特別攻撃は「作戦」と呼べるのか――一体何が「特別」なのか

表現の峻烈さについて

亡くなられた方々の苦しみにこころを寄せていくうちに、時代の構造や責任の所在を曖昧あいまいにすることは不誠実であると考えるに至りました。関行男記念館で、峻烈な表現をあえてそのまま提示しているのは、そのためです。

特定個人への攻撃や賛同を意図したものではありません。読むに耐えなければ、いつでも中断してください。

爆弾に若者のいのちを括くくりつけるという残酷な愚挙

飛行服姿の関行男海軍中佐
特別攻撃隊全史 飛行服姿の関行男海軍中佐(△印), 特攻戦歿せんぼつ者慰霊顕彰会

太平洋戦争末期。飛行機、モーターボート、魚雷に、艦艇を爆発させるほどの威力がある爆弾を装着し、人間が操縦したまま相手に突撃するということを「作戦」ということにして、若い士官方や兵隊さん方に「死」を強要しました。資源も武器も技術もつきてしまって、この国は爆弾に無理やり人をくくりつける、ということをやってのけた、この作戦を特別攻撃(特攻)といいます。

現代では特攻と言う言葉が「向こう見ず」「短慮的」「とにかく率先」「無理無謀」「場当たり的」というニュアンスまで含んだ、ある意味侮蔑的な要素も含んだ言葉になっています。

これでは特別攻撃で亡くなられた方々の尊厳にも関わると考えるため、当館では「特別攻撃」と呼ぶことにしています。

飛行機に爆薬を装着し、パイロットもろとも敵にめがける特別攻撃を「航空特攻」、魚雷に無理やり操縦室を設け、操縦して先端の爆薬を敵にめがける特別攻撃を「水中特攻」、モーターボートの先頭に爆薬を載せ、敵艦と接触することで敵にめがける特別攻撃を「水上特攻」といいます。

このような「特攻」が単語の一部となる場合に限定して使用することにしています。

絶対生きて帰れない作戦は「作戦」とは言わない

広島の江田島に海軍士官を養成する海軍兵学校がありました。
陸軍の士官学校は陸軍士官学校ですが、海軍の士官学校は海軍兵学校といいます。「兵学」を学ぶための学校という意味です。

最初の特別攻撃隊の隊長は、関行男海軍中佐(1921.8.29-1944.10.25)で、愛媛県東部、西條市のご出身で海軍兵学校の第70期生です。そして、関行男海軍中佐の率いる隊は「敷島隊しきしまたい」と名付けられました。

特別攻撃について、まずそれが「軍事作戦としても、道徳面に照らし合わせても、著しく不当なものである」ということを真っ先にお伝えしなければならない、とわたしは考えます。

浅村敦さん(掲載当時90歳)が中日新聞の取材に応え、『「祖父」を訪ねて』と題された小さな記事に注目するのです。

この方は、戦中愛知航空機が製造した、水上を離発着する攻撃機「晴嵐」の搭乗員でした。関行男海軍中佐とは海軍兵学校で同期生でいらっしゃることも見逃せません。

日本が仕掛けた大陸との戦争が長引き、なかなか決定打がないのに、なおもアメリカにも手を出す。

資源も技術も圧倒されるなかで、第70期の士官候補生達は入学が前倒しになり、卒業は日米開戦直前という海軍が最も苛酷な時期に学生生活を送り、次々と先輩が戦死する報告が入ってくる。自分たちもどれほど過酷な戦場へ送り込まれていくのか、ということを実感されておられたからこそ、特別攻撃の是非についても議論が起こったのです。そのときの逸話です。

「授業で特攻が話題になり、視察に来た参謀に怒鳴られた。絶対生きて帰れない作戦は作戦とは言わないと」
「特攻を始めた時点で勝負はついていた。もちろん、今思えばですよ」

中日新聞朝刊「自由席」, 2013.1.25

「体制を護るための殉死命令」

当時の軍歌や新聞では特別攻撃を「体当たり」としばしば表現していました。

しかし、飛行機がそもそも巡航する速度を考えてください。そしてそれを最高出力にする。

飛行機は、さまざまに先人が工夫をこらし、技術の粋を結集させた乗り物です。より遠くに飛び、敏捷に動くために、徹底的な軽量化が図られました。とにかく浮くために。しかし、日本の零式艦上戦闘機はパイロットの生命までも犠牲にするほど行き過ぎた設計でした。

敵国としたアメリカは、開戦前まで石油を日本に輸出してくれていた資源大国でもある。

その国が日本と戦うこととなり、いかに自国の兵の消耗(=死)を少なくするか、徹底して研究を続けました。

パイロットが座る椅子の背もたれすら、日本は薄い鉄板ですが、アメリカは頑丈に作られていました。背後に回り込まれて銃撃を受けてもパイロットの生命を護るためです。この国は、座る人間の生命を護ることを犠牲にしてまで軽量化やコスト削減を図るのです。そもそもアメリカがレーダーや様々な兵器を開発するのも、自国の兵士を死なせないためです。

そして、人間には良心というものがあり、そもそも人を殺すことに嫌悪感や抵抗感を抱く動物です。機械がある程度にしろ「殺戮」をするならば、兵士のトラウマが軽減される、そういうところまで考えているのです。現代の戦争にドローンが登場して積極的に使うようになるのも、直接相手の顔を見て殺すことが味方の兵士の精神(魂)を傷つけるからこそ、自動化して直接相手を見ずに殺戮を行うがためです。

一方この国にとって、この国の支配権力にとっては、国民の生命は恐ろしく軽い。敵がレーダーで反撃するならば、人力で相手の自動攻撃を避けつつ、敵艦に激突してその船を沈めろ、と。背もたれを極薄にし、ところどころ大きな空洞を作る。軽量化し、その分材料は少なくて済む。

しかしそれと引き換えに犠牲になるものには目を瞑つぶる。

パイロットの生命と鉄資源が同じ天秤に掛けられるぐらいに、――こんなことすら考慮しなければならないほど、そもそも「戦争をやるだけの資源がない」国だった、というひとつの象徴。

開戦を決めた人間がいて、「空だ男の征くところ」と男の子たちの夢を掻き立て、懸命にパイロットになるための勉強をし、体を鍛え、訓練を経て行き着いた先が、威力も性能も陳腐化し、彼らの生命すら護りきることのできない乗り物で戦えと命令され、挙句の果てにそれが「死ね」という命令に変わる。

浮き上がるため、空へ飛びあがるため、技術の粋を集めた飛行機乗りにとっては相棒といえる存在を、逆に懸命に押さえつけながら、あたたかな血の通う肉体を、それまで生命を護ってくれた相棒とともに、戦艦の冷たく分厚い鉄壁にぶつけにいく。これほど壮絶なことを「お国を護るため」、それも「作戦」として強要したということです。

ぶつかった瞬間、衝撃に反応して飛行機に括りつけられた爆弾が炸裂する。

血の通った若く立派な、優秀なパイロットが、周りの敵国とされた相手の国の兵士たちもろとも瞬く間に肉片になり、或いはぶつかる前に艦砲射撃で撃墜され、火だるまになって海面に激突する…。

甲板の上で血肉を散らした特別攻撃隊の隊員さんの写真は目を覆いたくなる惨状です。出撃の前、いや特別攻撃の名簿に登載された瞬間から、生きること死ぬることを逡巡しゅんじゅんさせられ、一瞬一瞬の激しい苦しさが連続した末に殺される結果。しかしこれを、戦争を決め推し進めた者たちは、ほかの戦死と同じように軽く見ていた。

それは、この攻撃を「体当たり」だと方々で使う、そのこと自体が証明しています。軍の報告書はもとより、新聞や軍歌でも、子供が遊びに使うような幼稚な言葉に置換えられました。それはただただ「真実の激しさ、無惨さ」を軽く見せ、覆い隠すためでしょう。わざわざ意味が軽い単語を選んで使われたとしか思えません。

中野磐雄海軍少尉のご墓標
中野なかの磐雄いわお海軍少尉のご墓標, 2025.5.21

撤退を「転戦」と言う。全滅を「玉砕(=魂が砕ける)」と言う。挙句「皇統の統べる体制を護るための殉死命令」を「特別攻撃」だなんて名付ける。

その「悲劇」が深ければ深いほど、国民から目を背けさせ、軍人さん方兵隊さん方にも惨劇を軽く見せるために、言葉を捻じ曲げ、意図的に都合の良い造語を作ってきました。

そして死んだら「散華さんげ」と言い換える。やっていることは「もうどうしようもない」という事実を、いかに「すばらしいのだ」、「軍はやっているんだ」と、一生懸命見せかけるための造語作りに血道を上げる。

しかし、いつの時代、どこの戦場であっても、亡くなられた方々の苦しみや現実の光景を思うと「花が散る」なんて生やさしいものでは到底ありません。

関行男海軍中佐が率いた敷島隊の隊員、中野磐雄海軍少尉(行年20歳)のご墓標を見てのこと、「特別攻撃により戦死」という記述は見かけたことがありますが、「体当戰死」と刻まれているのは初めて見ました。

ただただご遺族が、自分の息子、旦那さんがこのような残酷な苦しい死に方で死んだのではないのだ、と無理やり飲み込ませるために「体当」という単語を選ばれた、そう思うと苦しくなります。

奪われた6,000名もの若者のいのちの価値、そして護られた一握りの権力者たち

到底「作戦」と言えない愚策、特別攻撃が形になってしまった結果、殺されたこの国の若者達は6,000人にも及びました。

一方、彼らを送り出すときに上官が掛けていた「後に続くから先に行って待っておれ」という言葉も伝わりますが、言葉通り彼らと同じ道を選ばれたのは、指導教官を任され、現場で彼らの苦悩を見続けてきたほんの一部方々だけでしたし、彼らに苦難を押し付けるだけ押し付け、「作戦」としてこれを裁可した人間のどれだけが「彼らに対しての責任」を果たしたでしょうか。

特攻隊員ご遺族代表として、最年長の特攻隊員でした伍井いつい芳夫よしお大尉(中佐に特別昇任)のご息女である臼田智子さん(81歳)が埼玉県から来られて「慰霊のことば」を述べられました。伍井大尉は第23振武隊しんぶたいの特攻隊長として1945年4月1日に慶良間けらま列島南において散華されました。享年32歳でした。遺言には「人生の総決算 何も謂うこと無し」と書かれておられますが、幼い2人の娘さんと生まれたばかりの息子さんがおられ、ご子息達への遺書には父親として子の将来を案じ諭す優しさが綴られています。その息子さんは伍井大尉の散華された3か月後に病没されたそうで、遺されたご遺族は女性だけで大変な思いをされて生き抜いてきたとおっしゃられていました。伍井大尉は奥様に特攻に行くことを最後まで話さなかったそうですが、埼玉県の熊谷飛行学校桶川分教場の教官を務めたことがあり「教官として教え子だけを特攻に出すわけにはいかない。若い人だけにこの任務を背をわせるわけにはいかない。」そういう責任感から特攻に志願したのでしょうと臼田さんは話されていました。

第71回知覧ちらん特攻基地戦歿者慰霊祭, 鳥濱トメ顕彰会

(鳥濱トメさんは、鹿児島の知覧(南九州市)で食堂を経営されていた女性。陸軍知覧飛行場が特別攻撃の基地になると多くの若者が知覧を立ち、特別攻撃で戦死されました。食堂は陸軍の指定を受けたため、彼らとの交流が生まれ、戦後は彼らのご生前の姿を遺族に伝えるなどして献身されました。)

特に、最高責任者が特別攻撃の最初の報告に対し、「しかしよくやった」の一言は、生きながらにして死んで来いと命令したことを肯定し、特別攻撃にしか賭けることができない人間たちにとって、最大の「お墨付き」となりました。

(1943年)4月には、山本五十六連合艦隊司令長官が南太平洋で戦死し、5月にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅した。天皇は焦燥を隠せず、陸海軍に対して露骨に決戦を要求しはじめた。その頻度はいささか異常だった。

「何んとかして『アメリカ』を叩きつけなければならない」(6月9日、『眞田穰一郎少将日記』)
「何処かでガチッと叩きつける工面は無いのかね」(7月8日、同上)
「何れの方面も良くない。米をピシャッとやることは出来ぬか?」(8月5日、同上)

いつ決戦か。いつ叩くのか。いつ攻撃をやるのか。天皇の矢のような催促は延々と続いた。1944年に入っても、

「各方面悪い、今度来たら『ガン』と叩き度たいものだね」(2月16日、同上)

といった有様だった。だが、米軍を叩きつける日はこなかった。日米の戦力差はもはや広がるばかりで、1944年7月には絶対国防圏の一角に設定されていたマリアナ諸島のサイパン島まで陥落してしまった。
つぎの主戦場は、フィリピンだった。天皇はこの戦いについても多くの言葉を遺したが、ここでは特攻に関するものを見てみたい。

よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊敷島隊などの戦果(=関行男海軍中佐ほか特別攻撃の初めての報告)が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。

「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)

つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。

「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克よくもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)

こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。もっとも、これで破滅的な戦局を挽回することなどできよう筈はずもなかった。米軍は日本軍の抵抗を排して1945年3月、マニラを奪還した。

辻田真佐憲 「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々, 現代ビジネスオンライン, 2018.12.8
標札「出征勇士の家」「殉國勇士の家」(昭和10年代)
標札「出征勇士の家」「殉國勇士の家」(昭和10年代), 仙台市歴史民俗資料館所蔵, 2026.4.1提供

これは特別攻撃を追認し、むしろもっともっとやれと煽っている。すなわち彼らの「いのちの尊厳」や「作戦とされたものの惨たらしさ」に対してなんら関心がない、と言う証拠でもありますが、別の一面からも考えてほしいのです。

それは、いくら「国のかたち」があろうとも、お母さん方や家族にとっては、息子が、旦那さんが死んでしまったら、もう家庭としては壊滅です。今まで愛情いっぱいで育ててきた子供が、白木の箱の中に納まり、蓋を開けてみると石ころだったり、紙切れだったり、或いは遺された爪や毛髪と言った変わり果てた姿になって還ってくるのです。

それを「出征勇士の家」「殉國勇士の家」とわずかばかりの箔をつけることで、今度はご遺族を黙らせる。ご遺族にとっては経済的に支えてくれる人を亡くし、生きる希望を失い、何よりいてくれるだけで幸せだと思う家族がいなくなって、どれだけ苦しいことでしょうか。そして「お上」から賜ったとされる「出征勇士の家」「殉國勇士の家」という標札を、どのような気持ちで玄関に掲げられたでしょうか。そもそも、このようなものを誇りに思えるでしょうか。

そしてなにより、多くの庶民は家庭を壊滅させられ、その愚痴も苦情も訴えられない社会で過ごすことを強要された一方で、戦争を決めた人間は戦後も生きて結婚をし、子供まで儲け、死んだら死んだで古代風墳墓まで作って祀ってもらえる。極めて対照的なことであるし、果たしてこの「格差」は普通のことで、当たり前のことなのだろうか、と。

「命を国家に捧げた」と言うが

「命を国家に捧げた」といいますが、事実をありのままにみてもらいたいのです。

ただただ事実は、「赤の他人である最高権力者の決めた戦争で、庶民のご子息が殺された」のです。
それを「国家に捧げた」というのは、欺瞞に過ぎません。「よそのお母さんが命がけで育てあげた子供を奪い、そして殺したこと」に、権力者たちが「自分の都合のよいように解釈や意味づけをしているに過ぎない」のです。

そして、「国家」というのは形も何もありません。要は権力を持つ人間の集合体を核にした「体制」でしかないのです。

国民の子供の人生にもお母さんの人生にも直接関与しえない赤の他人が、突然「政治ができる体制を維持するために」と家族を奪い、無茶苦茶な戦場へ送り込んで殺した。それから目を逸そらし、さらに推し進めるために「生命を国家に捧げて」と箔をつけた美辞麗句でもってごまかしているにすぎない、と思うのです。

自分のやったことの大きさを正当化するばかりか、その残忍さをさらに推進する思惑しか感じられません。

庶民にとれば、ただただ、子供がすこやかに育ち、幸せな家庭を築いて「この国に生まれてよかった」という人生最後の締めくくりができたら、それだけで満たされ生きた甲斐があるのです。

そもそも体制が庶民の生活に割り込んでくること、ましてやそれが国民の人生に優先するようなことは、絶対にあってはならないのです。天皇だろうが皇族だろうが人間です。国民が下で天皇や皇族が上だなんて、なにも神様仏様が決められたわけではありません。その方が都合がよい人間、それは社会に対して発言力が大きいものだから、日本人はそれに慣らされていますが、地球上にある人間は、誰であったとしてもその魂は尊く、この地上という世界で助け合い懸命に生きてゆかねばならぬ宿命を負った存在です。

国民がまた死んだ、それも戦争というこれ以上もない苦しい死に方で霊にされてしまったのに、特別攻撃なんて無茶苦茶で殺した事実を知ったときの「克くもやって呉れた」という言葉に、人間性はあるのでしょうか。「国民を慈しみ、大事に思う」という気持ちはあるでしょうか。

その後も、御代御代の天皇は、民草を子のやうにおいつくしみになりました。國民もまた、親のやうにおしたひ申しました。かうした、なごやかさが續いてゐる間に、日本の力は、若竹のやうにずんずんのび、御稜威ごりょうゐ(い)は、やがて海の外まで及ぶやうになりました。

文部省 初等科国史<上> 五十鈴川の項, 国立国会図書館デジタルコレクション, 1943

事実として「民草を子のやうにおいつくしみになる」ような天皇は、国家体制が国民支配のために作り上げたイメージ戦略にすぎず、どこにも存在しなかったのです。

さらには「神」として国民から遠い存在に置くことは、為政者にとって「神々しい存在」として、国民を動かす絶好の「しかけ」となりました。ただただ「最高権力者とそれにおもねる者たちがしたいように国を動かす」この仕組みが、国民に何をもたらしたかと言うと、「好きなだけ戦禍を拡大していき、400万人もの国民と数多あまたの『敵』とした相手の国民まで無数に惨殺した」という結果です。

この結果に向かい合うとき、「命を国家に捧げた」「国家のために克くもやって呉れた」という言葉に、亡くなった将兵方はどう思われるだろうか。人間らしい幸せを全て奪われ苦しみの中で霊にされることをつきつけられた方々は。

そして「宣戦布告」を発した最高責任者は、これが国民にとっては「戦死命令」と表裏一体であることをどの程度理解できていたのだろうか。何より、このような「戦死命令」で殺された数多の国民は、死した後にこの為政者をどうお思いになられるでしょうか。

特別攻撃隊の隊員さん方のご心中を察する

特別攻撃隊の隊員さん方の心情が察せられる言葉があります。特別攻撃隊の隊長を命じられた関行男海軍中佐が出撃前に、このように語られました。その焦点となる言葉は、

日本もおしまいだよ。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。

関行男海軍中佐が海軍報道班員小野田氏に基地近くバンバン川河畔で語った言葉を引用抜粋, Wikipedia

例外があるかもしれないけれど、これが「死んで来い」という命令を飲み込まされた方々すべての心中だと思うのです。

そうすると、その後の特別攻撃隊の隊員さん方の「天皇陛下万歳」というご遺書、これらがすべて幻想のように見えるのです。「そのように書かされた」。

特別攻撃。死んで来いという命令ですら飲み込まされるほど、軍隊での「志願の強要」は強烈であるということ。死ぬことすら強制する軍隊社会であり、国民同士でスパイに気をつけろと互いに言動まで監視強制する世の中なのに、そこにどうして遺書の内容を自由に書くことが許されるでしょうか。許された範囲内でないと書けなかったからこそ、これだけ多くの方々が書かれながら、同じような内容が並べられている、ということだと考えるのです。

なにより初めて若い男の子たち、あれも書けない、これも書けないという状況下でパッとかっこよく、周到に練られた、それもご遺書だなんて書ける筈がないでしょう。感極まって書きたいこともうまく書けない。下手をしたら本心が滲にじみ出てくる。それを書けば直属の上官に殴られる。

「書くことが思い浮かばなければ天皇陛下万歳でいいんだ」とアドバイスがあったか。そうでなければ皆々まるで示し合わせたかのように、自分に死ぬ命令を下した「究極の責任者」に万歳なんて書くでしょうか。

さらには命令が下された夜、彼らがどれほど苦しまれただろうか、と思うのです。

そして、日本人は周りの目を気にする民族です。ご遺書がご遺族に届いたとき、社会を批判するようなこと、恨みめいたこと、そしてご両親を恋しく思う気持ちをこころの奥底から書けば家族に、お母さんに迷惑がかかる。だからこそよそよそしい文面で、本当の心情は何も残せなかった。遺させてもらえなかった。これが知覧などに並べられている、と思うのです。

陸軍特別攻撃隊の隊長さんのご遺書をご紹介します。国民の生命を盾にし続け、親はもちろん兄弟親戚まで護られる血脈から出てきた赤の他人に「天皇の子供」として生命を踏みにじられた庶民。特別攻撃隊に任命されて、最期の最期に「自分はお母さんの子供なんだ」と書き残された心の叫び。さらには自分の最期を「喜んでほしい」と書かれています。

21歳の少尉さんは隊長で陸軍士官学校を卒業され将来を期待されていた筈です。しかし、ご本人はもとより息子を失ったお母さん方もどれだけがっかりされ、息子を失い生きる人生がどれほどお辛かったことでしょうか。

隆ハ笑ツテ死ンデ行ツタノデス。然シ決シテ死ニハ致シマセン、七生ヲ飽ク迄モ信ジテ居リマス。最後迄モ母上様ノ子トシテ、私ノ最期ヲ、心カラ喜ンデ下サイ。
デハ御元気デ、何時迄モ長生ヲシテクダサイ。
サヤウナラ
―陸軍少尉 高柳隆様のご遺書(第五十八振武隊 S20.5.25)

Twitter 特攻隊員のご遺書Bot

6,000人も「悠久の大義」(特別攻撃による死を言い換えた美辞麗句)で殺されているのに、誰一人その「悠久の大義」に敢然と疑問を呈したご遺書がない。もっと言えば「行きたくない」「死にたくない」とはっきり書かれたご遺書もない。残されなかったし、遺せなかった。最後の最期、自分の本音、言いたいことすら書き残す事が許されずに殺された、ということ。

その異様さは、組織からの強制圧力がどれほどであったかという証拠であり、そして現代にも続くこの国の民たみ族特有の「同調圧力」という呪縛そのものでしょう。

そして命令を受ける側。飲み込まされる、立場が弱い側は、たとえそれが「死んで来い」という滅茶苦茶なことであっても、強要される。

「死んで来い」という「命令」を「志願」とまで上書きされた上に、望みもしない理不尽を押し付けられる。

すべて庶民のご子息たちに。

それとわたしは思うのです。このご遺書自体が最高指導者とそれが率いる軍と言う組織、その高官らを免責させる大きな役割を果たしている。だからこそ無理やりにでもご両親に向けて書かせたのではないか、と。

それは、ご遺族がご子息の死を糾弾しようとしても、担当者から「本人が喜んで任務に就かれたのです、ほらここに「笑ツテ死ンデ行ツタノデス」と書いてあるではありませんか、ここで喜んでやらずにどうするんですか」と言われてしまえば、何も言い返せない。

最期の手紙、といえば聞こえはいいかもしれないけれど、本質は「遺族がこの国の最高指導者の決定に楯突かせないために、黙らせるための仕掛け」と考えれば、内容がみなみな同じで、しかも自分に死を強要した最高責任者万歳、と書かせるのは当然でしょう。

そしてそう書かせるための教育は散々幼少期から施してきたのです。ここに戦争を決めた人間と取り巻きの、あまりの卑怯さと非情さに怒りを感じずにはいられないのです。

君がため 御楯となりて この命 捨つべき秋の 来るうれしさ

―海軍中尉 田中正喜様のご遺書(徳島第二白菊隊 S20.5.28)

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「志願」だから「尊い」、「すばらしい」というのは誰の目線か

そして後世の人間は「志願だから素晴らしいのだ」と、彼らをそのようにひとくくりに総括し、自分もそれに酔う。特に「愛国」や最高権力者の長命を声高に叫ぶ人間ほど、そういって彼らを持ち上げ、それに自分が同調することで自分も恰あたかも偉い人間になったように酔いしれる。

しかしそれは、当時に戦争を決めた傲慢な人間らと同じ「上から目線」で彼らの「死」を見ていることに他ならない、と気が付いているだろうか。これほどまでの苦しい死を経験された彼らに、「ようやった、誉めてつかわす」と言っているのと同じ。

そして、そういう人間は「ご遺書」の文脈から読み取れる「憤り」や「つらさ」が読み取れないし、そもそも読み取ろうとすることすら考えられないから「字面」で納得し、彼らの死を「表面だけで」受け流す。それは、「そういうご遺書を書かせる側の意図や思惑に乗る」ことに他なりません。

ご遺族や後世の人間が「戦争を決めた人間を免罪し、体制に反感を抱かせないため」に、こんなことまで若い彼らに強要したのです。特に、知覧特攻平和会館に並ぶ沢山の「自分たちを死に追い込んだ戦争を決めた最高責任者を賛美する」紋切り型のご遺書は、そういう「字面」を書くことを強要していたからに他なりません。

「自分の生命は大切な人を護るために捧げるのだ」「郷里を自分が護るのだ」という信念と、そしてそれを遺書というものに「文字で記すこと」、そしてそれを「お母さんに『最期の手紙』として送ること」でなんとか「納得に持ち込み」、若い彼らの生物自身が持つ「生きたい」という本能まで抑え込まれて、「死んで来い」という命令を飲み込まれた。

そのご心中を考えれば、「ご遺書ですら彼らのご心中を文字にしたようなものではなく、ましてや『死』とは全く別次元の、単なるモノ(学芸員的に言えば『資料』)に過ぎない」と痛感するのです。

しかし、それしか我々の時代に残らない。であれば、ご遺書ひとつひとつが、「同じ庶民の、『戦争に導いたこの国の最高責任者から、とてつもない苦難を背負わされた若者の嘆き』」という視点から、我々自身が「皇統の決めたことを否定する文章や言葉、単語すら書くことが許されなかった中でしたためられた、ご遺書の『行間』」をくみ取る努力をしなければならない」、とそう思うのです。

考察:軍人さん方兵隊さん方のご遺書


彼らのご遺書を読むときに、
・戦争を決めた最高権力者
・ご遺書を掲載された新聞を読む大人
・教員の立場
・そして彼らの家族
・最後に彼らの母親
ご自身がそれぞれの立場の目を想像して読んでほしいと思います。同じ文面であっても、「見る目によって意味合いが変わってくる」のがお分かりになるでしょう。

謝辞

このページの標札「出征勇士の家」「殉國勇士の家」の画像は、仙台市歴史民俗資料館のご協力を戴き、ご許可を得て掲載したものです。また、Twitter 特攻隊員の遺書bot様公開のご遺書を紹介しており、掲載に当たって許可を戴きました。厚くお礼申し上げます。

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