海の底に沈んだ魂-長生炭鉱という地獄と、この国の朝鮮人の受難
「長生炭鉱」という地獄
炭鉱といえばヤマですが、山口県宇部市の「長生炭鉱」という瀬戸内海の海底炭鉱のことをご紹介します。海岸線沿いをJR宇部線が走っているのですが、そこから沖の方に坑道が延びていました。
長生炭鉱があったところとはやや離れた住宅街の一角に、炭鉱の悲劇を伝え追悼する場が設けられています。
海の底の坑道と聞くだけで起きるであろう惨事がどういうものか見当がつくのですが、海底を掘り進み、頭の上には海水が満ち満ちている。ただでさえ鉱山労働は危険であるのに、それがどれほど恐ろしいか、想像に難くありません。
現在「追悼ひろば」が近傍にその悲劇を伝えていますが、その説明文をご覧ください。
一九四二年二月三日早朝、ここ西岐波の浜辺にあった長生炭鉱で、「水非常」(水没事故)が起き、一八三名もの人々が生きながら、坑道に封じ込められてしまいました。
アジア・太平洋戦争に突入した日本は、国策として、石炭の増産を強く推し進めたのです。それは漏水を繰り返していた危険な長生炭鉱も例外ではありませんでした。
犠牲者のうち一三六名は、日本の植民地政策のために土地・財産などを失い、やむなく日本に仕事を求めて渡ってきたり、あるいは労働力として強制的に連行されてきた朝鮮人だったのです。
また、日本人四七名も、多くの戦災者と同様、戦時中の混乱の中でかえりみられませんでした。
無念の死を遂げ、今もなお目の前の二本のピーヤの底深く眠っている人々に、つつしんで哀悼の意を捧げます。
とりわけ、朝鮮人とその遺族にたいしては、日本人として心からおわびいたします。
私たちは、このような悲劇を生んだ日本の歴史を反省し、再び他民族を踏みつけにするような暴虐な権力の出現を許さないために、力の限り尽くすことを誓い、ここに犠牲者の名を刻みます。
二〇一三年二月二日
長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会
お父さん! 私達が今日も来ました。
いまだ地下に居られるお父さんの事を思うと私達の胸には悲痛しかありません。
お父さん! 私達がたとえあなたの実の息子、娘では無かったとしても実の息子、娘としてうれしく迎えてください。私達も実の父親だと思ってお仕えします。今日、参席した遺族達はほんのわずかではありますが、いつかこの場所に埋没されている全ての方々の子孫達が集まることでしょう。 私達全員は一九四二年二月三日 その日を記憶します。冷たい風が吹き、雪が降る冬の海辺、恨みに満ちた絶叫と絶望の声だけがみなぎるその海辺、帝国主義の軍靴の音と監視する兵士達の拳銃の音 そしてその日 お父さんの悲鳴の声 お母さんの苦痛の泣き叫び 子供達の悲鳴、大きな叫び声、泣き声 あぁ……ここがまさに地獄だったのです。
今、海の底でもこのようにして居られますか? 長々と続いた歳月をすぐ目の前のあの海の中でもこのようにして居られますか?
お父さん! これからは安らかにお眠り下さい。 たとえ故郷の暖かい山河ではなかったとしてもその長い歳月を忘れこれからは安らかにお眠り下さい。 生きて居られれば成されるはずだった全ての事を忘れ私達に任せ安らかにお眠り下さい。なぜならば 私達はその日を正確に記憶しこの場所に一緒に居られる多くの人達が その日を正確に記憶しているからです。
お父さん! 私達がお父さん達を故郷の地に帰す事が出来る力と知恵を下さいますように。 その場所が微力で窮屈だとしても 故郷の地は私達の憩いの場ですから そこではもう少し安らかに休むことができるでしょう。
お父さん! その日が来れば 本当に安らかにお眠り下さい。
二〇一三年二月二日
日本長生炭鉱犠牲者大韓民国遺族会
わたしがこの追悼文に思うのが「他民族を下敷きにするような君主や国家は暴虐である」ということ、そして、朝鮮人は熱情的だと言われるけれど(追悼文を見てもそう思います)、「例え当事者に直接つながる血脈でなくても、同じ民族としてともにその心の痛みを分かち合いたい」という民族内の愛情というものと人間らしさに心を打たれるのです。
この炭鉱はどのようなものだったか


鉱業施設が海と鉄道、川に挟まれた狭い土地にあり、沖へと坑道が延びていました。
海底を掘り進み、出水事故が起きる、そのために一定の規制がされていたことが分かりますが、それすら守られていない。予備ポンプが5台も設置されていましたが作動することなく事故が起きてしまった。事故の原因を考えれば「どうして」「どうして」ということばかりですが、そもそもどうしてこのような危険な場所を掘り進めなければならなかったか、ということが事故の核心であると思います。
海底抗道に関する鉱山法 福岡鑛山監督署
一、炭柱拂堀り禁止
一、海底下第四紀層が5メートルから10メートルの場合、第三紀層の厚さは40メートル未満(→最厚部分で30mしかない)の箇所は採掘禁止
掲示されていた説明によれば、当時の鉱山法の規定にも違反して操業していたことがわかります。
このような危険な場所で法令すら無視して石炭を掘らなければならない状況というものを考えてみると、ただただこの国に資源がない、ということに尽きます。だからほんのわずかでも資源があるとなれば、人命と資源を天秤にかける。その人命も出自によって重みが違う世界。背後には儲けうる者が儲けを追求し、「戦争」という大義名分があることをいいことに、どんな無茶苦茶でもまかり通る。法令まであっても無視が許され、行政も容認し、社会の最下層に組み込まれてしまった人たちが犠牲になるのを許すような社会だったということです。戦争があったからこそ、朝鮮人がこの国家の下層に取り込まれることにつながったし、苛酷な労働に従事させてまともにお弔いをせずとも気にしない、という態度に現れたのです。
この戦争も、「周りの国を敵に回す」という決断を裕仁が決めたことに端を発するし、それより前、国際連盟も脱退した。国際社会の椅子を蹴るような国にまともに他の国が相手するだろうか、と考えると、当然疎外される。安易に椅子を蹴ったために、まともな交易で外国から資源を購入する方法を自ら手放し、自分で自分の首を絞めるようなことをしてしまった。そうするとどうするか。
「だから大陸に、南洋に、東南アジアに、よその国にある資源は日本こそが活かせるのだ。大東亜共栄圏だ!」と国民を先導させて奪いに行かせる。そればかりではなく国内でもわずかでも資源があるとすれば、「死に行く者の生命などどうでもいいんだ、生きうる者たちが生きるためにはどんなことでもする」と人命の尊さに軽重をつけて他国の人たちまで犠牲にしました。国民も他国民も、他人の生命など軽く奪えるような皇統や上級国民の統治の結果、犠牲にされたのです。
鉱業はただでさえ落盤・崩落事故が起きたり、地下水の出水、ガスの噴出など予期せぬ事故災害と背中合わせの危険な業務です。ましてやこの長生炭鉱は海底です。鉱山での掘削以上に厳しい現場で、何らかの事故が起きれば、たちまち水没するのは誰が考えても容易に分かるでしょう。そのようなところだからこそ労働力の主力を朝鮮半島に求めたのです。まずは日本が朝鮮を支配し、富も財も食料も全部奪うような政策を繰り広げながら、朝鮮人から様々なものを一方的に搾取する。一方で朝鮮人を差別し、蔑視することも許すような社会であったから、危険な現場に朝鮮人を動員することに躊躇しないし、どれだけ犠牲が積み重ねられようと彼らの安全は、人間としての尊厳は軽視されました。そして後ろ盾がないような日本人も同じ。生活によるすべがない人たちは、このような死と隣り合わせの現場で苛酷な労働を強いられました。
昭和より前、明治以降の近代化に向けての開拓でも、危険な現場の多くに朝鮮人が従事され、ろくに睡眠や食事も与えられず使い捨てられました。このように重労働に従事させられ亡くなられた方々の枚挙に暇がありません。
朝鮮人は勝手に日本に稼ぎにやってきたのだろう、という人もいるかもしれません。しかし、朝鮮は日本に併合されていた。しかも裕仁が先導して戦争への道を突き進む、国際連盟の椅子を蹴るようなならず者国家。このような国にどの国もまともな外交はしてもらえないし、朝鮮は大陸とつながっているという地の利があっても、朝鮮を含めた日本が大陸と戦争をやっているものだから、自国で生活が立ち行かなくなれば日本本土しか行くところがない。
朝鮮という土地を植民地として支配するのは、ただただ閉塞した日本の社会の解決を戦争に求め、日本本土のモノ不足を補うため。資源も食糧も日本本土へと奪うように送られていき、あげく人ですら日本人がいかようにしてもいいんだ、と肉体的労働力にも性労働にも搾取されていく。
農地すら取り上げられてしまう中で、路頭に迷った人たち、追い込まれた人たちの行く先は日本しかなかった。どれだけボロ雑巾のように扱われ、苛酷な労働、激しい差別を受けたとしても、日本の為政者達は見て見ぬふりをする。根本的に何の手も差し伸べなかったし、差し伸べるような余裕もなかったし、そもそもそのような国であったならば戦争が起きていない。そして、最終的に彼らの生きる権利まで奪われて殺されていったのです。
日本が朝鮮を近代化してやったのだ、国費の半分以上を投じてやったのだ、感謝されこそすれどうして恨まれることがあるのだ、台湾を見ろ、日本統治を評価して、当時の産業遺産を遺すようなことまでやっているではないか、という開き直ったような論があるけれども、冷静に見てほしいのは、それら全部日本人の儲けにつながっている。インフラ整備を請け負うのは誰か。労働力を誰にして、誰が代金をかすめ取っていくのか。「朝鮮や台湾のために」なんて到底まやかしに過ぎません。「五族協和」「八紘一宇」なんてスローガンを掲げたのは、裕仁の、そして戦争で儲かる人間たちの覇権拡大の意図でしかないのです。
第二次大戦直後のインフレ進行を阻止するために、政府は1946年(昭和21年)2月、金融緊急措置令および日本銀行券預入令を公布し、5円以上の日本銀行券を預金、あるいは貯金、金銭信託として強制的に金融機関に預入させ、「既存の預金とともに封鎖のうえ、生活費や事業費などに限って新銀行券による払出しを認める」という非常措置を実施しました。これが、いわゆる「新円切り替え」と呼ばれているものです。
庶民は鍋ややかんまで取り上げられるような窮乏した生活を強要され、なけなしのお金も通貨切り替えという巧妙な手段によってほとんど奪われ無価値にされたのに、不思議と大工場や大企業が復興する。そしてその筆頭が財閥系企業。庶民はすっからかんなのに、どうして彼らは戦後みるみる復興してさらに財を積み上げていっただろう、と不思議に思わないですか。財閥解体という過程はありましたが、本当に政府が金持ちも庶民も平等に接し、政策に対して本気で抜け道を塞いでいたら、GHQが解体するまでもなく無一文になっていないとおかしいではありませんか。戦後もうまく稼げる者たちは皆、戦争中であってもうまく財を隠しおおせたし、裕仁や為政者に取り入ることができたものたちがどれほど稼いだのか、と疑問に思わないですか。
北海道の常紋トンネル
わずか500mのトンネルに3年もの期間をかけて1914年に完成した、石北本線の常紋トンネル。東北方面への始発駅でもあった東京の上野あたりでも「儲け話がある」と呼びかけられ、本当の仕事の内容を明かされないまま、だまされて連れてこられた日本人や朝鮮人労働者は「タコ」と呼ばれました。北海道の開拓では、もともと網走刑務所が象徴的ですが、囚人労働により開拓を進めてきました。しかしそのやり方があまりに過酷で人権すらなかったため廃止された結果、今度はその代替として拉致同然で連れてこられるようになっていました。
しかも、現地の雇用する側の人間は、従来囚人相手にしてきたのと同じように彼らを扱ったので、睡眠時間も食事もろくに与えられず、重労働と栄養失調で次々と亡くなっていきます。殺されていった、という方が適切でしょう。弱った労働者は治療するどころかそのまま生き埋めにされ、ご遺体は掘った穴に投げ捨てられ、弔いすらなされず、また都会からその補充を求めることの繰り返しだったと言います。
タコ部屋の名のいわれは、地元の土工夫を『地雇』といったのに対して、自分で我が身を蛸のように足を切って食べる、道外の者を『他雇』と言ったのが、始まりと言われている。
あまりに苦しい労働環境のため、それを訴えた労働者に対しては「監督者に楯突いた」見せしめにトンネルの人柱として生き埋めにされた ―― 以前からそう伝えられていたといいます。たくさんの生命と引き換えにしてトンネルが完成し石北本線が開通しました。しかし、その後トンネル付近でさまざまな怪奇現象が起き続けます。
ついには、1970年に衝撃的なことが起こりました。トンネルの入口が地震で壊れ、その修繕しているときに人骨が出てきたのです。人柱の伝承が嘘ではなかったことで、山深い現場とそのそば国道沿いに慰霊碑が建立され、国鉄時代からJR北海道の時代になった今もなお、毎年慰霊祭を開催しています。
北海道はその開拓の歴史から、労働の名の下に虐げられた方々が格段に多くいらっしゃって、現在も彼らの労苦はインフラとして残っているのですが、なかなか関心を向ける人は少ないのが現状です。
彼らは「殉難者」と言われますが、ものすごくこの「言葉」に悪意を感じるのです。
「玉砕」といい「特別攻撃」といい、日本人はとにかく苛酷なやってのけたことを美化したり責任を回避する言葉を生成するのに長けています。「殉難」というのは、神仏を求めた求道者が志半ばで斃れ、亡くなることをいうのです。強制的に労働力とだけ見られ、死ぬるまでこき使われて殺されることを「殉難」とはいいません。
この言葉は「難に遭って死んだ」、つまり死=難と言う意味です。それが目的でこんな言葉を使ったのであろうと考えますが、その解釈で通すならば、そもそも目的も明かされず、厳寒・未開の北海道に連れてこられて働かされることは「難ではなかった」、死ぬに至って「難であった」という解釈が成り立つのです。死亡事故という災難に殉じたのだ、と。
人を人として扱われないような苛酷な人生を強要された末に亡くなられた。しかも異国で生命を奪われた方々に対し、「殉難」なんて軽い言葉を後世の人間は充てる。「犠牲者」というと責任を追及されるとでも思ったのでしょうか。だから偶発的なことで命を奪われたのだ、とでも言いたかったのでしょうか。彼らの死を後世の人間ですら軽んじて、苛酷な労働のしくみや枠組み自体を容認していた、矮小化しようとしていたというふうにもとれるのです。
道内各地に殉難碑、慰霊碑が建立されていて、こちらで北海道内各地の殉難碑が紹介されています。
この紹介されている方も「殉難」に対する違和感を次のように書かれています。
ただ殉難とは自らの意思で目的に殉じた人の事であり、人身売買同様の手法で集められ暴力的な支配で過酷な労働に斃れた労働者は殉難者ではなく犠牲者です。常紋など監禁・強制労働による犠牲者を殉難者という玉虫色の表現は結果として、犠牲者を出した背後にある国家や役人、建設業界の責任を覆い隠す煙幕の役目を果たすことなる。
こと、たくさんの死と引き換えに工事を強引に進めていったものの、敗戦で投げ捨てられた橋脚(斜里町越川橋梁)を思うと、この恐るべき高いところに懸けられた難工事の末の橋脚が、たくさんの魂と引き換えでありながら、結果何にも使われていないということ。インフラとして使われれば、それにどれだけ非道があろうが苛酷であろうが構わないというわけでは決してありませんが、彼らの労働の結果インフラとさえ使われずに放置されいるこの橋梁は、彼らに死を与えるためだけに作らされたもの。そのように考えれば、この橋脚は巨大な墓碑にすぎません。特に異国で亡くなることになられた方々は「何のためにこんなものを作らされて死んだのか」、とどれほど深い怨念を抱かれているのかと思わずにはいられません。
関東大震災で犠牲となった朝鮮人の殉難碑

1910年9月1日に発生した関東大震災。巻き起こった熱風が上昇気流となり熱風の嵐となって都心を燃やし尽くします。東京都心から見ると、城東にあたる区域が火災に遭うと、東あるいは北東にしか逃げる方向がないのですが、荒川が横たわっているため、橋まで回って渡らねば火災から逃れられません。
火災後、自警団が消火の援護などをしていましたが、このときにスケープゴートにさせられたのが朝鮮人や障害を背負った人たちでした。
朝鮮人が火をつけた、などと根拠のない噂が流れ、彼らの生命を奪い、惨殺することで不安やいらだちのはけ口にしたのです。
ほうほうのていでここまでやってきた住民達は、ここで朝鮮人かどうか選別され(朝鮮語にない発音をさせ、不自然であれば朝鮮人とする)、朝鮮人とみなされると、公権力を振るう立場でない者たちや民衆たちが彼らを見せしめとして惨殺し、死体は橋から突き落としていったのです。
関東大震災の時、朝鮮人が暴動を起こしているというデマが流布され、軍や自警団による虐殺が各地で起こりました。日本人と朝鮮人を識別するために使われたのが「15円50銭」という言葉です。発音できるかが生死の境になりました。
語頭の濁音を発音しない朝鮮語の特徴を前提に、朝鮮人なのか問うものとして生まれましたが、現実には、それは「標準語」を話せるか否かの問いであり、それを話すことができる「日本人」なのかを問うものとして機能しました。実際に、秋田や沖縄などの地方出身者も、朝鮮人とみなされて殺されました。
そうした中、1人の聴覚障害者が殺害されたことを私は確認しました。東京聾啞(ろうあ)学校卒業生で、浅草で朝鮮人と間違われて、自警団に殺害されたと、当時報じられています。司法省の記録もあります。聞き取りや発話に困難さを抱える聴覚障害者にとって、「15円50銭」の問いに答えるのはむずかしかったでしょう。
朝鮮人を殺害した日本人は警察に追及されることもなく、調書の被疑者も「朝鮮人」と記入されただけでしたから、「誰か」ということすら分からず、ご遺体も事件後しばらくしてから作業員に偽装した何者かによって痕跡なく持ち去られてしまい、のちにご遺骨を拾い集めることも、それを手がかりとして被害者が誰か調べる手がかりもないままです。
四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路直上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして橋の下手のところに3ヶ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた。
京成線八広駅から徒歩2、3分の土手沿いの住宅街。現場の四ツ木橋のたもとに、彼らのことを後世に伝えるべく「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺得を発掘し追悼する会」が発起人となって慰霊碑を建立されました。
関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼碑に書かれた説明文は以下のとおりです。かつては慰霊祭に都から挨拶文が届いていたようですが、それも打ち切られました。
「韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに八六年が過ぎた。」ただただこの年数を重ねていくだけの時間が過ぎていくことに、どれだけの現代人が心を痛められることでしょうか。
関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼碑 建立にあたって
一九一〇年、日本は朝鮮(大韓帝国)を植民地にした。独立運動は続いたが、そのたび武力弾圧された。過酷な植民地政策の下で生活の困窮がすすみ、一九二〇年代にはいると仕事や勉学の機会を求め、朝鮮から日本に渡る人が増えていた。
一九二三年九月一日 関東大震災の時、墨田区では本所地域を中心に大火災となり、荒川正手は避難する人であふれた。「朝鮮人が放火した」「朝鮮人が攻めてくる」等の流言蜚語がとび、旧四ツ木橋では軍隊が機関銃で韓国・朝鮮人を撃ち、民衆も殺害した。
六〇年近くたって荒川放水路開削の歴史を調べていた一小学校教員は、地元のお年寄り方から事件の話を聞いた。また当時、犠牲者に花を手向ける人もいたと聞いて、調査と追悼を呼びかけた。震災後の十一月の新聞記事によると、憲兵警察が警戒する中、河川敷の犠牲者の遺体が少なくとも二度掘り起こされ、どこかに運び去られていた。犠牲者のその後の行方は、調べることができなかった。
韓国・朝鮮人であることを理由に殺害され、遺骨も墓もなく、真相も究明されず、公的責任も取られずに八六年が過ぎた。この犠牲者を悼み、歴史を省み、民族の違いで排斥する心を戒めたい。多民族が共に幸せに生きていける日本社会の創造を願う、民間の多くの人々によってこの碑は建立された。
二〇〇九年 九月
関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺得を発掘し追悼する会 グループほうせんか
日本人と分離してほしい、という願いをどう考えるか
こちらは、長生炭鉱の慰霊碑ですが、よく見ていただきたいと思います。
長生炭鉱では、事故後ほどなくして慰霊碑が建立されましたが、そこに刻まれた犠牲者の名前は日本人だけでした。ようやく「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が朝鮮人犠牲者の名前を調べ(まだ名が分からない方もいらっしゃるそうです)、慰霊碑建立にこぎつかれたのです。どうして坑口とは離れたところにあるのか伺ったところ、周辺の土地は炭鉱関係者の土地で、賛同を得られず売ってもらえなかったとのことを伺いました。
そして、今は遺骨を収集するための活動
を精力的に行っておられます。しかし、慰霊碑が「強制連行 韓国・朝鮮人犠牲者」と「日本人犠牲者」と分割されている意味、分割してほしいと言った朝鮮人の気持ちをどれほど日本人がくみ取ることができるか。それを突きつけられているように思えてなりません。そしてこれは、靖國神社に合祀されている朝鮮人の遺族が分祀してほしいという願いにも通ずるところがあります。
靖國神社に戦没者合祀 賠償求めた韓国籍遺族の敗訴確定 最高裁
靖國神社に戦没者が合祀されるのは政教分離を定めた憲法に違反すると韓国籍の遺族が国を訴えた裁判で、最高裁判所は、賠償を求めることができる期間が過ぎているとして上告を退け、原告の敗訴が確定しました。一方、裁判官1人は反対意見を述べました。
東京 千代田区にある靖國神社には、第2次世界大戦中に日本の統治下にあった朝鮮半島出身の戦没者もまつられ、韓国籍の遺族が「侵略した側の戦没者と合祀するのは家族への侮辱で、国による戦没者名簿の提供は政教分離の原則に違反する」として国などに賠償を求めました。
1審、2審ともに訴えを退け、遺族側が上告していました。
17日の判決で最高裁判所第2小法廷の岡村和美 裁判長は「原告らの家族の合祀は昭和34年までに行われ、賠償を求めることができる20年の期間が過ぎている」として、上告を退け、原告の敗訴が確定しました。
一方、4人の裁判官のうち、三浦守 裁判官が反対意見を述べ「国による合祀への協力は、政教分離制度の中心に位置する問題だ。合祀を望まない遺族にとって、亡くなった近親者を思い出すという精神的な営みに影響を及ぼす可能性がある。 高裁でさらに審理を尽くすべきだ」としました。
最高裁の裁判官が靖國神社への合祀について意見を述べたのは初めてです。
2人の裁判官が意見
判決では2人の裁判官が個別意見を述べました。
検察官出身の三浦守 裁判官は、高等裁判所で審理をやり直すべきだとする反対意見を述べ「靖國神社で第2次世界大戦の戦没者を合祀するには国による情報提供が不可欠で、平穏な精神生活が妨げられたという原告の主張には相応の理由がある。 政教分離の規定に違反するかどうかは合祀の内容や情報提供の経緯、一般の人の評価などを踏まえて総合的に判断すべきだが、高裁では審理が尽くされていない」としました。
一方、裁判官出身の尾島明 裁判官は、判決を補足する意見を述べ、原告の損害について「宗教的な思いの深さで異なるが、命や身体に対する重大な侵害と比べると相当程度軽いと言わざるをえない。そうすると賠償を求めることができる20年の期間が過ぎていることが著しく正義・公平の理念に反するとまでは認められない」としました。
朝鮮人と日本人は隣国でありながら、「支配」「被支配」で押し切ろうとした、それも「戦争」で「併合」し、本来であれば朝鮮民族が民族として周りの国に渡り合っていく当然の権利を奪った。
しかもその相手は国際連盟の椅子を蹴って外国から進んでつまはじきになるような「ならず者国家」の日本。生活が困窮したら日本へ出稼ぎを考えるしかない、そして植民地統治のためにいくら国庫の大金を台湾や朝鮮に投入したと言っても、利益ももとからその土地にあったものも、すべて日本に処遇の決定権があり、奪い取られていく。そこに住んでいる人たちは搾取されて生活が立ちいかなくなり、結果的に住み慣れた土地を離れざるを得ない状況、あるいは拉致同様の状況をこの国がもたらした。
慰安婦問題にしても、自発的に女性達は高給で志願したと様々に言われているけれど、少なくともそのようなセックスワークをこの国が斡旋した事実と、それで買春した男達があった事実は取り消せないのです。
韓国の教科書に書かれた日韓併合
国権を奪われたのち、各種の産業は日帝の植民地経済体制へと改編されていった。
産業の侵奪
なかでも農業部門において断行された、いわゆる土地調査事業は、全国的な土地の収奪であった。(中略)期限付申告制の頃雑な手続きを終えなければ、所有権を認められなかった。したがって、申告を忌避したり、機会を逃した韓国人の農地や公共機関の土地はほとんどすべて朝鮮総督府の所有になった。土地調査事業によって不法に奪われた土地は、全農地の四〇パーセントに達した。朝鮮総督府は、この土地を東洋拓殖会社などに移して、韓国に移住してきた日本人に安く払い下げた。
いわゆる土地調査事業の実施は、韓国農民の生活をひどく脅かした。従来、農民は土地の所有権とともに耕作権も有していたか、土地調査事業以後多くの農民は、地主に有利な期限付契約による小作農に転落していった。そして生活基盤が弱くなった彼らは、日本人の高利貸に苦しみ、生活雑持のために北田民となったり、満州や沿海州へと移住していった。日帝の植民地経済政策は、わが国の米穀や各種原料を安価で買い取り、日本で製造したものを搬入して高く売りつける二重の搾取であった。
食糧の収奪
(中略)
鉱業部門では、全国の鉱山資源が緻密に調査され、日本人財閥に売却された。韓国人に許可された鉱区の数は、日本人のそれに比較すると五分の一でしかなかった。
また、朝鮮総督府やその庇護を受ける日本人の会社が、鉄道、港湾、通信、航空、道路などを独占経営し、タバコ、人参、塩などを専売した。こうして民族資本は萎縮し、経済発展の道が閉ざされた。第一次世界大戦に参戦して資本主義の基盤を急速に固めた日帝は、高度成長のための経済的収奪を、より強化した。
彼らは、工業化推進によって日本国内での生産が不足してきた食糧を韓半島において搾取する、いわば産米増殖計画をたて、これをわが国の農村に強要した。一九二〇年から十五年計画で推進された食糧増産計画は、本来無理な計画であったため、計画された増産量を達成できないまま中止された。
しかし日帝の米穀収奪は目標どおり達成され、この計画が中断された一九三三年だけをみても、日帝は増産量をはるかに超過する量を収奪していった。そして大多数の韓国民は、飢えに苦しみ疲れ果て、農村をあとに生活の場を求めて流浪したり、火田民となって没落する以外に道はなかった。当時の農民は、米を奪われただけでなく、増産に投入された修理費、肥料代金、穀物運搬費なども負担させられるという二重の苦しみを味わなければならなかった。
ただただ日本は植民地に何をもたらしたか、それは幸せなのか、不幸なのか。ただただそれだけだと思います。それも日本が逆の立場だったら、と考えれば寄り添うこともできると信じます。
外国人生活保護で多いのは韓国・朝鮮籍の高齢者が多いのは日本側の事情
戦争を決めた睦仁や裕仁の決断、そして日清日露まで含めると皇統というものが、国家の行き詰まりを交渉でなく「問答無用で刀を抜いて解決しようとする」血脈、しかも相手が大陸であろうがアメリカであろうが、不意打ちと呼ばれても仕方がないような卑怯な戦い方で、外交ではなく武力に恃む。これを好戦主義者と言わずなんと言おうか。個人の主義主張でなく、主権者として、政を司る者として戦争をやったのだから一切擁護ができない。日本と外国の庶民を締め上げ、たくさんの生命を霊にした。このことが今の今まで尾をひいて、日本もアジアに対して堂々と立ち回ることはできない状況に対し、皇統が頭を下げたことかあるのか。
戦争をすることで国民の苦しさや辛さがいかばかりになるか察することもできないし、戦争が終わったあとのことを考えていない。まるで難関大学を受験するのに、合格後のことしか考えない学生と同じ。受験を決戦と表現したりするが、「落ちたときのために」どうするか庶民でもいろいろ思案するが、この盆暗な皇統は「勝つことだけ」「勝つ前提で」戦争に臨んだ。絶対合格するという根拠のない自信のもと「合格したら部活どうしよう、恋愛どうしよう、あれもしたい、これもしたい」と夢だけ描いて受験する学生と同レベルでしょう。
だから敗北が確定しているような状況であってもそれを理解せず、特別攻撃のような無茶苦茶しか思いつかないような軍部を追認して、国民が死にゆくのは我関せずというクズだから、結果的に原子爆弾がこの世に生まれるのを手助けした。国民の苦しみを理解できないばかりか、何ら自分に害をなさない他国の人たちの生命を奪いにかかるように道をつけた。
相手の国も悲痛を抱き、それに十分に応えていないからこそ、戦後も要求をし続ける。責任がある立場が退位もせずいまだこの国にのさばっているから、「日本は変わっていない」と周辺の国から責められる。退位をして支配構造が一新したのであれば、周りの国の理解も違う。しかし自分たちを苦しめた皇統をいまだおしいただいているからこそ責められる。
前述の判決にしても、朝鮮人達にとっては先祖である祭祀ですら自由にさせてもらえない。祭祀に口出しをしてきて、日本が戦争を肯定する立場だからこその「支配者側の神社で祭祀を続けるのは正当である」というような彼らの祭祀を馬鹿にしたような判決が出てしまう。後日靖國神社社報で「主張が認められた、当然であるし関係者に謝意を表す」なんてことが書かれてあった。
しかし、犠牲となった朝鮮人たちにとって、自分たちの子孫ほどに彼らのことを思う人間がこの世にいるだろうか。それを妨害して、ただただエゴと政治主張がごちゃまぜとなって、今の皇統支配体制が覆されないように、裁判所は必死になって行政の肩を持つ。国会議員も最高裁判所長官も、総理大臣もみな皇統の承認や任命が絡んで、定期的に叙勲だなんだと自分の息がかかるような、ただただ「スメラギイヤサカ」と盲目的に唱えるような国民を世に放出し続けていく。
そしてこんな不安定な状況があと何世紀続くのだろうか。そして、都合のいいときだけ日本人にされ、日本で生まれて国籍を剥奪され、長らく人間らしい扱いを受けられずにようやく福祉の恩恵を得たら、妬みをいだきつつ政権政党が「日本を取り返す」、弱小政党まで「日本人ファースト」と。本当に国を愛するということは、この国が豊かで幸せであること、そのために周りの国と仲良くすること、どうしてこんな単純なことが分からないのか。そういう政党が「保守だ愛国だ」と旗頭にする者だから本当にタチが悪い。いつまでも偏見を取り除く努力すらせず、外国とその民に対して過去の優越感に浸り、偏見と憎悪心を永遠に焚きつけ引き継いでいくことでどれだけ国益を損ねていることでしょうか。
本当に日本が困ったときに、進んで手を差し伸べてくれる国がどれほどあるだろうか。一億人もの人口を抱える国だからこそ、味方になってくれ、対等にいてくれる国が世界にたくさん必要だと思うのです。
卓庚鉉さんと李秀賢さんのこと
わたしは、朝鮮人といえば特別攻撃隊の隊員で光山文博さん(朝鮮名:卓庚鉉さん) の存在が忘れられません。戦後すぐにこの方のご経歴やご遺族を調べようとしたが当時は分からずじまいだったと聞きます。それは、朝鮮人達にとっては「敵国に加担した」ということだから、親御さんにその事実が伝わっていたかどうかも分からないけれど、もし分かっていらっしゃっても名乗り出せないし、墓に刻むも難しかったと思うのです。当時植民地の国民には特別攻撃については免除されていたのです。それでも祖国を護るために、「死んでこい」という無茶苦茶にもかかわらず、尊い生命を投げ出された。しかし、戦後主権回復した朝鮮の地、日本に対する憎悪に渦巻く環境の中で、卓庚鉉さんのご遺族は息子の戦死を嘆くことが許されない。民族の自尊心を奪った日本に加担した、として卓庚鉉さんのご尊厳まで奪われてしまう。
また、大久保駅で転落した乗客を助けるために犠牲となられた李秀賢さんのこと、当時大々的にニュースに取り上げられました。たくさんの募金が集まり、基金を設立したと聞きます。見て見ぬ行動を取れる状況の中で、しかも「日本に対しての民族的な思い」もある中で、そこを乗り越えて「人を人として見て、生きる」ことを成し遂げられた。形にされた。それは「偏見を乗り越えた、生命と引き換えの尊い行動であった」というところに尽きます。
このような尊い魂は朝鮮からお生まれになられ、なさったことは国境を飛び越えて「人間とはこうあるべきだ」と示してくださっている。
わたしたちの先祖が、長生炭鉱や各地での苛酷な労働死を「朝鮮人だから」、関東大震災も「朝鮮人だから」で特定の民族を名指しに強要して虐めてきました。そして今は日本ファーストだの、安部政治の継承だのと民族主義を振りかざしながら票集めに躍起で、それが国と国との対立を生みかねない恐ろしい思考であるのに、それには知らぬ顔をする。学校で習った平和教育は脆弱過ぎて無視をされ、扇動された民衆が「日本を取り返す」に共感を示し、ナショナリズムも民族主義も翼賛しています。
しかし「民族主義」を言い換えたらすべて「孤立主義」にほかなりません。国際連盟の椅子を蹴るような外交政策を可とし、結果世界から孤立して誰も相手にしてくれず、資源が手に入らないものだからよそ様のものを奪いに行く。その最高責任者であり決定者であり、開戦を決めた裕仁。その結果庶民と、軍人さん方兵隊さん方が、この国であろうが敵国とされた国であろうが、数えきれないくらい酷い苦しみを与えられた末に、霊にされてしまった。もう一度そういう歴史を繰り返すのかどうか。苦しい戦地で亡くなられた方々の犠牲を「教訓」とすらせずに「他人事」のように扱うのかどうか。先祖が雄々しく戦ったから後世の我々も毅然と国際社会を先導するような強国にならねばならんのだ、という考え方こそ、権力側の思う壺である、と気が付かねばなりません。
被害者が納得して許してくれるまで、大東亜戦争は本当の意味での収束はないと思いますし、外交で本当の意味で「対等」に渡り合っていくことはできないでしょう。裕仁が残した国難はまだ収束していません。外交はそこが収まってからが本番ではないか、とそのように思うのです。
その「指標」のひとつは卓庚鉉さんを両国がどう評価するかに端的に表れうると思っています。彼のこころを理解して、彼の尊い犠牲の本当の価値が日本人と朝鮮人の双方が共有できるとき、ようやくお互いにわかり合える時代になったといえるのではないか、と思うのです。そしてそのような時代が来てほしいと願ってやみません。