石鎚の区域、走ってみて分かるのですが、平地がないのです。猫の額という単語がまさしく似合うほど地域でほんのわずかしかありません。石鎚山は西日本最高峰で、中国地方よりも狭い島の四国に標高が高い山がそびえているのです。村の入口、関門旅館のあたりにわずかに平地があり、そこに村役場や農協が置かれていました。そして川に沿ったわずかな土地に住居がありました。
学校はその先の河原、おそらく土も運び入れて、浅いところに苦労して建設したものと思います。学校用務員が欠員になっており、教員方が雑務もせねばならずいろいろと不便をきたしている状況でした。
そこで先生が当時の石鎚村長に掛け合い、欠員となった学校用務員に関行男海軍中佐のご母堂様をご推薦なさいました。用務員室に住み込みもでき、住居の心配もなくなります。村長はサカエ様のご苦労の状況も先生から聞いて快諾され、学校用務員として採用されました。当時は小遣いさんと呼ばれていました。サカエ様は最初、中佐のご母堂様でいらっしゃることは一言も話されませんでしたが、どこからともなく噂で村の人たちにも知られることとなり、子供達からは「日本一の小遣いさん」と親しまれました。
当時は石鎚村まで電気が来ていません。来客の給仕や、鐘(ハンドベル)を振って時刻を知らせ、給食を準備し、と忙しくされましたが、用務員になられ子供達に囲まれて、ようやく落ち着いた生活を得られました。
また、関行男海軍中佐の恩給も海軍消滅で停止していましたが、いよいよ来年から支給再開になるとのこと、手続きに周りの方々が奔走され再開を待つばかりでしたが、受給を前にして病気により55歳で世を去られました。
また、当時の人たちが関行男海軍中佐のご母堂様にした「仕打ち」について、そんな事実はみられない、というコメントを見ました。しかし、そうではないという証言もしっかりとあるのです。後世の人間は何とでも言えますが、戦争で疲弊した社会でも日本人は団結をするために生け贄を求める。戦地で散々苦労して復員された方々、松本駅に到着したら全ての宿に宿泊を断られた。ダニやシラミを遺されたら困る、と。特別攻撃隊の隊員さんに選ばれた人たちが帰国したら「特攻崩れ」と言って非難する。戦地で地獄を見た人たちに「貴様らが弱いからこの国が負けたんだ」と鬱憤を晴らす。
枚挙にいとまがないほど、敗戦後のこの国の人間は、弱い人間をめざとく見つけ、これ以上もない弾劾、私刑のようなことをして追い詰める一方、極端に権力には媚びて、先祖を殺した裕仁を国民が賞賛する。関行男海軍中佐のご母堂様に多くの方が接し、そのご苦労を多くの方が知るからこそ、後述しますが小説を書けるほどの分量になるのです。火元がないのに煙が立つなんてことはありません。
サカエさんが亡くなった際、戦時中は「軍神の母」につきまとっていた新聞記者が、「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」と吐き捨てるように言ったという。
関行男海軍中佐のご母堂様が、関行男海軍中佐のお墓まで毎週のように汽車で通われていたと、その姿をご覧になられた方から聞き及んでいます。バス停まで徒歩で2,30分かかり、バスで1時間でようやく駅に着き、それから予讃線に乗換え、また歩いてご墓所へと…。それだけ人生が厳しくつらかった、関行男海軍中佐に生きていてもらいたかった、という表れでしかありません。
石鎚小学校・石鎚中学校の訪問記はこちらです。
人を殺す、ということ
玉井は戦後、関行男海軍中佐のご母堂様に会っているのです。関行男海軍中佐に特別攻撃を強いた男です。生き延びて、「死ぬ時までずっと特別攻撃隊の隊員さん方の御霊を慰めるために仏門に入り、住職をしている」、と。
「自己弁護になりますが、簡単に死ねない運命(さだめ)になっている人間もいます。私は若いころ、空母の艦首に激突しました。ですから散華された部下たちの、張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がします。せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが。」
ずいぶんしおらしく書かれているのですが、こういうことも伝わっているのです。
玉井浅一は戦後になって敷島隊が結成されたときの様子を、全員が目を輝かせて挙手をして志願者が集まったと回想していますが、当時の隊員の証言では玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだためしぶしぶ手を挙げた者が多かったと言われています。
紹介のリンクには敷島隊の隊員さん中野磐雄海軍少尉のことが詳しく書かれていますのでご覧になってみてください。
「目を輝かせて挙手をして」とウソをついても、別のところからははっきりと「死を強要していた」なんて証言まで出てくるのです。わたしが特別攻撃隊の隊員さんの立場だったら(優秀でないから無理ですが)、こんな人間の経を聞き、木魚や鐘の音を聞くたびにむしろ余計に恨みが出てきて「魂が鎮まる」どころか、余計に怒りが湧いて仕方がありません。こんな人間の経など何のご慰霊になるのか、と思うのです。
福祉もなにもない、空襲で家を焼き出され、お父さんお母さんを戦争で亡くした子供達がお腹をすかせてさまようしかない、地獄のような苦しい社会に裕仁が導いた。
そのような中で関行男海軍中佐というご子息がこれ以上もない熾烈な殺され方をされて、ご主人様もご子息もいらっしゃらない中、誰にも助けを求めることもできない女性たった一人、生きていかねばならなかった、その事実は厳然と残るのです。
そして、戦争が終わってからのうのうと生きるのはもってのほかですが、とはいえ、仏門に入ろうが自殺して責任をとったことにしようが、そのやったことは取り返しもできないし、帳消しもできない。人間みなみな自分ひとりのものではないのです。周りの人、社会と影響し合って生きるさだめだからです。
そのようなさだめがあって、世に生まれてきたのに、赤の他人がよそ様の生命を奪う。あるいはよそ様の生命を奪えと社会を導く。となると、償わなければならないのは「その人の送るはずの人生」分だけではありません。ひとりひとりのご家族の人生も狂わせ、社会の一隅を照らす尊い魂を霊にしてしまったのです。照らされるはずだった家族の暮らしや、社会の輝きも償わなければならないのです。
人ひとり殺しても大変なことなのです。ただただ大昔の僧侶が書いた経を読む程度のことで、その人の人生が回復するようであったらなにも苦労しません。何より、本来生きる続けるはずだった時代も人間関係も一度きりで、再現はできないのです。それを奪ったことの罪の大きさは、計り知れません。
人間は永遠に生きる。霊として。自分が殺した人間が先に霊界に待ち構えている。苦しく死なざるを得なかった方々には仏様神様がつかれてるのです。その人間だった霊達が自分を見つけたとき「こいつが俺を殺したんだ!」と大挙して押し寄せてくる。どれだけ恐ろしいことでしょうか。戦争に導いた者たち、すべてそうなることをやってのけているのです。そうならないように「良心」を授けられているのに、人間的な利欲で見て見ぬふりをした。「自分が生きていればそれでいい」と。
先に霊となられた関行男海軍中佐がご母堂様の貧しく苦しい生活を送られているのをみて、どれほど悔しかったか、苦しかったか、と思うのです。母に恥をかかせないように、立派に軍人として生きたと胸を張って言えるように、と死を受け入れ作戦を成功に導かれたのに、国は最低限住む場所食べるものに困らない程度の生活すら母に与えなかった、裏切られた、と。そして、これは多かれ少なかれ、どの軍人さん方兵隊さん方も抱かれた辛さだと確信します。
苦労した方の尊い記録で文学賞を狙ったばかりに嘘か本当か分からないようなものが世に残り、賞も取れず、歴史記録にも役に立たず。絶版となって消えていく
関行男海軍中佐のご母堂様、サカエ様のご事績について、ご本人関係者から聞き取った記録にあたりたくても、知る限り、小説しかありません。
あとがきに「関親子をモデルにしている。可能なかぎり事実をふまえているが、虚構をまじえて作品化したことを付記しておきたい。」とあります。
小説内では、のっけから例えば姓の「關」様を「梶」とし、中佐の名「行男」中佐を「昭夫」に、ご母堂様の名「サカエ」様を「サナエ」にと改変しているので読みにくくて仕方がありません。
著者は愛媛新聞社に勤務していました。ご母堂様関係の取材も新聞社のつてや情報を最大限に利用したことでしょう。ジャーナリズムに関わっているならば、得られた内容が後世貴重な史料にもなると考え、そのまま後世に伝えるという選択を取ることは考えなかったのでしょうか。
可能なかぎり事実を踏まえるのではなく、ノンフィクションとしてこのような苦しい人生をお送りになったのだ、とそのまま書けばよいのです。ただただ戦争でご子息が苦しい目に遭わされ、戦争賛美で遂行にご子息もご母堂様も利用され、あげく周辺の人たちから迫害される。
このような厳しい現実を受け入れざるを得なかった関行男海軍中佐とそのご母堂様の人生は、結局は「戦争は絶対にしてはならない」というひとつの教訓として純粋に遺されるべきだったのです。
この記念館もその意図で作成し、今ご覧いただいております。
著者自身も西条市出身、愛媛県立西条高等学校の卒業生(関行男海軍中佐の後輩)という経歴です。愛媛新聞社を平成4年に退職し、その前後に刊行されました。関行男海軍中佐親子の壮絶な死を利用して「作品化・商品化」するために、嘘を混ぜ、芥川賞を取ってヒット作にしたい、有名になって金儲けも、と実際に出版社に持ち込んだということでしょう。
格別の苦労されて世を去られた方々の「死」に虚構を混ぜ、読者にインパクトを与えて本を売る。証言した人たちも、ただただ著者が有名になること、著者が芥川賞を取って、ヒット作にしてほしいなんて願って応じるでしょうか。
そもそも、虚構を織り込む行為自体、関行男海軍中佐とご母堂の尊厳を傷つけ、証言した人たちの好意を踏みにじることと考えもしないのでしょうか。
史実になるものを手に入れながらそれに手を加え、上書きして商品として書かれたものしかこの世に残さなかった/残らなかった結果、将来の日本人が人生を考える指針となる記録のうちの一つを失ってしまった、とわたしにとっては残念でなりません。
もし記録としてのこされれば、学術的に使われる、そうするとずっとずっと長い期間、貴重なインタビューは生きるのです。金儲けのために、安っぽい小説にわざわざ仕立て直された結果、苦労した方々の記録が残るせっかくの機会をなくしました。
しかも小説。娯楽本という扱いですから売れなくなったら廃版です。虚構含みに仕立て上げたばかりに、単なる小説として、今後世の中から消えるでしょう。このことが現世にどれだけ大きな損失となったか、と嘆かずにはいられません。
しっかりとした史実が記録されている歴史のできごとは、派生した小説がいくら出されてもいいのです。真実とそうでないことの区別ができ、真実を知りたい人は史実に当たることができるのですから。
しかし、関行男海軍中佐とそのご母堂様という時代に翻弄され、苦しく生きた親子の史実に触れた当時の人たちが存命し、証言していただける機会は極めて短い。それに遭遇できる手段を持ち、取材ができた幸運な人間なのに、虚構仕込みで娯楽作品にしたばかりに真実がのこらない。
そして関行男海軍中佐のご母堂様の記録も後世に残らない。それも関わったのは新聞社の人間。立場を利用するだけ利用して、駄作を作ったといっても過言ではないと思います。
そして、西条のまちから関行男海軍中佐のご母堂様をおいやったのと同じようなこと、それは相手の気持ちに踏み込み、相手を貶めるようなこと、自分だけ満たされれば良いという悪意、同じ事をしているように思えてなりません。
関行男海軍中佐のご母堂様の人生について他に書かれたもの・言われたものが、この本を底本にしているとしたら信憑性に問題があります。けれど、他にまとまったものが見当たらない。
著者自身が「できるだけ」といい、できない部分は信憑性がわからない、このようなものを参考にしなければならない、ということが残念でなりません。
(謝辞) このページの戦没兵士の帰還の画像は、せんだいメディアテークのご協力をいただき、申請の上提供をいただきました。ご関係の皆様に厚くお礼申し上げます。