしょう。さらにこれが終戦が伝えられた後もなお、続くのです。始末に負えません。
自軍の兵士を護らなかったどころか、裕仁の上機嫌のために、その国民を食い物にする血統を護るために、捨て石にしたということです。
軍人さん方兵隊さん方は、どれだけ国に、軍隊に絶望されただろうか、と考えるのです。

1945年4月12日に陸軍の特別攻撃隊「誠第31飛行隊」でご散華さんげされた、福島県会津若松市ご出身の長谷川信陸軍少尉のご遺書を紹介します。

今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなく、ただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐ろしき哉、あさましき哉
人類よ、猿の親類よ

特攻隊員の遺書bot(@WillKamikaze), 長谷川信陸軍少尉のご遺書

裕仁がアジアや太平洋の国を「敵」と決めたばかりに、本来であれば顔を合わすことも袖をすり合うこともなかった外国の国民と、生命を奪い合うことになってしまった。それも庶民同士で。
支配者同士が「勝ちたい」という思惑は、巧妙に民族間の存続問題にすり替えられて、それぞれの国民同士が根拠のない憎しみを爆発させて、お互いに根絶やしにしろと殺戮をし合うのです。
その末に疲弊し、築かれていく死体の山。霊にされるのは庶民と、星の数の少ない軍人さん方兵隊さん方。支配者側の裕仁や軍上層部は勝っただの負けただのと一喜一憂するだけで、彼らがいるのは戦地とは隔絶されたところ、しかも国民を盾にしながら駒にも使ってゲームに夢中なのです。

自軍の兵士を捨て石にした日本軍

そして、さらには「軍が兵士を護らなかった」ばかりか、「作戦」という体裁をとった、ということです。作戦であるからそれは命令であるし、これに違うと軍法会議に掛けられます。さらに、拒否権がない星の数の少ない軍人さん方兵隊さん方に「強要しながら、『志願』という建前で偽装する」という前代未聞の常識の逸脱を見せました。

それだけではありません。挙げ句彼らの死を「軍神だ」「特別攻撃隊に続け」などと展開することで、「軍が兵士を護らない」という、本来はご遺族や世間から批判されるべきことを、うやむやにしたのです。

こんな無茶苦茶を兵隊に押しつけて、権力者たちは自分が「相手にいのちを狙われる/殺したくもない相手を殺さないと生きていけない」なんてところに身を置く必要はない。裕仁はじめ戦争を決めた者達は、必ずそこから目を逸そらし(見ないふりをして)、一方で「自分が勝つ」という、もはや人を殺すことの恐ろしさよりも、勝つだ敗けるだなどという「どうでもよい結果」で頭が一杯な状況。

勝つだ敗けるだなどという「どうでもよい結果」のために

どうして「勝つ」ということが「どうでもよい結果」なのか、と思われるでしょう。軍人さん方兵隊さん方、みなみな「勝つ」ために努力され、いのちまでこの国に捧げられたのに、と。

特別攻撃自体も、牟田口廉也がやりおおせた「インパール作戦」にしろ、無茶苦茶な戦果も、原子爆弾により殺戮をうけたことも、果ては様々な攻防戦にしろ、たくさんの「いのち」が奪われた。

まず、「勝った」として、その「前」に戦争がある。勝つ「前」に戦争があるからこそ、戦死があってこの世を去らねばならない。

何を当たり前のことを、と思うかもしれないけれど、死んでしまった方々にとってみたら、「生きて」こそ、勝ったことの喜びや「得すること」を得ることができる。しかし、死んでしまう、それも苦しく死んでしまう。そして、「勝った」ことで一番誰が得をし、或いは鼻高々となり、或いはより権力を握り、大儲けをすることができるのか。

そして何より、隣国は永遠に隣国であるし、人付き合いのように互いに長く無視を決め込むことは不可能。なぜならこの地上は過不足でできている。つまりは地上にあるすべての資源が、均等に平たく広がっているのであればよいが、ひとつひとつの資源の種類ごとに多い地域少ない地域と斑があるし、地形的・気候的なこと、海に面している・面していない、ひとつひとつが利点でもあり欠点でもある。

その上に人間が勝手に「国境」という線をひき、縄張りにしているが、人間も、資源も、食糧すらすべてが自国で賄えて、自国だけで繁栄し続けられる国はどこにあるだろうか。

それを無理やり「相手の国の国民の生命を奪う道を選んでまで『わが手中に置きたい』と考える」ということの不遜さ、傲慢さ。

しかも、庶民が「相手の国の国民の生命を奪って『自分のものにしたい』」などと、日ごろの生活の中で考えるだろうか。ただただ必要なものを購入し、家族と生活ができ、人生を「人間らしく」生きる。生まれ、育ててもらい、学校へ行き、恋愛をし、結婚、家庭をつくり…、そうした中で社会とかかわって「人間として成長する」ということ、ただただそれができれば満足ではないでしょうか。

「人を殺してまで相手の国をわが手中に」、という野望を「民衆が抱いて戦争が起こった」、と教育しているが、これこそ皇統の戦争責任、批判を回避する最大の虚偽でしょう。

当時は、新聞や雑誌、様々なもので「アジアや南洋にある豊かな資源と、そこにいる人たち」をとりあげて、資源は日本が利用してこそ、そして無知蒙昧なアジアの民衆は日本が立派に育ててこそアジアが発展するのだ、日本はその要にいるのだ、と散々に宣伝してきました。プロパガンダといいます。

今のように民衆が横でつながるようなSNSがない。新聞にしろ雑誌にしろ他人による編集作業があるから、都合の良い内容や投稿は掲載されても、意図にそぐわない投稿は新聞にも雑誌にも載らない。

権力者にとってはやりたい放題民衆をコントロールできる素地があって、戦争がはじまると「統制」と言う名で新聞社やマスコミも合併させる。紙やインクも手に入りづらいものだから、その供給を絞って、「政府に都合の良い報道ができるかどうか」、こんな恣意的な方法で「政府に選ばれた報道機関」が「世論はこうなんだ」と本当か嘘か分からないような「世間の今の姿」を流し続けた。

結果として国民が得る情報が「国民に何が『本当の幸せなのか』」分からなくし、麻痺させていった。それなのに現在の平和式典慰霊式典では「皇統は高いところに座り、『先祖が殺された国民すべてが、皇統の惹き起こした戦争の反省をさせられる』」、という侮辱的展開を思わずにはいられない。

そして、この国は敗戦した。敗戦したけれど、我々は生きているし、生活ができているではありませんか。つまりはあれほど裕仁がこだわった「勝ち戦」も、庶民の生活には関係がない、ということです。そうすると、「勝つために」人を殺し、自国民を400万人、周りの国の人たちまで死体として山積みにする必要が、そもそもあったのか、ということになります。

時や場所を問わず、庶民は ―― 権力者が儲け、「自分だけ生き残る者ら」が得をするためだけに ―― いのちを奪われるだけの存在である、ということ。平時は程度が違いますが、特に戦争の度に痛烈に突き付けられるのです。

「しかしよくやった」、この言葉が6,000人の軍人さん方兵隊さん方を殺した

他国を押さえつけ、資源も奪っていいんだと戦争を続け、「この国を護らん」と決意された魂は国民の中で最も尊い魂なのに、「軍人兵隊達は死んでこそが仕事」とばかりに、束にして燃えさかる戦火へと投げ込み続ける。それが潰えると若い国民、戦争がなければ社会人としてまともに暮らしていた筈はずの質の低い人間まで兵士に仕立て上げて、人間らしい楽しみがない戦地に放り込み続けたものだから、あらゆる異国で暴虐非道が繰り広げられる。

その果てに、いよいよ自国民を命令で直接殺すことまでして勝ちに行きたい裕仁と、それにおもねる者たち、そして戦争が続くことで大儲けできる輩どもの思惑。全ての権力に関わる者たちが「戦争の継続」を結論づけ、産み出した人類史上最悪の愚策が「特別攻撃」なのです。

この理性も道理も常識も全てかなぐり捨てた状態は、「特別攻撃が始まったときに、勝敗が決していた」という、浅村さんの言葉の真意であろうと思います。

本来、天皇が戦争の司令官でもあるので、戦況の悲惨な負け戦ぶりが一番に見えていたし(そもそも見えていないとおかしい立場でもある)、そこで判断しなければならないのです。そして、繰り返しになりますが、特別攻撃の報を聞くや「ここまでむごいことをしなければならないほど、大変な状況になっているのか。敗戦を認め、速やかに戦闘状態を終結させよ」とやるべきであったのは明白であるし、その時点でも散々国民を殺した後ですから「もうこれで充分戦った」として、国民にそれこそ謝罪し、退位すべきだったのです。

「戦争をすることを決めた」、これこそが愚君であることを決定づける

負けが決まった状況をわかっていながら、裕仁がとったのは「それでも国民の生命を下敷きにしてでも勝ちたい」という選択でした。勝つことの意味すら理解せずに特別攻撃を認めた継続を決定づけた瞬間に、その後の特別攻撃隊の隊員さん方当事者だけではない、大陸、太平洋、異国の山岳地帯、地の果てのような孤島、名前も知らないようなところに行かされた軍人さん方兵隊さん方や、満蒙にいる開拓団やお父さんお母さんを亡くした子供達、少年義勇兵たち、外国に無理矢理連れて行かれた全ての日本人の生命が、このような愚かで情もない君主の選択によって虐殺される、という命運が決しました。

そして彼らにはたくさんの家族、国民が帰りを待っていました。東京の一等地の森付き数戸建以外の国土は無防備です。庶民は空襲におびえ、あげく原子爆弾まで使われて攻撃をされ、そのような中で逃げ惑いながらも、ただただ息子や旦那さんの帰りを願いながらもそれが裏切られる。
これを国難と言わず何を国難と呼べましょうか。

裕仁が国難を自ら招き入れて、挙げ句原子爆弾で無辜むこの市民の大量殺戮、挙句には放射能による苦しみを与えられるまで戦争を引き延ばし、庶民が生きることを困難にする道を選択した。この責任を皇統が取らずに、一体誰が取るのでしょうか。

さらには戦争責任が盛んに問われた時代も、ただただ貝のように黙りこくって我関せずと「責任」から逃げ回りました。

読売新聞は戦後の総括として「すべて東条英機が悪いのだ」と紙面を割いて統括し、全部を東条英機のせいにして、裕仁に対しては免罪を宣言するに等しい記事を掲載しました。当時記事がサイトにまとめられているのでご覧になってください。

そして何の裁きも受けずに霊界へと逃げ切った後は、戦争責任はない、で確定したかのように追及されません。

裕仁は結婚も子作りもし、そのたびごとにご遺族や、戦争で困窮した庶民からも、国費という形で祝儀を強要しました。これらの費用が彼らの福祉に使われていたら、と思わざるを得ないのです。国民がどれほど窮乏に瀕していようと、成婚だ皇太子出生だとそのたびに血税を使ってのお祭り騒ぎ。これを「人生を謳歌した」と言わず何でしょうか。一方で、若くして「戦争に行くから、いつ死ぬか分からないから」と自由に恋愛をすることも結婚をすることも躊躇ちゅうちょを与え、ご戦歿なさったばかりに子孫が断絶された軍人さん方兵隊さん方ははどう思うでしょうか。大事な人が裕仁の命令一下戦争に巻き込まれて殺され、残ったご家族も苦しい生活を強要される。子供達は親を失い路頭に迷い、生きる術がない女性たちが春を鬻ひさぐような惨状でした。

どうしてこのような血統が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」になっているのか。そもそもそういう資格があるだろうか、と思うのです。

この国の皇統は、例えばいついつの時代に民に善政を行い、その威徳を慕って現在まで国民が敬愛している、と言うわけではないでしょう。

明治時代にポッと出で政治に関わり、軍人さん方兵隊さん方には軍隊手帳にあるように、「(軍人の)生命は鴻毛の如し」と下の下に見て、国民の血をすすり、肉を食らって下敷きにし続けてきた血脈なのです。

昭和天皇が晩年の1987年まで「辛い」「戦争の責任のことをいわれる」などと悩んでいたことが、今年発見された資料で明らかになった(「小林忍侍従日記」)。

辻田真佐憲 「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々現代ビジネスオンライン, 2018.12.8

昭和天皇が85歳だった1987年4月に「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と漏らしたことが、元侍従の故小林忍氏の日記に記載されていることが分かった。
共同通信が22日までに、小林氏の日記を入手して判明した。日中戦争や太平洋戦争を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気に掛けていた心情が改めて浮き彫りになった。
87年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記されており、昭和天皇がこの前日、住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に直接語った場面とみられる。当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。この年の2月には弟の高松宮に先立たれた。
小林氏はその場で「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と励ました。
既に公表されている先輩侍従の故卜部亮吾氏の日記にも、同じ4月7日に「長生きするとろくなことはないとか 小林侍従がおとりなしした」とつづられている。
宮内庁長官だった故富田朝彦氏が遺した「富田メモ」は「昨夜当直小林(忍)侍従に、弟を見送り戦争責任論が未だ尾を引き、そして負担軽減云々で長生きしすぎたかと洩らされた旨」と記す。
日記には昭和天皇がこの時期、具体的にいつ、誰から戦争責任を指摘されたのかについての記述はない。直近では、86年3月の衆院予算委員会で共産党の衆院議員だった故正森成二氏が天皇の責任を追及、これを否定する中曽根康弘首相と激しい論争が交わされた。
88年12月には長崎市長だった故本島等氏が「天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、波紋を呼ぶなど晩年まで度々論争の的になった。
小林氏は人事院出身。昭和天皇の侍従になった74年4月から、側近として務めた香淳皇后が亡くなる2000年6月までの26年間、ほぼ毎日日記をつづった 〔共同〕

日本経済新聞 戦争責任「言われつらい」 晩年の昭和天皇が吐露, nikkei.com, 2018.8.23

戦後から家族を奪われた人たちを代弁して「裕仁の戦争責任」を追及する。それをまるで子供のように「戦争の責任のことをいわれる」なんてこぼす。

そして諂へつらう侍従。「戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない」なんてことを言う。戦争を決めた人間がいたことで焼夷弾や原子爆弾で焼き殺されたり、苦しいやケガや病を引きずりながら人生を歩まれた方々や、孤児となられた子供達、尊厳を奪われた女性たち、そしてなにより戦争の犠牲となり軍人さん兵隊さんとして異国で人生を強制終了させられた方々がいる。あげく外国の国民まで殺され、生き残られてもうまく取り入ったような人間以外は困窮した生活に追い込まれた。そういった方々の人生を「歴史の一こま」で片付けるとは、国民のいのちを一体何だと思っているのでしょうか。

戦争責任を問う裁判にしても、自分も権力者で、戦犯を裁く側も権力者。結果的に、GHQからの追及もかわし、戦犯として罪に服すことからも逃れた。

そして、その後は「叙勲」という方法で、皇統を盲信する人間を国民の群衆に放出する。それも定期的に。さらには総理大臣や国会議員の任命や法律の施行などで、権力者たちにまで「皇室に有無を言わさず服従する」仕組みまで完成していて、国民の上に皇統が支配し、見えない重しとして巧妙に支配している。

「裕仁という当時の支配者は、日本の歴史上最も卑劣で最多の殺戮を犯した。自国の国民400万人を殺し、周りの国の無数の民を殺戮し、それがために生き遺った国民には国が十分な補償もせず国民は困窮にあえいだばかりか、その後の外交では周辺諸国との軋轢となり、周辺諸国と対等・円満な外交交渉に支障を生ずる原因を作った」、せめてこれぐらいは500年後の教科書ぐらいに掲載してもらいたいものです。そうでなければ亡くなった方々が浮かばれない。

そして、死んでも生きていると考えるわたしからすれば、この人の死んだ後のことも考えざるを得ない。果たして現世で権勢を振るった者どもが霊界に居れる場所があるだろうか、と考えるのです。死んだらみな霊になります。そうなれば墓や祭祀がどんなに立派だろうが、霊が行くのは霊界になる。特別攻撃を強要された者、食べ物なく餓死された兵士たち、あまねくご戦歿者、戦争で苦しい生活を押しつけられた国民。自分自身が霊にして、先に霊界に送った日本人も、そしてこの国が散々荒らして迷惑を掛けた国の人たちも数多あまたいらっしゃるのです。

「いのちを軽視した」血筋がこの国に君臨し続ける一方、どんな小国でも当たり前のように国民が選んだ代表がその国を統べている。そしてその代表がその時々の国民の象徴であり、都度都度の選挙で善政を行う者が、時代時代を率いていく。

これこそがあたりまえで普通の国ではないだろうか。皇室費など不要で、国民の福祉に巨額の費用を充てることができる。外国との儀礼や接待は国会議員や大臣達がやる。そんな国になるときが来るのだろか。果たして、将来の国民は現状を望み続けるのだろうか。

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