2 静寂の石鎚村 ―― 消えゆく「村と関行男海軍中佐のご母堂様の記憶」 | 関行男記念館
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静寂の石鎚村 ―― 消えゆく「村と関行男海軍中佐のご母堂様の記憶」

はじめに

関行男海軍中佐(1921-1944)は愛媛県西条市のご出身です。初の神風特別攻撃隊「敷島隊」隊長として、1944年10月25日にご散華されました 。

特別攻撃とは、軍が苦し紛れに立案した、作戦とは到底呼べぬ愚策です。飛行機やボート、魚雷に爆弾を積み、人間を部品さながら操縦させたまま敵艦へ突入させるという、正気の沙汰とは思えぬ非人道的なものでした。

士官を養成する海軍兵学校でも、「生還を期さない攻撃は作戦ではない」と参謀が学生を論破した逸話が残ります。

しかしこの愚策は強行され、裕仁までもが「よくやった」と追認したことで加速。結果として6,000名もの前途ある若者が、国の体制維持のために殺されました。さらに軍や裕仁の責任回避のため、建前を「志願」としたことは、若者たちに「生きること、死ぬること」をどれほど逡巡させ、苦悩させたでしょうか 。

戦況が悪化し厭戦気分が漂う中、軍やマスコミは関中佐を「軍神」、ご母堂サカヱ様を「軍神の母」という偶像に祭り上げ、「軍神に続け」と国民を戦禍へ追い詰める宣伝塔に仕立てました 。

このことで戦後、サカヱ様は息子や夫を失った人々から憎悪の感情を一身に集めることとなります。自宅への投石や心ない噂話、壮絶な嫌がらせを受けました。その上、敗戦により中佐の軍人恩給は停止し、低家賃の借主には家主からの立ち退きをさせることも横行しており、住むところにも困られました 。

このご窮状を見かねたご友人の先生が、赴任先の千足山村立千足小学校の用務員の欠員を知り、村長にご推薦されました。住み慣れた西条の街を追われ、この山深い村がご安住の、そしてご終焉の地となりました。

ほどなく村は石鎚村いしづちむら、学校は石鎚小学校と改称されました。1977年に廃校後、今は学校の門柱だけが、子供達に囲まれて過ごされたご母堂様の最晩年の記憶を静かに留めています。

関行男海軍中佐のご母堂様が西条のまちを出て石鎚村に移らざるを得なかった社会的な背景

ご子息が「軍神」であった、という戦争を続けるために否応なく押し付けられた虚像を剥ぎ取れば、そこには国家に翻弄され、世間に石を投げられたこころあるひとりのお母さんと、言葉にできないほど過酷なご苦難がありました。

そもそも住み慣れた西条のまちから流浪の果てに石鎚の山奥でご生涯を閉じられるに至ったことそれ自体は、ご母堂様が望まれて向かわれたのではありません。

当時の人間の薄情さ、そして日本人の底辺にうごめくねたみやそねみ、そして人の不幸で自身の不満を解消し、ほかが団結するために「生贄いけにえ」を求める、日本人特有の気質の犠牲になられたということ。

関行男海軍中佐のご母堂様が生きられた「時代」とその背景について考察します。

国家による棄民 ―― 遺族の方々が国家に見捨てられた8年間

軍人恩給の停止から再開に至るまでの歴史は、単なる制度の変更ではなく、サカヱ様を含む遺族の方々が「国家に見捨てられた8年間」の記録でもあります。

1. 1945年11月24日:GHQ指令「恩給停止」の衝撃

終戦からわずか3ヶ月後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本政府に対し、SCAPIN-338と呼ばれる指令を出しました。軍人恩給を「軍国主義の温床」であり「軍人という特権階級を維持する仕組み」とみなしたためです。

軍人が引退後や遺族になっても国から金をもらえる仕組みがある限り、軍国主義は死なないと判断したのです。

戦死者の遺族年金(公務扶助料)を含む、すべての軍人向け恩給の支払いを禁じましたが、唯一、軍隊とは関係のない「戦傷病者(傷痍軍人)」への人道的援助のみが細々と許される程度でした。

このことは傷痍軍人たちへの差別に直結します。

2. 1946年2月1日:国内法の停止と「無一文」の放り出し

GHQの指令を受け、日本政府は「恩給法の一部改正」を閣議決定し、同年2月から実施しました。これほど重要なことも「閣議決定」として国会に諮らなかったのです。

これにより、当時約200万人にのぼった恩給受給者が対象から外れ、この日を境に国からの送金は完全にストップしました。

3. 1946年2月16日:「金融緊急措置令」の電撃発表

終戦直後、街にはお金があふれる一方で物がなく、物価は戦前の数百倍に跳ね上がっていました。政府はこのインフレを止めるため、抜き打ちで旧紙幣の流通を停止、わずか10日余りのうちに、手持ちの「旧円」は紙屑同然となりました。

国民は手持ちの現金を強制的に銀行へ預け、新しいお札(新円)に替えるよう命じられました。そして預金封鎖。銀行に預けたお金は、月々の引き出し額が極端に制限されました。世帯主は月300円まで、家族1人につき月100円まで。当時の100円は、闇市で米を数キロ買うのがやっとという額でした。

また、「新円切り替え」や猛烈なハイパーインフレの時期です。蓄えがあっても紙屑同然となり、現金収入を絶たれた遺族は、文字通り「今日食べるものがない」状態へ突き落とされました。つまり、

①恩給(現金収入)の消滅: GHQの指令により、国からの送金が止まりました。

②預金の凍結: わずかな蓄えがあっても、銀行から自由に出せなくなりました。

③資産再評価による没収: 凍結された預金には後に「財産税」が課され、高額な預金ほど国に吸い上げられました。

まさしく「生活しようにも生活が極めて困難な地獄の時代」へと、裕仁の宣戦布告が導いたのです。

マスコミの道理も倫理もかなぐり捨てた変節 ――「軍神」の偶像破壊

4. 1947年~1951年:空白と耐乏の時代

この時期、遺族たちは「沈黙」を強いられました。

「遺族会」は禁止され、GHQは遺族が寄り集まることさえ「右翼団体・軍国主義団体の再建」として警戒し、弾圧しました。また、世間では「逆コース(民主化)」が進み、遺族は社会的に冷遇されます。

戦時中に「軍神」や「誉れの遺族」を煽り立てた新聞各社は、敗戦を境に180度態度を変えました。「自己批判」という体裁で、マスコミが戦争へと導いた責任を徹底してご遺族や軍人さん方兵隊さん方に転嫁し、遺族を「戦争協力者」や「封建的遺物の象徴」として糾弾・放置したのです。

関行男海軍中佐のご母堂様が受けられた「石を投げられる」ような仕打ちの背景には、まさにマスコミ・報道機関のあまりの残酷さがあります。ましてや当時はSNSなどで心情を社会に訴える方法すらありません。いくらでも自分たちの都合の良いように記事を書き、戦前同様世論を書き換えることすらやってのけられた時代です。

昨日まで「軍神の遺族に続け」と書いていたペンで、「特攻は狂気の沙汰」「遺族を特別視する風潮は軍国主義の残滓(残りカス)」という記事を書くようになりました。「遺族=前時代の象徴」への格下げを図ったのです。

これが、一般市民が遺族を「自分たちを戦禍に引き込んだ加害者側」として攻撃を許す免罪符になりました。

① 1945年秋:新聞各社の「戦争責任」声明と「転向」

「国民と共に立たん」(1945年11月7日朝日新聞記事) 浅見真規 朝日新聞1945年11月7日「国民と共に立たん」には戦争扇動の謝罪が無い

「眞実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果たしえず」とあるが、自分たちが世論を醸成して戦争に進んで加担し、旗振り役になったことは何一つ反省がない。「幾多の制約」と煙に巻き、何の責任を明らかにするための「宣言」なのかも見えない。

ただただ受け身的に、政府発表を無批判に流してごめんね、程度の内容。これで禊は終わったとばかりに、ご遺族やご戦歿者に牙をむくような辛辣な記事を展開して、国民ともども戦争の犠牲者を追い込んでいきました。

リンク先の記事は、朝日新聞がいかに自らの戦争加担責任を曖昧にし、戦後の「変節」へと舵を切ったのか。その欺瞞を鋭く分析されているこの記事は、当時の遺族が置かれた不当な状況を理解する上で不可欠な視点を提供してくれます。

敗戦直後、新聞各社(朝日、毎日、読売など)はGHQの検閲方針(プレスコード)に合わせるため、急速に「民主主義の旗手」へと変貌を遂げました。

朝日新聞の事例(1945年11月7日)

「国民と共に立たん」という声明を発表。戦時中の自らの報道を「軍部の圧力によるもの」とし、あたかも自分たちも被害者であったかのような論調を展開しました。

② 「軍神」の偶像破壊と遺族の孤立

新聞は、戦時中に作り上げた「軍神」や「軍神の母」という偶像を、戦後は「国民を欺くための嘘」として自ら破壊しました。特に生きる死ぬるを突き付けられた特別攻撃隊の隊員様方に「犬死に」などといって嘲笑する気風は、すべて新聞がもたらしたものです。戦時は「自発的な至純の至誠」と持ち上げておきながら、彼らの死を貶めることは、ひいてはご遺族は特権的だと世間が誤解するほうへ故意に誘導したともいえます。

新聞は「軍人にだけ手厚い恩給を出すのは民主主義に反する」という論調を支持しました。新聞が作る恩給停止を正当化する空気感は張りぼての「公平・民主化」を生み出し、その空気の中では、遺族はどうなってもよい、加害者なのだからと偏見を助長する一翼を担い、ご遺族の生存権は顧みられませんでした。

③ 社会的煽りの実態:投石や嫌がらせの「免罪符」

当時の新聞や雑誌は、戦時中の熱狂を「国民が騙されていた」と結論づけました。すると、戦災で家族や家を失った人々の怒りの矛先は、行き場を失って、身近にいる「戦時中に名を挙げた軍人・兵隊のご遺族」に向かいました。特に軍神とされた方々のご遺族への嫌がらせすら、マスコミは「国民の怒り」としてあたかも当然のごとく容認しました。このことは、遺族に目立たないよう暮らすことを強要し、それが当然の「罪滅ぼし」であるかのように強要する風潮を生みだしました。

④「軍神の母」から「厄介者」というレッテルに張り替えたマスコミ

そして困窮した生活を送るご遺族を新聞が率先して「過去の価値観を捨てられない人々」とレッテルを貼りつけ、自分たちが問責されないように、戦争批判のかたちでご遺族の批判に矛先をすり替え、これを執拗に記事にしたことで、ご遺族を嘲笑的に扱う空気を醸成し、むしろ扇動していたことにも大きな原因があります。

ようやく「軍神」の鎧を脱ぐことができたひとりのこころある人間にふりかかる西条市民の迫害

関行男海軍中佐のご母堂様を追い込んだのは、ほかならぬ西条市民

ペンにより「二度殺された」ご遺族

当時の情報源、世間のことを知るには新聞や雑誌、ラジオぐらいしかありません。その報道機関が何を書くか、はただただ記者の胸先三寸。ご遺族の方々の暮らしぶりさえ自由にすることができました。持ち上げたり貶めたりすることで、―― マスコミが手を貸して戦争を扇動し、それがためにご子息やご主人を殺され悲嘆に暮れているのにも関わらず ―― 結果的には正しいこと、世の中の不正義を暴くことよりも、会社の存続を優先する態度を見せました。

その結果、戦後はGHQの歓心を買おうと揃って変節し、ご遺族には「二度の殺害」に等しい苦しみを与えられました。

1. 一度目:息子を「軍神」に祭り上げ、戦場に送ることを正当化した。

2. 二度目:敗戦後、ご遺族に「戦争協力者」の烙印とともに社会から切り捨て、迫害を黙認するどころか扇動するような記事ばかり書き連ねた。

関行男海軍中佐のご母堂様が石鎚の山奥へ移住された事実は、まずは自分たち新聞・報道が責任を逃れるために「生贄いけにえ」を求め、率先して自分たちに対する矛先をそらすために「ご遺族」という弱者を、社会的影響力を最大限に利用していかに熾烈に攻撃し続けたかということの裏返しです。

新聞の紙自体は、インク自体はご遺族を何ら傷つけないけれども、生贄いけにえを設定する。

例えばGHQにこびへつらって「軍人恩給の支給停止はごもっともです」ともみ手で、記事を書くときに「こいつらにこれ以上甘い汁(軍人恩給)を吸わすな」と書くのです。

ご子息やご主人を裕仁に殺されて、せめてもの、いのちと引き換えの軍人恩給なのに、「甘い汁」だなんて、いかにも国庫から利権があるかのように記事を書くのです。

そうすれば、群衆が手下になる。群衆は憂さも晴れて面白くて仕方がない。寄ってたかって虐め、迫害することを煽ることで、新聞も売り上げが伸びる。そして「そういう世論、大衆の総意である」とまた記事にすることで、ますます煽りが激烈になっていく。

そして民衆も「相手も戦争の残酷な被害者である」という当たり前のことをなんら考慮することなく、自分たちの憂さ晴らしにご遺族を生贄にする。

当時の生活範囲を考えても、関行男海軍中佐のご母堂様のことを考えれば、迫害したのは西条市民以外にあり得ない。市民総出で一人の立場の弱い女性をよってたかって迫害したということ。そしてそのことに誰一人疑問を挟まない。

愛媛県も西条市も、関行男海軍中佐のご母堂様以外にたくさんのご遺族がいた事情は分かります。けれども、住む場所を追われ、とびぬけて迫害に等しいことをされている関行男海軍中佐のご母堂様のことを「知らない」「知らなかった」ということは絶対にありえません。

次々とやってきていた来賓、有名人、有力者たち。関行男海軍中佐が西条のご出身である、というご存在で十分に自尊心を満足させておきながら、いざご母堂様が窮地に陥り、こと知人の小学校の先生が出された手紙 ――「使われていない兵舎に住まわせてあげてほしい」という事態に陥っても、西条市も愛媛県も切実な願いを完全に無視し、切り捨てるようなことを平然とやった。

―― 市民や県民が生存権すら脅かされていても無視を決め込む。

―― 利用できるものは利用する。

―― 利用できるときだけ利用する。

―― 利用できなくなれば躊躇なく迫害する側に回る。

どうしようもなく冷淡な土地柄であるということも見逃せません。

考察 書き間違えた名前の弔意書がそのまま遺族に届く ―― 海軍大臣の弔慰書は直接届くことはありません。死したら用なしとばかりに、経由した愛媛県も西条市も一緒になってスルーした動かざる証拠

ここを考えると弔意書の名前の誤記に、気が付いていたはずの市吏員すら訂正要求しなかったことは、故意であり「市もグルになって」関行男海軍中佐(の名)を「利用できるときだけ利用した」証拠である、と断言することができます。

当時は今よりもずっとずっと人間関係が濃い時代。西条のまちで人生を送ることの危機感が相当であったからこそ、小学校の先生が懸命に安住の地を探されても何ら不思議はありません。

戦中の、まだ軍神の母と崇められていた時期ですら、県や市は名前の誤字すら放置した弔意書を届けるほど彼女を軽んじていた。その無関心の土壌があったからこそ、戦後の手のひら返しという『生け贄にする』ターンへは、行政も含めた地域ぐるみでこれほど速やかに行われたのではないでしょうか。

そしてそれは現在の市政にもつながっているのです。今各地で戦跡や戦争の記憶をこれ以上風化させまいとする各地の自治体とは裏腹に、現在に至っても元市長で国鉄総裁経験者、四国に1mmも通してもいない「新幹線の父」や、彫刻家のように地位も名誉も得た人間ばかり顕彰し、ただただ苦しく亡くなり、ご母堂様まで困窮して暮らされた、それこそ「平和とは何か」と提示してくださっている関行男海軍中佐のご顕彰になんら関心を示さない。

過去に関行男海軍中佐のご母堂様を護らなかった過去も知らぬ顔。名誉市民には有名人ばかり。庶民の死は市長も市も完全に見て見ぬふり。これで「市長」、「市」だなんて恥ずかしくないのでしょうか。

ご主人やご子息を亡くした戦争未亡人の方々や無力なご遺族、とくに戦争推進の広告塔にさせられてしまったような関行男海軍中佐のご母堂様にとってのやるせなさを思うと、80年経とうが100年経とうが、市として過去に関行男海軍中佐のご母堂様を護らなかったことを市としてもかつての「市民」としてその苦しみを直視してほしい。

金銭がかかるわけではない。またかつては石鎚村も小松町も別の自治体であったけれども、現在はすべて西条市に包含されてよその自治体と調整する必要すらないのだから。

有名だったら死んでも名誉市民にして、自分の市に箔をつけようとするのだから、過去の西条の行政をふくめ市民がやった仕打ちを、償うにはせめて関行男海軍中佐とご母堂様を「名誉市民」にして「名誉回復」をして差し上げるしかほかないと思うのです。なにより、関行男海軍中佐も関行男海軍中佐のご母堂様も西条市民だったのです。

土地を追われた状況自体が証明しています。

社会から吹き荒れる「卑怯で過酷な暴力」、関行男海軍中佐のご母堂様の住まわれていたのは西条の土地。西条の市民がやってのけた迫害に違いないのです。

そしてその迫害から逃れるには、物理的に距離を置かなければならないほど、思い出の深い土地を離れなければならないほど過酷だったということ。

どれほど生きることが辛く苦しいかは、数十キロ離れたところにある毎週関行男海軍中佐のご墓所を訪れて心を寄せていかないほどの過酷なしうちだった、ということ。

関行男海軍中佐のご母堂様が住む場所を追われた背景 ―― なぜ戦後、壮絶な「立ち退き」が起きたのか

戦後の住宅不足と「立ち退き」の問題は、現在私たちが当たり前だと思っている「借り主(店借人)の強い権利」がなぜ生まれたのかという、日本の不動産法律の根幹に関わる歴史です。

関行男海軍中佐のご母堂様が直面された「家を追われる恐怖」は、当時の日本中で吹き荒れていた社会問題で、特に戦争で寡婦となられた家庭を直撃しました。

戦後直後の日本は、空襲による都市の焼失と外地からの引き揚げから一斉に住戸需要が逼迫ひっぱくし、全国で約420万戸が足りない、深刻な住宅難にありました。ここで起きたのが、地主・家主による「強引な追い出し」です。

家賃統制令の壁

当時はインフレが激しかったのですが、政府は社会混乱を防ぐため家賃を低く抑える「家賃統制令」を敷いていました。このことで家主からすれば、「安い家賃で貸し続けるより、今の住人を追い出して高く貸したい/売りたい」、あるいは「自分で使いたい」という動機が強く働きました。

1941年の改正で、家主が契約更新を拒むための「正当の事由」という概念は導入されていましたが、戦後の混乱期にはこの「正当事由」の解釈がまだ不安定で、「自分で使いたい」「身内を住まわせたい」という主観的な事情がまだまだ強く認められる傾向にありました。

「軍神の母」への風当たりの利用

ご母堂様の場合、この経済的な立ち退き圧力に加えて、世間の「逆恨み」という感情的な攻撃が加わりました。家主側も「世間から嫌われている人なら追い出しやすい」という卑劣な計算があった可能性も否定できません。

家主側が「軍神の母というレッテル」や「世間の風当たり」を悪用し、精神的に追い詰めて「合意解約(自発的に出ていく形)」に持ち込みやすい環境でした。

法律が未整備な中で、頼れる夫も息子も亡くし、さらに恩給まで止められた「孤立無援の女性」は、最も追い出しやすいターゲットにされてしまったのです。

自力救済の横行

現在では裁判を通さなければ立ち退きは不可能ですが、当時は法秩序が混乱しており、家主の「自力救済(力ずくの解決)」が公然と行われていました。

家主が勝手に荷物を運び出したり、居ない間に鍵を替えたりする「力ずくの追い出し」が横行していました。現代では当然違法であり、裁判所の判決(執行文)なしに強制的に追い出すことは、たとえ家主であっても「住居侵入罪」や「自力救済の禁止」として厳しく罰せられます。

終戦後寡婦・母子家庭となられた方々のご苦難が、現在の日本人にもたらしてくれているもの ―― 現在の借地借家法へのつながり

ご母堂様が苦しまれたような「家主の身勝手な追い出し」から、弱い立場にある店借人を守るために強化されてきたのが、現在の「借地借家法」です。

① 「正当事由せいとうじゆう」の確立

現在の法律では、家主が「出ていってほしい」と言うだけでは立ち退きは認められません。家主がその家をどうしても使わなければならない切実な理由(正当事由)が必要です。

「家賃をもっと上げたいから」「なんとなく気に入らないから」といった理由は、正当事由として認められません。

② 「立退料」の明文化

正当事由が足りない場合、それを補うために家主が支払うのが「立ち退き料」です。戦後の混乱期にはこのような補償も曖昧でしたが、現代では「住む権利」を金銭で補填する仕組みが判例として確立しています。

法律第28条には正当事由を判断する際に、家主側の事情だけでなく「借主が立ち退くことによって受ける不利益を補填するための財産上の給付(立退料)」を考慮することがはっきりと書かれています。

……建物の借主が建物の明渡しと引換えに……財産上の給付をすることを申し出た場合におけるその申出を考慮して、正当の事由があると言えるか判断する。
借地借家法 第28条(抜粋)

現代であれば、関行男海軍中佐のご母堂様のようなケースでは、家主が「自分で使いたい」と言っても、彼女に次の住居を確保するための十分な立退料を支払わない限り、裁判所はまず立ち退きを認めません。

③ 解約告知の制限

1941年の法律も現在の法律も家主が契約を終わらせたい場合、少なくとも6ヶ月前には予告しなければなりませんが、現在の法律では「同じ6ヶ月だが、期間満了後も住み続ければ自動更新(法定更新)される」と言う点が大きく異なります。ご母堂様のように「明日から行くところがない」という状況にならないよう、法が生活の猶予を保障しています。

まとめ

ご母堂様が西条を追われ、石鎚の山奥へ向かわざるを得なかった背景には、単なる「噂話」だけでなく、「法律がまだ弱者を守りきれなかった時代の、残酷な不動産経済の現実」があり、「家主の権利」と「借り主の生存権」が激しく衝突していた過渡期であったのが、より生きるご苦難を増幅させたように思えます。

現在の日本の「借り主が非常に守られている法律」は、ご母堂様のような、戦後の理不尽な立ち退きで泣き寝入りせざるを得なかった無数の人々の犠牲の上に、反省として積み上げられたものなのです。

今の視点で当時の状況を見れば、彼女がいかに「あってはならない暴力的な立ち退き」にさらされていたか、そして当時を生きた方々の生命を脅かされるような苦難を踏まえて、今の時代の人間が法律で救われている面が浮き彫りになります。

「時間切れ」となった命 ―― せめてもの国の罪滅ぼし「軍人恩給」も遅すぎた

5. 1952年4月28日:サンフランシスコ平和条約の発効と「主権回復」

日本が独立を取り戻したこの日、遺族たちの怒りと悲しみは一気に噴出しました。

条約発効に先立つ1952年3月11日、現在の日本遺族会の前身となる日本戦没者遺族厚生連盟が結成されました。「死んでこいと言ったのは国ではないか」「独立したのなら約束を果たせ」という叫びは、1,000万人の署名を集めました。

当時の吉田茂政権や保守党にとって、巨大な数となった遺族の票は無視できない存在でした。選挙を有利に進めるため、政府は急ピッチで恩給再開の法整備を進めました。

6. 1953年8月1日:恩給法の復活(軍人恩給の再開)

ついに「恩給法の一部を改正する法律(法律第155号)」が施行され、軍人恩給が復活しましたが、1946年から1953年7月までの「空白の7年半」については、1円も支払われませんでした。実際の支給開始は1953年10月です。

関行男海軍中佐のご母堂様が「軍人恩給再開を目前に亡くなった」という事実は、単なる不運ではありません。国家が男性たちに軍服を無理やりに着せ、望みもしない異国へ連行し、よその国の国民くにたみと望みもしない殺し合いをさせられ、「この日本と言う国に」殺された。

遺られたご遺族をせめて幸せにする、という責任すら放棄し、世間がご遺族の生きる尊厳を奪う現状まで放棄して、GHQの言われるがまま ―― 遺族が減って負担が減るのを待っていたかのように ―― 暮らしに困らない国会議員らも動かず、法律が間に合わなかった。

これは「一人の女性の命が時間切れになるまで追い詰められた」という社会的な殺害に他なりません。

今となっては当時を偲ぶものはほとんどありませんが、どれほど山深いところに追いやられたかが、当時の社会と関行男海軍中佐のご母堂様の精神的な距離 ―― これほど追い詰められた、これほど追いやられた ―― の表れのようにすら思えます。

ロープウェイ開通と林業衰退、そして石鎚小学校・石鎚中学校の閉校

石鎚村の入口
石鎚村の入口, 2020.6.6

林業と石鎚山登山客に支えられた観光業が主要産業だった石鎚村いしづちむらにとって、林業の衰退と隣接する新居郡大保木村おおふきむらでのロープウェイ完成(1969年)は、村の存続に関わる大問題でした。県道142号(石鎚伊予小松停車場線)は石鎚村と国鉄予讃線伊予小松駅を繋ぐ県道ですが、村の入口で県道12号がロープウェイ方面へ分岐しています。石鎚山登山にロープウェイが利用できることは、石鎚村内を通らずに石鎚山に登山する客が増加していくということでもありました。

写真は石鎚村の入口で、先に見える分岐の左が小松町市街、右が石鎚ロープウェイ乗り場です。

住民にとってみても、林業に代わる現金収入が生活に必要になります。特に子供をもつ家庭にとっては村内に高等学校がないことは、進学を契機にして離村を促す要因のひとつになりました。こうして、村内の人口が県道をストローにして麓の小松町市街地へと流れていき、ついには集団移住の方針を決めるに至ります。石鎚村はその後、小松町に合併。さらに西条市との合併を経て、現在は西条市小松町石鎚という地名になっています。

しかし現在、石鎚の地区人口は0人で無住地となっています。市の地区別人口統計では「石鎚」地区の集計欄自体消滅しています。下の表は、1950年と1987年の石鎚村(旧千足山村)の人口ですが、1987年時点で既に14世帯26人にまで減少していました。学校住宅というのはこの石鎚小学校・石鎚中学校の職員住宅でしょうか。

石鎚村の地図 山内鉄雄 秘境石鎚山麓 消えた村に光を, 新居浜市高齢者生きがい創造学園サークルはづき発行, 2009.11.1
石鎚村の地図
表 3-26 千足山村の世帯・人口の推移
集落名1950年1987年
世帯数人口世帯数人口
黒川2616200
有永9481965年廃村
老ノ川12701973年廃村
正路藪7411976年廃村
大平106712
成藪5221978年廃村
折掛12611975年廃村
上居159811
中村・谷ヶ内139625
石貝85500
槌ノ川7361975年廃村
9481978年廃村
古防72911
戸石218111
途中ノ川148400
湯浪1610147
虎杖188147
学校住宅5800
常住1100
2151,1891426
注)1950年の資料は「千足山村誌」による。1987年の資料は小松町役場調べ。
愛媛県生涯学習センター 加茂川流域の過疎集落 石鎚村(改称前の名称は千足山村)の人口 データベース『えひめの記憶』
唯一屋根が遺っていた建物
この建物は…?, 2020.6.6

職員住宅に関連して、上の建物は2020年6月6日に訪問したときに唯一屋根が遺っていた建物です。関行男海軍中佐のご母堂様の寝泊まりされていらっしゃった部屋(用務員室)と説明される場合がありますが、内部は物置のように見えました。ただ、校長室など含めて校舎が跡形もないのに、後世遺るのが用務員室というのは不自然なようにも思え、学校の建物より後に建ったのか…?とも思いますが、知っていらっしゃる方がいたらお教えください。

石鎚小学校・石鎚中学校にある説明文

最後に当地に設置した説明文をご紹介します。訪問前にGoogleマップで石鎚小学校・石鎚中学校の付近を調べたところ、調べた時点では石鎚小学校・石鎚中学校のあった場所までストリートビューが来ておらず、現地に関行男海軍中佐とご母堂様のことを説明したようなものが何もなさそうだ、ということが気になって仕方ありませんでした。

このため現地で貼ることができる場所を見つけることにし、大小2つを業者に依頼してラミネート加工して持参しました。ところが現地に行ってみるとふたつも何も貼られていない掲示板があったのには驚きました。ご用意いただいていたように思い、ご縁を感じた次第です。

後日談になりますが、慰霊碑を掃除していたときに「ハイキングで石鎚の学校(石鎚小学校・石鎚中学校)の前を通りかかって、こんなことがあったのか、とびっくりして(関行男海軍中佐の慰霊碑に)来ました」と声を掛けられました。こんな山奥で掲示を見て、わざわざ慰霊碑まで来てくださった!、とずいぶん嬉しく思いました。

使われていない掲示板
使われていない掲示板が2つも!
説明文を設置
説明文を設置。風で飛ばされないよう多めの画鋲で固定しました。
設置後の掲示板
貼った後です。同居人の手が

使われていなかった掲示板には、かつてどんな掲示が貼られていたのか

何も貼られていない掲示板でしたが、画鋲は残っているのだから以前何が貼られていたのか。恐らくご母堂様のことが書かれていたのだろうと推測はするのだけれど、それがどんなものか知りたい。というわけでいろいろ調べたところ、2012年に訪問された方が写真を掲載してくださっていて、以下のように掲示がされていたことが分かりました。

かつての掲示板の内容
「こんな山奥で一人ひっそりと貧困と苦悩の中で亡くなられ、悔しくてなりません。」

訪問してみて驚くのですが、険しく高い山と山の隙間にあるようなところなので、朝日が差すのは遅く、また日暮れも驚くほど早いです。

このような寒村で町を追われてひっそりと生活をしなければならない。関行男海軍中佐が生きていらっしゃったならば、と失意の中で日々日々思い暮らしておられたと考えると、その悲しみや苦しみは察するに余りあります。

関サカヱ殿終焉の地
親子二人きりの家族でかけがえのない子息を神風特攻で亡くし、どんなにか心を傷めた事でしょう。

戦時中は軍神の母と言って持囃しておきながら、敗戦後の心無い中傷事や、冷たい仕打ち等は、同じ日本人として恥ずかしく、なさけなく思います。

こんな山奥で一人ひっそりと貧困と苦悩の中で亡くなられ、悔しくてなりません。貴方の尊い犠牲の上に今の平和がある事を私達は忘れません。

再び愛する夫や我が子を戦場に送り出す事がないように努力します。

どうか、見守っていてください。

合掌

ここに学校があった(愛媛新聞記事引用) 山内鉄雄 秘境石鎚山麓 消えた村に光を, 新居浜市高齢者生きがい創造学園サークルはづき発行, 2009.11.1
2000年当時の石鎚小学校の様子が新聞で紹介され、書籍で引用されていたので紹介します。

2000年に新聞記者が訪問した石鎚小学校の様子の記事(2008年8月15日)が書籍に引用されていました。当時もいまと同じように建物はなく、ただ門柱だけが「当時ここに小学校があったのだ」と伝えている様子は変わりません。

番外編

設置したての携帯電話基地局
設置したての携帯電話基地局, 石鎚小学校・石鎚中学校敷地内, 2020.6.6

訪問時、石鎚小学校・石鎚中学校の敷地への坂道が部分補強されて一部白いコンクリートになっていました。その先には、学校が存続していたらものすごく邪魔であろう校庭のど真ん中にあたる場所に、真新しいKDDIらしき基地局が立っていました(この基地局の利用者はいるのかなという気もしますが、道中の心細さを考えると有難くはあります。)
もともと村立学校の敷地ですので、土地は西条市が貸しているのかもしれません。コンクリートの坂道補強は基地局工事の資材搬入トラックが進入するためのものと思われます。

周桑農協に関する告発文
周桑しゅうそう農協は詐欺横領の常習丹生川にゅうがわ出張所云々, 石鎚村虎杖, 2020.6.6

「道中の心細さ」と前述したのですが、こういうのが途中にあり、ちょっとおどろおどろしい。周桑農協の丹生川出張所の組合長が一億円横領したとかなんとかという告発文。この建物は旧農協らしく、そのとなりの何もないところに石鎚村役場があったようです。

2025年9月の再訪問

掲示板の様子がずっと気にかかっていたのですが、このサイトの形ができあがったことと、記載していた連絡先が使えなくなっていたことから、2025年9月26日に掲示板の説明を更新してきました。

新しい説明
立て看板の根元が朽ちていましたが、どなたかがしっかりとした金属の支柱を添えてくださっていました。感謝に堪えません。
周桑農協と思われた建物も倒壊
周桑農協と思われた建物は倒壊していました。
河口停留所
河口停留所。石鎚村の入口にあたる停留所です。石鎚村の村人たちはここから小松市街や国鉄伊予小松駅までバスを利用されたようです。
掲示した新しい説明文
▲掲示した新しい説明文。前回はA3でしたが、今回はA4版になりました。

途中旧農協だったと思われる建物は倒壊し、またナビでは石鎚小学校までの道中に通行止めが表示されていました。それはナビの誤記載で、当日実際には石鎚小学校までは行くことができ、学校の先からの車両規制(バリケード設置)でした。

5年越しの訪問になり、当日9時頃までは涼しいのですが、日が差し込んでくる10時前になると前日の雨もあって、蒸し暑くなりました。5年前にはあった門柱の前の木彫りのふくろうはなくなり、校地内への道は雑草が伸び伸びと茂っていました。

折しも前日の降雨でぬかるんでいることから敷地内に立ち入るのは控えました。相変わらず西日本最高峰の石鎚山の谷間にあるだけあって、夜明けは遅く、日の入りは早いのを実感します。

新しい説明をご紹介します。

石鎚村立石鎚小学校・石鎚中学校跡地(1977年廃校)

太平洋戦争時 特別攻撃隊第一号として自らの生命を投げ出し 国を護られた 西条市大町ご出身 関行男海軍中佐のご母堂 サカヱ様のご終焉の地

弔問客に答礼されるサカヱ様。ご自宅の玄関の横には大きな標柱が立てられ、『軍神 関行男海軍大尉之家』と書かれている。
▲弔問客に答礼されるサカヱ様。「軍神の母」として新聞に掲載されたもので、中佐の死をこのようなかたちで戦争の遂行に利用しました。左下は関行男海軍中佐。

関行男せき ゆきお海軍中佐のご母堂 サカヱ様は、中佐が海軍兵学校(士官学校)在学中にご主人を亡くされ、中佐が24歳(数え年)の若さで特別攻撃で1944年10月25日にご散華なさると、家族を失い孤独になられました。

戦時中、国や報道機関は関行男海軍中佐を「軍神」、サカヱ様を「軍神の母」と絶賛し、戦意高揚に利用して国民を追い込んで行きました。

このことは戦後、戦争で家族を亡くした人たちの鬱憤を一身に受けられることにつながりました。 誰一人として護ってくれる人もない中、石つぶてを投げられるなど社会から迫害をされ、たったひとつの生命を上官の命令で投げ出された中佐までも戦争犯罪人と汚名を着せられます。

さらに戦後海軍が消滅したことで中佐の恩給が止まり、生活もおびやかされます。 病弱の中で慣れない草餅の行商をなさいながら、物置のようなところで寝泊まりされる苦しい生活を送られていました。

これをみかねた小学校の先生が愛媛県庁や西条市役所に窮状を訴えましたが無視されました。 しかし赴任先のこの学校に用務員の欠員があるのを知り、村長の快諾を得てこの学校で用務員として採用されます。

子供たちからは関行男海軍中佐のご偉功から「日本一の小使いさん」と言われて親しまれ、ご多忙ながら熱心に勤められました。

西条市の中心部からこのような山奥へと追いやられた苦難のご生涯。中佐の軍人恩給の再開を目前に、55歳の若さでこの地で終えられました。

関行男海軍中佐のご慰霊碑が市内楢本ならもと神社にあります。 よろしければご参拝ください。

ご訪問なさる方へ

旧石鎚村への分岐(西条市街から石鎚ロープウェイへ行く途中の関門旅館があるY分岐)から石鎚小学校・石鎚中学校までは、舗装はあるものの路面は荒れています。

崖からの落石注意の警戒標識もあるようなところですので、訪問される場合は自己責任でお願いします。もし行かれる場合は現地でお花かなにか手向けてあげていただけると幸いです。

ただし、花そのもの以外の食べ物や包み紙などは、動物が荒らす原因となり、山奥の無住地でもあり、誰も処理できないゴミになってしまいますので、お持ち帰りをお願いします。

携帯(povoと楽天モバイル)の電波状況について

山奥で人通りもないため、安全のため携帯電話をお持ちになれば安心かと思います。参考までに、2025年9月26日時点、わたしのiPhone11(5G非対応)での通信状況です。

povo(auのネットワーク)

石鎚小学校付近…良好
幹線に面した関門旅館、河口停留所付近…圏外

楽天モバイル

以前圏外と記しましたが、楽天モバイルはauのネットワークのうち、周波数B18を借りてエリアを拡大しています。後に調べたら持参した機種はB18非対応でしたので、当地での受信可否は次回訪問時に調べてみます(いつになるかな…)。他社携帯の方でつながるか確認されましたら教えてください。

謝辞

2025年9月26日に訪問にあたって事前にネットで情報をみたところ、別の方が訪問、撮影された画像では掲示板が門柱にもたれかけてあり、説明文も道路から見えない様子で心配して訪問しました。

現地へ行きますと、掲示板の木製の足の下の方が朽ちており、それを支えるように金属のポールで木製の足をネジ止めし、さらに倒れないようにガードレールに寄り添わせてくださっていました。

どなたがなさってくださったのかはわかりませんが、手のかかる作業だったと思います。大変うれしく思いました。厚くお礼申し上げます。

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