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静まりかえった石鎚村

ロープウェイ開通と林業衰退、そして石鎚小学校・石鎚中学校の閉校

石鎚村の入口
石鎚村の入口, 2020.6.6

林業と石鎚山登山客に支えられた観光業が主要産業だった石鎚村にとって、林業の衰退と隣接する新居郡大保木村(おおふきむら)でのロープウェイ完成(1969年)は、村の存続に関わる大問題でした。県道142号(石鎚伊予小松停車場線)は石鎚村と国鉄予讃線伊予小松駅を繋ぐ県道ですが、村の入口で県道12号がロープウェイ方面へ分岐しています。石鎚山登山にロープウェイが利用できることは、石鎚村内を通らずに石鎚山に登山する客が増加していくということでもありました。

写真は石鎚村の入口で、先に見える分岐の左が小松町市街、右が石鎚ロープウェイ乗り場です。

住民にとってみても、林業に代わる現金収入が生活に必要になります。特に子供をもつ家庭にとっては村内に高等学校がないことは、進学を契機にして離村を促す要因のひとつになりました。こうして、村内の人口が県道をストローにして麓の小松町市街地へと流れていき、ついには集団移住の方針を決めるに至ります。石鎚村はその後、小松町に合併。さらに西条市との合併を経て、現在は西条市小松町石鎚という地名になっています。
しかし現在、石鎚の地区人口は0人で無住地となっています。市の地区別人口統計では「石鎚」地区の集計欄自体消滅しています。下の表は、1950年と1987年の石鎚村(旧千足山村)の人口ですが、1987年時点で既に14世帯26人にまで減少していました。学校住宅というのはこの石鎚小学校・石鎚中学校の職員住宅でしょうか。

表 3-26 千足山村の世帯・人口の推移
集落名 1950年 1987年
世帯数 人口 世帯数 人口
黒川 26 162 0 0
有永 9 48 1965年廃村
老ノ川 12 70 1973年廃村
正路藪 7 41 1976年廃村
大平 10 67 1 2
成藪 5 22 1978年廃村
折掛 12 61 1975年廃村
上居 15 98 1 1
中村・谷ヶ内 13 96 2 5
石貝 8 55 0 0
槌ノ川 7 36 1975年廃村
9 48 1978年廃村
古防 7 29 1 1
戸石 21 81 1 1
途中ノ川 14 84 0 0
湯浪 16 101 4 7
虎杖 18 81 4 7
学校住宅 5 8 0 0
常住 1 1 0 0
215 1,189 14 26
注)1950年の資料は「千足山村誌」による。1987年の資料は小松町役場調べ。
愛媛県生涯学習センター 加茂川流域の過疎集落 石鎚村(改称前の名称は千足山村)の人口 データベース『えひめの記憶』

唯一屋根が遺っていた建物
この建物は…?, 2020.6.6

職員住宅に関連して、下の建物は2020年6月6日に訪問したときに唯一屋根が遺っていた建物です。関行男海軍中佐のご母堂様の寝泊まりされていらっしゃった部屋(用務員室)と説明される場合がありますが、内部は物置のように見えました。ただ、校長室など含めて校舎が跡形もないのに、後世遺るのが用務員室というのは不自然なようにも思え、学校の建物より後に建ったのか…?とも思いますが、知っていらっしゃる方がいたらお教えください。

石鎚小学校・石鎚中学校にある説明文

最後に当地に設置した説明文をご紹介します。訪問前にGoogleマップで石鎚小学校・石鎚中学校の付近を調べたところ、調べた時点では石鎚小学校・石鎚中学校のあった場所までストリートビューが来ておらず、現地に関行男海軍中佐とご母堂様のことを説明したようなものが何もなさそうだ、ということが気になって仕方ありませんでした。
このため現地で貼ることができる場所を見つけることにし、大小2つを業者に依頼してラミネート加工して持参しました。ところが現地に行ってみるとふたつも何も貼られていない掲示板があったのには驚きました。ご用意いただいていたように思い、ご縁を感じた次第です。

後日談になりますが、慰霊碑を掃除していたときに「ハイキングで石鎚の学校(石鎚小学校・石鎚中学校)の前を通りかかって、こんなことがあったのか、とびっくりして(関行男海軍中佐の慰霊碑に)来ました」と声を掛けられました。こんな山奥で掲示を見て、わざわざ慰霊碑まで来てくださった!、とずいぶん嬉しく思いました。

使われていなかった掲示板には、かつてどんな掲示が貼られていたのか

何も貼られていない掲示板でしたが、画鋲は残っているのだから以前何が貼られていたのか。恐らくご母堂様のことが書かれていたのだろうと推測はするのだけれど、それがどんなものか知りたい。というわけでいろいろ調べたところ、2012年に訪問された方が写真を掲載してくださっていて、以下のように掲示がされていたことが分かりました。

かつての掲示板の内容
「こんな山奥で一人ひっそりと貧困と苦悩の中で亡くなられ、悔しくてなりません。」

訪問してみて驚くのですが、険しく高い山と山の隙間にあるようなところなので、朝日が差すのは遅く、また日暮れも驚くほど早いです。このような寒村で町を追われてひっそりと生活をしなければならない。関行男海軍中佐が生きていらっしゃったならば、と失意の中で日々日々思い暮らしておられたと考えると、その悲しみや苦しみは察するに余りあります。

関サカエ殿終焉の地
親子二人きりの家族でかけがえのない子息を神風特攻で亡くし、どんなにか心を傷めた事でしょう。
戦時中は軍神の母と言って持囃しておきながら、敗戦後の心無い中傷事や、冷たい仕打ち等は、同じ日本人として恥ずかしく、なさけなく思います。
こんな山奥で一人ひっそりと貧困と苦悩の中で亡くなられ、悔しくてなりません。貴方の尊い犠牲の上に今の平和がある事を私達は忘れません。
再び愛する夫や我が子を戦場に送り出す事がないように努力します。
どうか、見守っていてください。
合掌

番外編

設置したての携帯電話基地局
設置したての携帯電話基地局, 石鎚小学校・石鎚中学校敷地内, 2020.6.6

訪問時、石鎚小学校・石鎚中学校の敷地への坂道が部分補強されて一部白いコンクリートになっていました。その先には、学校が存続していたらものすごく邪魔であろう校庭のど真ん中にあたる場所に、真新しいKDDIらしき基地局が立っていました(この基地局の利用者はいるのかなという気もしますが、道中の心細さを考えると有難くはあります。)
もともと村立学校の敷地ですので、土地は西条市が貸しているのかもしれません。コンクリートの坂道補強は基地局工事の資材搬入トラックが進入するためのものと思われます。

周桑農協に関する告発文
周桑農協は詐欺横領の常習丹生川出張所云々, 石鎚村虎杖, 2020.6.6

「道中の心細さ」と前述したのですが、こういうのが途中にあったわけなのですよ。周桑農協の丹生川出張所の組合長が一億円横領したとかなんとかという告発文。この建物は旧農協らしく、そのとなりの何もないところに石鎚村役場があったようです。

2025年9月の再訪問

掲示板の様子がずっと気にかかっていたのですが、このサイトの形ができあがったことと、記載していた連絡先が使えなくなっていたことから、2025年9月26日に掲示板の説明を更新してきました。

掲示した新しい説明文
▲掲示した新しい説明文。前回はA3でしたが、今回はA4版になりました。

途中旧農協だったと思われる建物は倒壊し、またナビでは石鎚小学校までの道中に通行止めが表示されていました。それはナビの誤記載で、当日実際には石鎚小学校までは行くことができ、学校の先からの車両規制(バリケード設置)でした。
5年越しの訪問になり、当日9時頃までは涼しいのですが、日が差し込んでくる10時前になると前日の雨もあって、蒸し暑くなりました。5年前にはあった門柱の前の木彫りのふくろうはなくなり、校地内への道は雑草が伸び伸びと茂っていました。折しも前日の降雨でぬかるんでいることから敷地内に立ち入るのは控えました。相変わらず西日本最高峰の石鎚山の谷間にあるだけあって、夜明けは遅く、日の入りは早いのを実感します。

新しい説明をご紹介します。

石鎚村立石鎚小学校・石鎚中学校跡地(1977年廃校)

太平洋戦争時 特別攻撃隊第一号として自らの生命を投げ出し 国を護られた 西条市大町ご出身 関行男海軍中佐のご母堂 サカエ様のご終焉の地

弔問客に答礼されるサカエ様。ご自宅の玄関の横には大きな標柱が立てられ、『軍神 関行男海軍大尉之家』と書かれている。
▲弔問客に答礼されるサカエ様。「軍神の母」として新聞に掲載されたもので、中佐の死をこのようなかたちで戦争の遂行に利用しました。左下は関行男海軍中佐。

関行男(せきゆきお)海軍中佐のご母堂 サカエ様は、中佐が海軍兵学校(士官学校)在学中にご主人を亡くされ、中佐が24歳(数え年)の若さで特別攻撃で1944年10月25日にご散華なさると、家族を失い孤独になられました。

戦時中、国や報道機関は関行男海軍中佐を「軍神」、サカエ様を「軍神の母」と絶賛し、戦意高揚に利用して国民を追い込んで行きました。

このことは戦後、戦争で家族を亡くした人たちの鬱憤を一身に受けられることにつながりました。 誰一人として護ってくれる人もない中、石つぶてを投げられるなど社会から迫害をされ、たったひとつの生命を上官の命令で投げ出された中佐までも戦争犯罪人と汚名を着せられます。

さらに戦後海軍が消滅したことで中佐の恩給が止まり、生活もおびやかされます。 病弱の中で慣れない草餅の行商をなさいながら、物置のようなところで寝泊まりされる苦しい生活を送られていました。

これをみかねた小学校の先生が愛媛県庁や西条市役所に窮状を訴えましたが無視されました。 しかし赴任先のこの学校に用務員の欠員があるのを知り、村長の快諾を得てこの学校で用務員として採用されます。

子供たちからは関行男海軍中佐のご偉功から「日本一の小使いさん」と言われて親しまれ、ご多忙ながら熱心に勤められました。

西条市の中心部からこのような山奥へと追いやられた苦難のご生涯。中佐の軍人恩給の再開を目前に、55歳の若さでこの地で終えられました。

関行男海軍中佐のご慰霊碑が市内楢本(ならもと)神社にあります。 よろしければご参拝ください。

ご訪問なさる方へ

旧石鎚村への分岐(西条市街から石鎚ロープウェイへ行く途中の関門旅館があるY分岐)から石鎚小学校・石鎚中学校までは、舗装はあるものの路面は荒れています。崖からの落石注意の警戒標識もあるようなところですので、訪問される場合は自己責任でお願いします。もし行かれる場合は現地でお花かなにか手向けてあげていただけると幸いです。
ただし、花そのもの以外の食べ物や包み紙などは、動物が荒らす原因となり、山奥の無住地でもあり、誰も処理できないゴミになってしまいますので、お持ち帰りをお願いします。

携帯(povoと楽天モバイル)の電波状況について(2025年9月26日時点): iPhone11(5G非対応)では、石鎚小学校付近でpovoでのネット接続は良好でした。また、幹線に面した関門旅館、河口停留所付近は人家はあるものpovoは圏外でした。楽天モバイルはどちらも圏外でした。

謝辞

2025年9月26日に訪問にあたって事前にネットで情報をみたところ、別の方が訪問、撮影された画像では掲示板が門柱にもたれかけてあり、説明文も道路から見えない様子で心配して訪問しました。現地へ行きますと、掲示板の木製の足の下の方が朽ちており、それを支えるように金属のポールで木製の足をネジ止めし、さらに倒れないようにガードレールに寄り添わせてくださっていました。

どなたがなさってくださったのかはわかりませんが、手のかかる作業だったと思います。大変うれしく思いました。厚くお礼申し上げます。

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