関行男海軍中佐のご母堂様の苦しみ
愛おしい息子が殺されても、裕仁の戦争のために社会は「気丈でいること」を無理強いする
関行男海軍中佐が率いられた敷島隊の2番機、中野磐雄さんのお母さんは、息子の戦死を映画館の「日本ニュース」で知り、卒倒されたといいます。
関行男海軍中佐のご戦歿後、ご母堂ご母堂様も他の子供を失った母親と同じように、ご子息の戦死で悲嘆に暮れる気持ちは同じです。
しかし、国や軍部、報道機関に敷島隊、特別攻撃隊は一方的に祭り上げられ、戦争遂行の材料とされてしまったために、表立って中佐の死を悼むこともままなりませんでした。
特別攻撃は新聞に大きく取り上げられ、戦争続行の広告塔になりました。生前は関行男海軍中佐や敷島隊の、また特別攻撃隊の隊員さん方はもちろんのこと、彼らのご母堂様や家族にまでマスコミが押しかけていましたが、ご戦歿されてもご遺族の心情や苦しさに構わず、土足で踏み込むような取材攻勢は続きます。
関行男海軍中佐のご母堂様の場合、たくさんの弔問客をかいがいしく相手される姿が新聞に掲載され、関行男海軍中佐は「軍神」、ご母堂様は「軍神の母」と大きく見出しが打たれました。さらには当時西条駅前に銅像を建てるような話もあったといいます。
ほかにも特別攻撃隊の隊員様で、農家出身の方がおられ、いやがるご母堂様に対して報道機関が「男手がなく息子を亡くしても健気に農作業をしている姿」を強要し報道した、ともいいます。ご戦歿された方々を悼みご遺族をなぐさめるどころか、「いかにその『死』を利用するか」で必死だったことが伺えます。
「これほど苦しい生活を送られている、戦争をやめなければならない」という論調で正義をつらぬくような報道機関はありませんでした。政府は物資不足を逆手にとって、配給制であるインクも紙も、自分たちに都合の悪い記事を書く新聞社に支給を遅らせたり、あげくは「戦時合併」の名のもと、その存在を消すようなことまでしているのです。
新聞社の側にとっても、勝ち戦の記事はなにより新聞が売れたということもあって、どれだけ実際の国民生活が貧乏になりみじめたらしくなったとしてもそこには目を背け、国民をなだめるだけ。華々しい張りぼてのウソの戦果を大本営が吐くまま転載して、国民をあおりたてるだけの報道姿勢でした。
報道と国民
この報道がうまく世論を支配していく姿、わかりやすい最近の例でいえば、コメ不足・高騰です。政府を糾弾せずにいかにうまく料理をして食べるか、という記事や番組ばかりでした。
平成のコメ不足でも令和のコメの高騰でもです。報道といいながら、日々のつつましい生活を送ることが大事、どんなことがあったとしても政府に唯々諾々として「苦しくてもお国のために/国の方針だから」と丸め込む姿勢は変わりません。
「国民の主食すらまともに確保できないような政府はいらない」「どうしてこのようになった」と糾弾できるのは報道だけの立場なのに、一切これをせずに「こう食べればタイ米もいける」、と国民をなだめすかすだけの記事ばかり報道します。
平成の「タイ米」は令和では「備蓄米」に置き換わっただけでした。果たして、平成の米騒動の反省が何一つ生かされていないではないか、と糾弾するような報道機関はあったでしょうか。
そもそも、報道機関が政府や声の大きいもの、皇統の支配に対して、今の今まで毅然と立ち向かい、社会が本当にすばらしいものになるように立ち向かったことがあるでしょうか。
社会の批判はするけれど、その根源にまで迫ろうとしない。国会議員や権力に取材し、世の中が、国民の導く先がどうあるべきかなんて問いかけもしない。国や権力は、彼らに都合の良い「広報」機関でなければ国民に知らせるべき情報を流さない。
であれば、それを暴き、自民党や政府がどれだけ国民を馬鹿にしてきたか、いままでどのような密談があり、裏取引があったかが、その事実を明らかにし、国民の支持をバックに立ち向かう、そのような姿勢の報道機関がどこにもないのがこの国の不幸でしょう。
伏せられていた悪習や裏取引を白日の下に晒して是非を問う記事があふれ、読むのが楽しみだ、という新聞はほとんどありません。「文春砲」と揶揄されるほど週刊誌のほうが熱心です。
ネットでもテレビでも同じことを言うのであれば、無料のネットで済ませてしまえ、当たり前ではありませんか。しかも新聞は軽減税率になっている。権力と癒着している証拠。
生活必需品のガソリンは10%で、生活になくてもいいような新聞が8%。新聞の部数減、新聞離れが加速して、新聞社は放送と競い合い切磋琢磨するどころか、いかに足をすくうかに懸命です。
自民党の情報通信戦略調査会は2日、NHKのインターネット業務のあり方に関して、日本新聞協会メディア開発委員会などにヒアリングを実施した。会議は非公開。出席者によると、開発委は、NHKのネット業務を放送と同等の必須業務に格上げすることに改めて反対を表明した。
開発委は、現在放送を補完する任意業務として展開している「NHK NEWS WEB」「NHKニュース・防災アプリ」「NHK政治マガジン」などのネットサービスが、巨額の予算を投じて無料で提供され、すでに地方紙から脅威だとの声が寄せられていると指摘。必須業務化で本格参入すれば、課金モデルをデジタル事業の中心に置く新聞社などは太刀打ちできなくなるとし、NHKはネットのテキスト業務から撤退すべきだと主張した。
2023年にもNHKに「無料で質の良いニュースを流すな」とネットニュースに圧力をかけ続け、2025年にはネットにスクランブルがかかったような状態になりました(スクランブルを掛けるモノが違うでしょう)。ついでにNHKはせっせせっせと今までの「国民の財産となるような」コンテンツの集積も消していっている状況。
NHKの新しい配信サービス「NHK ONE」がスタートした裏で、これまでNHKが独自に調査、報道してきた記事や動画を集めたサイトが相次いで消滅している。
いずれも多くの記者やディレクターなどが時間と費用をかけて制作した優良コンテンツばかりで、特定のサイトを挙げて「消さないで」と求める署名活動も始まっている。
究極的には報道機関の報道は国民の味方などではなく、「皇統を中心とした政府」が「国民を支配するのに都合のいい道具」である姿勢が透けて見えるからこそ、NHKの存在自体が国民の反感を招く。
しかもそれなら政府が運営すればいいのに、国は国民から結果的に余分にカネを巻き上げたい。NHKもスクランブルにしたらどれほど受信者が離脱するかわからない。
思惑だらけで国民向けには「政治権力とは一線を画した公平な放送」を看板にして受信料を掠め取るお題目にしているが、国民の生活の困窮や厳しさに寄り添って、政府を追及したことが過去100年間に一度たりともなかった放送局の一体どの口が言うのだろう。
そして「テレビがあるかないかで受信料を盗る」という判断しかできなかった昔ならまだしも、デジタル化で「視聴者の管理」が思いのままにコントロールできるように、世間のテレビを「映らなくなる」と言って総取替えさせ、「観たい人だけに課金できる」時代に自らが進めておきながら、スクランブルを掛けることを拒む矛盾と、政府も踏み込まず時代に合わせて法律を変えようともしない。
そもそも、この法律 ―― たかが放送局に国税同様の徴収権を与えること自体 ―― がNHKに対する政府の癒着であり、政府がNHKに与えた特権です。イギリスも受信料制度を撤廃した今「BBCも受信料で運営している、だから払え」と言えなくなった以上、「いかに法律を振りかざして不満があろうと支払わさせるか」に懸命。裁判に掛けるまで取り立てる、というのは税と同じではありませんか。厳密にいえば税の滞納処分は裁判を要しないのですが、手続きが違うだけで裁判にまで掛ける。判決はNHK側勝訴が決まっているような裁判であれば、強制力と言う点では同じでしょう。
「見ても見なくても、例え中身が政府偏向で不満があろうとも、芸能界に金を垂れ流すだけの仕掛けであろうとも」国民の財布を脅せる状態自体が異常なのです。その法律が護るのがNHK、NHKが護るのはその法律をいかようにもできる政府。そうすれば政府の思うとおりにNHKは放送しなければならないのは道理なのです。
「政府から独立」どころか、これほど政府や国政と一体化した放送局はない。この仕組みにどの政党も反対を示さないのがそもそもおかしいではないですか。国会議員側に旨味があるのでは、と思うのです。国営放送にしたら税がそちらに奪わて国会議員のすする甘い汁の原資が減る。あの手この手で国民から吸い上げるのに余念がない。
NHKは18日、受信契約を結びながら未払いを続ける契約者に対し、支払い督促を強化するための新組織「受信料特別対策センター」を設置したと発表した。簡易裁判所への申し立てで強制執行が可能となる「支払い督促」制度を利用。昨年度125件だった督促を、今年度は10倍超に増やすという。
さらに言えば受信料で番組を制作しながら、映像ソフト化やテキストと言うソフト化にも余念なく、それらを安価に配布するならまだしも、原資なく作られた映像ソフトや書籍と同様の価格を設定して金を取るというのも、視聴者を馬鹿にしたなんと銭ゲバな組織なのか、と思うのです。
ことあるごとに災害報道での存在感を訴えますが、気象庁、消防庁など既存の防災網を国が引いて、市広報などで防災を周知しているでしょう。防災無線システムも公金で張り巡らせられている。
それに重ねてどうして放送局が同じように防災ネットワークをかぶせる必要性があるでしょうか。単なる放送局が独自の防災情報を流すこと自体、大きな受信料の無駄でしょう。
国民の財産を守るための周知は、本来は税金で賄う性質のもの。そこに別途料金(受信料)を要求するような組織を介在させて、そこに存在意義をアピールするNHKの体質こそおかしい。
地震や大規模災害の時に、速やかに担当省庁の広報がNHKの電波を利用(放送を打ち切って切り替え)できるようにし、責任ある機関が顔を出す。NHKは土管に徹する。それだけでも「突然振られてあたふたする地方局のアナウンサー」は必要ないわけで、高コスト体質はかなり改善するでしょう。
政府批判なしでは庶民は絞りつくされてしまう
マスコミの現状は戦前からひどいものだ、ということは痛感をするのですが、そのなかで唯一気を吐いている特異な地方紙として紹介したいのが「信濃毎日新聞」です。長野県域の地方紙で、大手の毎日新聞とは関係がありません。
過去と言わず現在に至るまで「悪政を正す」気概があり、全国紙や大手地方紙が戦後区切りの年でないと取り上げないような、郷土の戦争、苦難の歴史を掘り下げることにも熱心です。
戦争について深く取材をしながら、長野と沖縄とのつながりに行き当たって、沖縄の地方紙と連携した企画を立てるなど、読み応えのある記事を次々と出しています。
こういう新聞が全国紙であれば、どれだけ社会がよくなっているか。少し前も長野県が突出してガソリン代が高い。県やガソリンの業界団体に取材を続けて、ついにカルテルがあることを暴き、高どまりしていたガソリン代が下がりはじめました。
政府批判をすることは、生活をよくすることに直結するのです。
下々の暮らしがよくなるかどうかは、すべて上流に端を発し、悪政であるからこそ社会矛盾や差別があふれる社会となるのです。
しかも、現在の皇統支配は、昔に素晴らしい善政を施した天皇や皇族がいて、その遺徳を慕って国民が「天皇」として推し頂いている、という訳ではありません。
薩長が支配の正当化をするために、どこの馬の骨かわからないような政治未経験の血筋をかつぎあげた。国民に寄り添うことを知らない、あるいはしようとしないからこその「悪政の極み」といえる戦争を連発する。
このようなクズの血統が、社会矛盾を招来させたのです。
ところが、報道する側は「政府批判で政治が不安定になったら生活が脅かされるぞ」と恐喝するのです。
80年前、関行男海軍中佐や敷島隊の隊員さん方のご母堂様方の新聞記事の取り上げ方をみても、死した軍人さん方兵隊さん方の「お母さん」を代わる代わるとりあげて、「戦争の矛盾」を訴えるのではなく、戦争を続けるための美談ばかり掲載していたことにしても、あるいは、裕仁がいかにも立派な君主であるかのように、かつその血筋を腫物をさわるように持ち上げていたことも、すべてすべて為政者の都合のいいように国民に目隠しをさせて、国民に足枷をはめてがけっぷちを歩かせているのと何ら変わりません。
どれほど金権や献金という賄賂にまみれた政治であろうが、それは見事に看過する。
そこに悪政の原因があるのに、今に至るまで原因を追究し白日の下にさらすどころか、率先して「他人も苦しいのだからお前も耐えろ」と、怒りや悲しみの矛先をそらさせる報道機関の姿勢は、何一つ変わっていません。
報道が関行男海軍中佐のご戦歿を戦争遂行に利用するための美談にし、その結果ただ息子の死を悼み涙を流すことすら許さなかった事例一つとってみても、政府と報道機関のやることがどれほど残酷で、事後の責任をとらないか。
そんな象徴が、この関行男海軍中佐のご自宅の前に建った「軍神」の標柱と、頭を下げられるご母堂様の報道写真なのです。
この聳え立つような「軍神関行男海軍大尉の家」という標柱も、ご母堂様が「立ててくれ」などと言われるはずはありません。
「皇統の起こした戦争を継続するために、戦死を受け入れろ」と日本中にアピールするために、わざわざこしらえられたもの。ご母堂様が気がかりの関行男海軍中佐の墓標を後回しにして。
その後も報道機関は、皇統が起こした戦争を続けるために、ご戦歿された方々のご遺族をつぎつぎと取り上げ、悲しみの糾弾をするこは一切なく「人の死を国策遂行に使う」ことを平気で続けました。
その当時から報道機関の「政府の大メガホン」のような報道姿勢は変わっているでしょうか。
戦争に負けて、憤懣やるかたない人間は生け贄を求めた
報道がやった、関行男海軍中佐のご戦歿の取り上げ方は、戦後を生きなければならないご母堂様をも報道が「軍神の母」と持ち上げた結果、散々たる苦しみを与えることになりました。報道は、戦後にご母堂様の暮らしをどん底に叩き落したのです。
息子や夫を失った人たち、さらに戦争で大変な思いをした末に敗戦で幕引きとなりました。自分たちの息子は、旦那は死んだ。どうしてくれるんだ、とやり場のない怒りを、戦争を憎悪する感情の格好のはけ口として、関行男海軍中佐のご母堂様個人にぶつけました。
報道機関が関行男海軍中佐を『戦争の看板』に仕立て上げ、祭り上げた。戦後は戦後で徹底して ―― 悲しみに沈み、遺されたご遺族にはそれぞれの生活があるにも関わらず ―― 亡くなられたご子息や主人を責めるような論陣を張る。いたたまれないではありませんか。
戦争は彼らが起こしたのだ、そしてご遺族の存在がまるで社会のお荷物であるかのような報道を展開し、挙句にはGHQが命令した「軍人恩給の停止」を翼賛するようなことまでやってのけました。
つまりは報道機関が戦争責任を追及させないよう、そして戦後もただただその立場でおられるように、弱い立場の人間を生贄にするようなことをやってのけたのです。戦争を加速させ、善悪の判断をもせずに受け流していたのは報道機関です。そして戦後、悲しみと貧困に打ちひしがれるご遺族を生贄に仕立て上げたのもまた、報道機関だったのです。
この結果、特に有名であった関行男海軍中佐のご母堂様は、「戦争犯罪人」などの罵言を浴びせられ、あからさまに石を投げつけられることもたびたびのこと、「関中佐は実は生きている」などと噂を立て、その情報に右往左往なさるご母堂様を陰で笑いものにするなどの悪意に満ちた、壮絶な嫌がらせを受けられました。
当時の人たちが関行男海軍中佐のご母堂様にした「仕打ち」について、そんな事実はみられない、というコメントをどこかで見ました。
しかし、そうではないという証言もしっかりとあるのです。後世の人間は何とでも言えますが、戦争で疲弊した社会であっても、日本人は団結をするために生け贄を求める醜い民族であることが、この例でもわかります。
考察 なぜ関行男海軍中佐のご母堂様は西条のまちを離れざるを得なかったのか ―― 「生け贄」になるということはどういうことなのか
もう手のひらをひっくり返したようなことだったんですね。今まで関軍神。
ほな戦争に負けました。そしたらこの「関さんは犬死にだった」と。「関さんが生きて押し入れに隠れとんじゃ」というようなうわさまで広がったんですね。
関さんのお宅に石を投げたというような話も聞きました。
現代よりもずっとずっと近所の付き合いが濃い社会、その付き合いから外れると生活ができないような時代に、ご主人様を亡くし、関行男海軍中佐まで苛酷なご戦歿、たったお一人になられて、今度は社会から熾烈な迫害をされるのです。どれだけ心細く、お辛くいらっしゃったか。
さらに海軍解体とGHQの指示で遺族に支給される恩給が止まり、経済的にも困窮されるようにもなります。
西条の市街地から引き払わざるをえなくなり、街のはずれに狭い物置を借りて住まわれます。そこで農家から分けてもらった餅米を石臼で挽いて、細々と草餅を作り、西条の商店街の店に頼み込んで、店頭に置いてもらう。
特に物資不足と「つてがない」問題から砂糖の入手が困難で、甘みを出すことに大変ご苦労されたといいます。その苦心の末に作られた草餅、売れれば代金を回収できるのですが、いろいろと難癖をつけて代金を払ってもらえないこともたびたびのことでした。
このよう苦しい行商でなんとか糊口を凌いでいらっしゃいました。
しかし、戦後徐々に復興が進み、菓子屋も再建し始めると、砂糖や小豆など安定して仕入れることができ、職人が作る専門店の味には太刀打ちできません。店に置いてもらっても見向きもされなくなり、やがては店から店頭に並べることすら断られるようになります。
そこで、病弱な身体を押して山深い村まで出向き、重労働の山の農作業の手伝いまでされて苦しい生活をしなければなりませんでした。しかし、そこでも追い打ちを掛けるように、住むところを追い出されます。都市部で空襲があり絶対数の住宅が不足します。
家を焼け出された人たち、続々と復員される軍人さん兵隊さん方などで社会的に住宅不足が深刻化し、街に出て暮らしていた人たちが一斉に帰郷するような事態となったため、そのあおりを受けてご母堂様までも家主から退去を突きつけられたのです。
この状況に心を痛めた小学校の先生が、空き家になっていた古い兵舎があり、なんとかここに住まわせてあげてもらえないかと、西条市役所や愛媛県庁へご母堂様の窮状を訴える手紙を出しました。しかし、その手紙に返事が来ることはありませんでした。この状況の中、先生に転勤の話が持ち上がります。
西条市の背後には石鎚山という西日本最高峰の山があります。中国地方よりも狭い四国にそびえているのですから、どれほど急峻か想像できますしょうか。
そして、古くから霊峰として、修験者や参拝客、登山客から親しまれていました。麓の小松町に国鉄予讃線伊予小松駅があります。当時、四国の最速の列車種別に特急はなく、最速の急行が止まるぐらい賑わっていました。
かつて小松藩があり、その中心地でもありました(なので西条市との平成の合併に難色を示す町民もいたそうです)。そこから南下して渓谷に沿って街道が走り、バス路線があって石鎚登山者が行き交います。
石鎚山への登山ロープウェイがなかったころ、多くがその険しい渓谷の一本道を伝って石鎚山へと向かいました。そのずいぶん奥地に、観光需要(旅館業など)や林業を主産業にした千足山村がありました。
村内に小学校と中学校が同じ敷地に併設され、そこへ先生が赴任されることになったのです。
千足山村のあった地域を走ってみて分かるのですが、平地がないのです。
道の両側は切り立った山岳です。川が削り取ったようなまさしく猫の額の土地に、役場と農協がありました。
村落は山道を介して点在していました。小松からの村の入口には、現在河口の停留所と関門旅館など数軒の建物があります。
作詞:秋川栄三郎 作曲:佃正之
1 石鎚は紫におい
おごそかに霊気みなぎる
雲はとぶはるか彼方に
伸び行かん望みぞ高く
石鎚、石鎚、われらが郷土
2 緑木の影をうつして
高瀑の清き流れは
すこやかに業にはげめと
歌うごと調べもゆたか
石鎚、石鎚、われらが郷土
3 たくましく風雪にたえ
ともどもに考えぬけば
道開け花咲きかおる
われら今その名たたえ
石鎚、石鎚、われらが郷土
なんと素晴らしい歌詞でしょうか。
特に「ともどもに考えぬけば」というところが、険しい山奥で過ごす村人たちのつながりを感じます。
関行男海軍中佐のご母堂様も次第にこの校歌に馴染んで、中佐の子供の頃を思い起こしながら子供達と一緒に歌われたのかな…と思うと切なく感じます。
学校はその先の川の浅瀬に土も運び入れて、苦労して建設されたものと思います。ご母堂様の住まいの確保に奔走されていた小学校の先生の赴任先が、この小学校でした。用務員が欠員になっており、教員方は子供達の教育のほかさまざまな雑務もせねばならず、いろいろと不便をきたしている状況であることを知ります。
そこで先生が当時の千足山村長に掛け合い、欠員となっていた千足小学校の用務員にご母堂様をご推薦なさいました。採用されれば住居の心配も、現金収入が途絶えた不安もなくなります。
村長はご母堂様のご苦労の状況も先生から説明があったので快諾され、学校用務員として採用されました。
当時の言葉ですと小使いさんと呼ばれました。ご母堂様は最初、中佐のご母堂様でいらっしゃることは一言も話されませんでした。西条の街の中で口さがない人たちに翻弄されてこられた経験があるからこそ、ひとり息子のことすら人に話せないと痛感されたのだと思います。
が、どこからともなく噂で村の人たちにも知られることとなりました。ところがそれは好意的に受け止められて、子供達からは「日本一の小遣いさん」と親しまれ、多忙な中でも「毎日の生活が楽しい」とお話になるようになりました。
当時は千足山村まで電気が来ていません。来客の給仕や、鐘を振って時刻を知らせ、給食を準備し、と忙しくされましたが、用務員になられ子供達に囲まれて、ようやく落ち着いた生活を得られました。
後に千足山村は改称されて「石鎚村」となります。さらに石鎚村は小松町と合併したために、石鎚村の村史は小松町が編纂して「小松町誌」にまとめられました。
これによると、1947年4月1日に学校教育法が施行されて、校名が「千足小学校」に変更になったとあり、その後ろに戦後あらゆるものが変わっていくのが学校教育の面からも垣間見える記述が続きます。
「1948年6月17日 学校給食のために家事室を新築落成」、「7月5日 給食を全校的に開始」、その次の項目に「1948年 小使を雇用す(関サカヱさん)児童数男97、女75、教員10名」とあります。
町誌の記述では背後事情までは触れられていないので前後関係がわかりませんが、給食を出さねばならない学校の事情から関行男海軍中佐のご母堂様が雇用されたのかもしれませんし、もしかしたら関行男海軍中佐のご母堂様が普段の業務以外にも給食に関わる仕事までもお引き受けになられたことで、子供達に給食が始まったのかもしれません。
現在、小松町は西条市に合併し、広大な石鎚村の区域は「小松町石鎚」という地名でひとまとめで括られ、人口統計にすら現れない無住地となっています。
しかし、関行男海軍中佐のご母堂様がいらっしゃった時代、これだけの子供達が学校に通っていた時代があったという目で見て、ご紹介した「石鎚の歌」をご覧いただくと、それだけの人間を養いうる豊かな土地であった、ということも特筆すべきでしょう。
そして、現在こそ西条市に合併してひとつの市の中の出来事とまちの境界を意識することはないけれど、当時は西条市は西条市、小松町は小松町、そのはるか奥にあったのが千足山村でしたから、関行男海軍中佐とお過ごしになられていた西条のまちからずいぶん離れたところへ追い出されてしまった、という感情もひとしおであっただろうと思うのです。
そんなところに一人取り残され、一つの村に誰も頼れる縁者もなく、息子のことを口に出せば迫害されるような社会で生きなければならないということが、どれほど心細くいらっしゃったことであろうかと思うのです。
そして息子の死と引き換えのお金 ―― 関行男海軍中佐の恩給も海軍消滅で停止していましたが、支給の再開が決まって心ある方々が受給できるよう奔走もされ、いよいよ翌年から支給されるという1953年、病気により57歳(数え年)で世を去られました。
亡くなられる際に中佐の墓を建ててほしい、と話されて亡くなられた、という逸話がありますが、意識をなくして倒れられ、そのまま担ぎ込まれてお亡くなりになられた、とも伝えられています。
それになによりなにより「関行男海軍中佐のご戦歿を中傷するような社会」だったのです。このような中で、いろいろな人間が取り囲む死期の間際に、息子のことを言い出すことができるでしょうか。ただただ、心から打ち明けられる方に、気がかりごととしてお話になっていたに過ぎなかったのではないでしょうか。
この「『中佐の墓を建ててほしい』と死ぬる直前におっしゃられた」という伝承が後述の小説の脚色を端緒にしたでっち上げ話だとしたら本当にやるせないことであるし、「お涙頂戴」の意図からでしょう。絶対に許せません。
戦地で散々苦労して復員された方が松本駅に到着したら、全ての宿に宿泊を断られた。ダニやシラミを遺されたら困る、と。特別攻撃隊の隊員さんに選ばれた人たちが帰国したら「特攻崩れ」と言って非難する。戦地で地獄を見た人たちに「貴様らが弱いからこの国が負けたんだ」と鬱憤を晴らす。
日本人はいかにも素晴らしい、立派だとマスコミは印象操作をしていますが、これほど「強きを助け弱きをくじく」民族性はないと思います。勤勉なのも、強い人間が弱い人間を縛り上げて自由がないからそうせざるを得ないだけであって、国や社会が人間をがんじがらめにし、なおかつ「言わずとも察しろ」で無言で同じ行動を強要する社会、陰湿で「何を言われるかわからない」社会だからこそ、勤勉にならざるを得なかった。
さらにはいくら働いても収奪されて暮らしが楽にならないから、死ぬまで働かせられる。今は江戸時代風に言えば、5公5民。小学校の歴史の授業でも習ったことだけれど、その当時ですら「今はどれだけ国(=自民党)に搾取されているか」は教えられなかったと思います。
日本で外国のニュースがほとんど入ってこない報道。いろんな国で消費税が課せられているけれど、ずいぶん広く取られてしかも高いということ。高市は、減税の論議では「レジのシステム」まで配慮して「大変だからやらない」と蹴り続けているが、増税の時はそのような配慮など関係がない。
自民党は売上税(消費税の前身として構想されていた)の構想をぶち上げたときは、マスコミもまだ根性があり、国民とともに歩む姿勢がありました。特に大論争となり国民のあまりの反対にひっこめた「インボイス」。弱小商業者を護るという理由があったのです。今も弱小商業者はいるはずなのに、いつの間にかするりと導入されています。こちらのほうがシステムはおろか人間の手間も多く、一番は国民の生活に直結する(商品すべてが高コスト化するので国民の懐を直撃する)というのに。
当時から「小さく生んで大きく育てる」と揶揄された税金。いつも事例で都合のいい外国の例をあげ、その国が配慮して通した部分は隠し通して国民に無理やりねじ込んでいくような政治。国民もこれだけ馬鹿にされているのに、それをうのみにして悪政を支援し続ける。「生活が苦しい」といいながら選挙に行かないという方法で自民党を応援し続けている。
渡航者も移住者も多い東南アジアや遠く南米、アフリカなどからも輸出入して資源を売ってもらっていますが、現地の暮らしがわかるような番組は入ってきません。娯楽や観光のような浮かれた番組か、出演者がウマイウマイと言って宣伝として供されるタダ飯を食う番組か、外国人が「この国スゴイ」と日本人の自尊心をくすぐり満足させるような番組ばかり。
他国と比べてどれほど厳しい生活であるかは意識させないようにして、死ぬまで息の詰まるような生活を強要する。「生涯現役」というのは死ぬまで働け、ということ。
これを称賛するのは、ほかでもなく「体制」。一見自由がある社会であるかのように上手に見せかけながら、この社会を押さえつける側の人間たちが金儲けに励む、思惑どおりの社会を構築しているのです。
敗戦後に限らず、この国の人間は、弱い人間をめざとく見つけ、これ以上もない弾劾、私刑のようなことをして追い詰める一方、極端に権力には媚びる国民性であることには枚挙にいとまがありません。
ご母堂様が、関行男海軍中佐のお墓まで毎週のように汽車で通われていたと、その姿をご覧になられた方から聞き及んでいます。バス停まで徒歩で30分程度かかり、そこからバスで1時間でようやく駅に着く。予讃線で片道1時間半、それから30分歩いてご墓所へと…。それだけご母堂様の人生が厳しいものであり、ご子息を心のよりどころにして、彼のご墓所が唯一、心を許せる場所であったのだろうと思うのです。
石鎚小学校・石鎚中学校の訪問記はこちらです。
人を殺す、ということ
玉井は関行男海軍中佐に特別攻撃を強いた男です。戦後、ご母堂様に会っているのです。関行男海軍中佐をはじめ、多くの若者たちを殺しながらのうのうと生き延びて、「死ぬ時までずっと特別攻撃隊の隊員さん方の御霊を慰めるために仏門に入り、住職をしている」、と。
ずいぶんしおらしく書かれているのですが、こういうことも伝わっているのです。
紹介のリンクには敷島隊の隊員さん中野磐雄海軍少尉のことが詳しく書かれていますのでご覧になってみてください。
「目を輝かせて挙手をして」というのであれば、どうして「しぶしぶ」という情景が伝えられるのか。自分の都合のいいように歴史を書き換えようとウソをついても、別のところからははっきりと「死を強要していた」なんて証言まで出てくるのです。
わたしがもし特別攻撃隊の隊員さんの立場だったら(優秀でないから到底無理ですが)、こんな人間の経を聞き、こんな人間の叩く木魚や鐘の音で「幸せだ、成仏できる」なんて到底思えません。
このオッサンの読経を聞くたびに恨みがよみがえってきて、「魂が鎮まる」どころか、余計に怒りが湧いて仕方がないことでしょう。こんな人間が仏門に入ろうが、滝行をしようが、死んでしまった、いや、殺されてしまった方々が「生きたかった人間としての人生」を再び歩むことはできないのです。そして、死を押し付けた張本人が人間としてやることのできるご慰霊など、たかが知れているのです。
子供を一生懸命に生み育てても、何の悪いこともしていない庶民の子息が「特別攻撃」という命令を出されて「死」を強要される。関行男海軍中佐のご母堂様も、ご子息がこれ以上もない熾烈な殺され方をされて、ご主人様もご子息もいらっしゃらない。誰にも助けを求めることもできない女性が、福祉もなにもない厳しい世の中でたった一人、生きていかねばならなかったのです。
それも社会からの言われなき憎悪を一身に受けて、頼る人もなかったご母堂様の人生の事実は厳然と残るのです。
そして、わたしが思うことなのですが、戦後息子に死を強要した張本人が「自己弁護になりますが、簡単に死ねない運命になっている人間もいます。」と平然と言ってのけたとしたら、どれほどご母堂様が悔しいお気持ちになられたか、と思うのです。
玉井は自分が生きるためにさまざまな工作を行い、関行男海軍中佐を圧迫面接で殺す道筋をつけ、その後も継続して特別攻撃と言う生贄を「勝ち戦を要求し続ける裕仁」に差し出すことに加担しました。やったことは、ただただ「生きたかった」と願う若者たちの生命を殺してまで生き延びたということだけなのです。
関行男海軍中佐に死を要求しておきながら、そして、「自分が簡単に死なないように」自分自らが道筋をつけておきながら、ご子息の死に打ちひしがれる関行男海軍中佐のご母堂様に「簡単に死ねない運命になっている人間もいます」と平然と話したとしたら、どれほど無神経でしょうか。果たして人間の言うべきことでしょうか。
さらには、空襲で家を焼き出され、お父さんお母さんを戦争で亡くした子供達を思うのです。お腹をすかせてさまよい、大人たちは自分と自分の子供だけで精一杯、愛情も人間らしい扱いも受けられない。大人は野犬を追うように子供達を追いやって孤児院に入れてよしとする。そこではとにかく人数を減らしたいから、ろくな審査もせず里子に出して、子供に血反吐をはくような人生を強いる。こんな冷たい社会、地獄を体現したような社会に裕仁が導いたのです。
人間同士関わりあう中で魂が成長する「この世」に、「運命」があって生まれてきた。動物的には人間が生んだことになっていますが、魂的には違うでしょう。「魂を生み育む」、このような尊いことは到底人間ではできないことだからです。
そしてようやく生まれ、お母さんが苦労して育てられて大きくなった子供達、これから社会にはばたく人間の生命を、赤の他人が刈り、奪い取る。あるいはよそ様の生命を刈れ、奪えと社会を導く。
こと当時、「お前たちは先に行っておれ、我々は後に続くから」などと言って部下を死に追いやった者、人様に死を強要したような者、「国が勝つこと」と「国民(軍人さん方兵隊さん方も国民)の生命を大事にすること」の優劣すらわからない者。こういったクズばかりが戦争を推し進めていきました。
そして晩年いたたまれなくなって仏門に入ろうが、仮に自殺して責任を取ったことにしようが、そもそも人様の生命に手を掛けたという事実は取り返しもできないし、帳消しも免罪もできない。人間の人生みなみな自分ひとりのものではないのです。周りの人、社会と影響し合って生きる運命に置かれて生涯を送っていたのですから、そのいのちを奪われた人様に関係する/したはずの相手の分すべてにまで責任を負わねばならないのです。
ひとりひとりのご家族の人生も狂わせ、社会の一隅を照らす尊い魂を霊にするということ。「一隅を照らす」という言葉がありますが、それぞれの人間が社会の働き手となるとき、その仕事を通して辛く苦しい地上世界、それぞれのいのちの輝きによって照らし、照らされるはずだった、家族の暮らしや社会の輝き。
戦争を裁可した皇統、またそれを助長した周りの人間やそれにおもねる者らが償わなければならないのは「その人の送るはずの人生」分だけではないし、当然のことながら多大な利息をつけて償わなければならないのです。
人ひとり殺しても大変なことなのです。ただただ大昔の僧侶が書いた経を読む程度のこと、祝詞を奏上する程度で、その人の人生が回復するようであったらなにも苦労しません。何より、仮に人生が回復してその人が蘇生なんてすることがあったとしても、「当時」という舞台装置も、そこにあった人間関係も過去のこと。歩まれるはずだった人生舞台をもう一度仕立て上げることはできないのです。
そして死ぬときがやってくる。さあ、死んでしまった。人間が決めた地位は何の役にも立ちません。天皇だの皇族だの大将だの国会議員だの総理大臣だの、すべて人間がこしらえた立場にすぎないこと、単に肩書きであったことを思い知らされる。
特に傲慢にふるまった人間、睦仁だろうが裕仁だろうが、皇統ほどただただ人間が決めた地位に安住しているだけであったのを思い知らされる。
人間に仏様神様が授けられた「良心」という判断基準。無茶をすると心が痛む。私利私欲に生きるか、利他心で生きるか、良心に従った生涯だったかどうかをじっとみていらっしゃる。皇統ほどその「良心」がないことをつきつけられる。いついかなるときも国民の上前をはね続け、過分すぎるほどの「贅沢に溺れた」生活。さらには戦後「統治」の義務もなくなって「置物」に血税が注ぎ込まれ、それを拒絶するそぶりもない。
いくら天照の神様に対していくら祭祀をしていても、時間を割いて苦労して乗り換え、乗り換え列車に揺られてやってくる庶民たちと、特別列車で庶民を押しのけて悠々とやってくる人間と、仏様神様はどちらに温情を掛けられるでしょうか。
もし皇統のほうを優先なさるようであれば、そもそも神様ではない。なぜなら「皇統」という立場は人間が決めたものであり、「スメラギイヤサカ」という判断基準そのものが人間の価値判断なのです。神様がそもそも人間が決めた地位や身分、評価判断で惑わされて、相手の魂を見定められることがあろうか、と思うのです。
たかが人間ごときが、人間が上下を決めて漫然と上に腰を下ろし、ただただ下々が殺されていくのを傍観するだけ。下々は飢えと孤独、悲しみにがんじがらめになりながら路頭に迷っているのに無視を決め込むどころか、もっともっとと苦しみに追い込んでいく。睦仁や裕仁と言った国民を虐殺したような先祖がおりながら、後世続く皇統そのものがその地位に疑問を抱かず、甘んじて存在し続けること自体の罪の大きさは、計り知れることでは到底ありません。
たとえ戦後のうのうと生きて天寿を全うして逃げ切ったような気でいても、死んだら同じところに行く。人間がこしらえた、テンノーだの、大将だのそんな地位も名誉もすべて意味をなさない、「箔」はきれいに剝がされて、言うなれば生まれたての人間のような状態となって、それまでの人生を振り返り振り返り、生涯なしたことを自問自答しなければならない世界へです。
人間は永遠に生きる。霊として。自分が殺した人間が先に霊界に待ち構えている。苦しく死なざるを得なかった方々には仏様神様がついてくださる、味方になってくださるのです。そういう彼らがたくさんいる世界に、自分を散々苦しむような道をひいた人間がいよいよ霊となってやってきた。さあ、どうなることでしょうか。「こいつが俺を殺したんだ!」と大挙して押し寄せてくる。どれほど恐ろしいことでしょうか。
人間的な利欲で見て見ぬふりをすれば心が痛む。そこで人間らしい「思いやり」を発揮して明朗に生きる選択をするのか、「自分が満足して生きられればそれでいい」と刹那的に生きるのか。それが試されていたというのに。
こうした理不尽の極みを、この国は、皇統の支配する政府・軍隊は、すべての軍人さん方兵隊さん方ひとりひとりにつきつけたのです。
関行男海軍中佐が、先に霊となられて地上を眺められたとき、一番に気になられたのはご母堂様のことでしょう。極限までの貧しく苦しい生活であるうえに、西条の人たちから石礫を投げつけられる様子をご覧になられて、どれほどお悔しかったか、お苦しかったか。
母に恥をかかせないように、立派に生きたと胸を張って言えるようにと、立派に軍人としての職責を果たされた。「死んでこい」なんて無茶苦茶な命令を飲み込み、死を受け入れ、隊員様方を引き連れて作戦を成功に導かれた。
それなのに、それなのに国も海軍も、最低限の住む場所、食べるものに困らない程度の最低限の生活すら母に与えなかった。裏切られた、と。
この辛さを、この国の、皇統の支配する政府・軍隊はすべての軍人さん方兵隊さん方につきつけたのです。
嘘か本当か分からないようなものが世に残り、賞も取れず、歴史記録にも役に立たず。絶版となって消えていく
『関大尉を知っていますか』
わたしも関行男海軍中佐から直接いろいろ聞きたいから、期待して読んでみたのですが、もう、言葉になりません。
著者は南アフリカの人(カナダ人?)。神様の夢を見て、関行男海軍中佐が枕元に立ち、特別攻撃による夢を繰り返し見た、特別攻撃による戦死を体験したというのです。プロローグの末尾にこのように記してあります。
科学的に眠りには浅い眠りと深い眠りがあり、夢を見るのは浅い眠りのときだといいます。そして、何度も交互にやってくる浅い眠りがくるたびに、前の浅い眠りの時の夢の内容は上書きされ、次第にぼんやりとして、目覚めるとしばらくしてほとんどかき消されてしまうのが一般的ではないでしょうか。
眠っている時間のうち、夢を見る時間は限られている。毎晩のように関行男海軍中佐が夢に出てこられ、「今日はここまで」と区切り、翌日は「今日はここから」とならなければ、1冊のハードカバーにするぐらいの量、書けるわけがないと思うのです。しかも著者は夢の中の「細かいところまではっきり覚えている」、というのです。霊は夢でどのように姿を見せられるのだろうか、と考えたとき、杉浦茂峰海軍少尉のことを思い出しました。
杉浦茂峰海軍少尉は台南で「飛虎将軍」(「将軍」は敬称)として厚く祀られ、水戸市や那珂市のページにも掲載されています(すごいですね)。わたしもぜひぜひお参りに行きたくて台南へ行きました。
余談ですが、上の引用だと日本人超歓迎!!という記事に読めますが、行ってみると記事は盛りすぎで、一般人だと日本人だからといって特に相手されません(留守番らしき老人がいるだけ)。「歓迎」は相手が取材だったり公式機関のときだけだろうと思われます。普通に中華寺院で拝観するのと変わりません。しかしながら「日本人が中華の様式で祀られている」というのは稀有なこと、ご機会があればご参拝に行って差し上げていただきたい、と思います。
閑話休題で、この引用でもわかるように、霊となられた方々は、全く関係のないような人に対して顕れられたりはしない、ということ。杉浦茂峰海軍少尉の場合は台南でお亡くなりになった土地に顕れられ、しかも当時捜索をしたら履いていらっしゃった飛行靴が出てきて、「杉浦」と記名されていたことから「彼である」と断定するに至った、という経緯があります。
まず、「日本軍兵士が外地で祀られている唯一の例」とあるのは持ち上げすぎで、関行男海軍中佐はじめとする特別攻撃隊のご慰霊碑は台湾同様現地の方々がマバラカットに建立されていますし(書籍の紹介はこちら)、政府もシベリアや南洋諸島など各地にご慰霊碑を建てています。よい機会なのでご紹介します。2000年以降、太平洋の区域では慰霊碑すら建てられていないのですよね。国の方針、スメラミコトの宣戦で、あれだけの広範囲の地域・海域で殺されているのに。これで完了した?ということでしょうか。そしてまさか建てっぱなしでしょうか。それに、日清日露戦役は対象外でしょうか。
国に引っ立てて行かれ異国で苦しく亡くなられた代償は、ちっぽけなご慰霊碑しかないのか
そしてこれらの方々が、行くこともなかった南アフリカやカナダに霊として突然顕れるなんて考えられないでしょう。そして霊が夢に出てくることはいろいろな伝承で語られますが、多くは人に語らず、何らかの現世に思いや気がかりのほんのひとかけらを告げる程度。
それを人間に叶えてほしい、あるいは解決してほしいと願っていても、饒舌には語れない。ただ、察してもらいたい、自分を弔ってほしいと、姿を見せる、一瞬ふわっと夢に出られる。よほどであれば、ゆかりの事物を見せたりや場所へ連れて行き、供養を求める、というのが一般的であるように思います。
これは日本のスタイルかと思いきや、台湾の人たちにもそのように顕れられたのですから、霊と人間が交わるときの普遍的な様式のようなものかもしれません。そして、これを契機として気が付いた人間が調べてくれるのを期待し、その道筋(杉浦茂峰海軍少尉の場合は神託を通して、ようやく日本の軍人であるとわかった)をつけられると思うのです。
杉浦茂峰海軍少尉の場合では、ご自身の生きていた証拠である飛行靴を「現物」として見せたのは、相手が日本人ではないし、時代も下っていて、信じてもらうこと、供養していただくことがそれだけ切実だったように思います。
ところが、本書に出てくる中佐さんは饒舌で、人生全てを語るのです。しかしわたしが期待した「本人しか知らないこと」「霊でないと言えないようなこと」は一切なく、よく知られた内容を超える記述は一切ありません。
そしてなにより、この本に出てくる中佐さんは既知の事実に対して話される内容もありきたりで、第三者が見てこんなことがあったらこう思うだろうな、と思える範囲の心情の記述しかなく、激しい怒りや悲しみがあって当然なのに記述が平凡で薄っぺらいのです。
「果たして本当に関行男海軍中佐であれば、わざわざ出てこられてまで、こんなつまらない心情を話されたのだろうか」と一度疑問がわくと、疑問符がどんどん湧き始めて止まらない。
この本を真実として読まれる方を否定はしないし、なにより著者がそうだと言っているのだけれど、大前提としてこんなに遠くの、関行男海軍中佐ご自身が関与もしない異国の人に、わざわざ自分の人生を語りに出てこられるのだろうか、という感想しかありませんでした。
本書の冒頭に著者が「仏門に入った」こと、そして神仏と一緒に関行男海軍中佐が顕れたふうなことを述べることは、事実も混ぜ合わせることで信憑性があるように見せかけるための仕掛けであると思うし、「関行男は語る」と書き出された本文の内容は、一般的に伝えられた関行男海軍中佐についての事柄と奇妙なほど一致していて、そこから外れた「こぼれ話」や何より「これまで伝えられていることを根底から覆すような事物や心情の描写」がほとんどない。第一に、その「語り」とされたことに、生活感や生々しさがないのです。
この引用は、関行男海軍中佐が敷島隊隊長としてご出撃されて、天候や敵艦艇見当たらずで帰投された4日間について当書の中佐さんが述べた内容ですが、「この4日間という時間は私に自分自身を理解させてくれるためにあったように思う」、とえらく悟られたようなことを語られる。何度も出撃に行き戻られる苦しさも語られずに、果たしてこんなあっさりとした月並みなお気持ちでおられただろうか。
これと照らし合わしてみても、いろいろと思案に思案を重ね、なんとか自分を納得しうる答えを見つけようと、どれほどもがかれたことか、と思うのです。
「奥様を護るのだ」という理由にしても、結局は「特別攻撃を是とする裕仁と腰巾着に殺される、それも死んでこいと言われて命令で殺される。予期もしていなかった台湾、そしてフィリピンへの異動が、その道筋であって、その末には『死』を強要されたということ。
そして優秀であるための努力を積み重ねた自分が、のうのうと生きる裕仁や上官どもに殺されてしまうのだ」、という嘆きすら垣間見えるのに、どうして「ほっとする」なんて言葉が出てこようか。
最後の最後まで気持ちを張り詰め、隊員さん方を引き連れ出撃をする。自分の任務と、奥様やご母堂様の今後、気がかりなことばかり。裕仁のためとかお国のためとかという(上辺だけの薄っぺらい理由で)で行くんじゃない、と憚られずにおっしゃるぐらいに葛藤され、激昂もされていらっしゃったのです。
いよいよ死ぬる日、ご母堂様のことも奥様のことも気がかりで仕方ない(けれど表には出せないので苦しい)と思うし、そもそもたった24歳で死にに行かされる若さからの怒りや激情がおありであっても当然でしょう。
なのに、本書の中佐さんは悔しさや悲しみなど一切ない、まるで年老いた僧侶が悟ったかのような内容。果たしてこれはどこの中佐さんが話をしているのだろう、と思うのです。
外国人がなんらかのことで関行男海軍中佐のことを知り、なされたことを尊く思い、一生懸命足跡を調べ、本として出す。それならそのいきさつをそのまま書いて出してもよいと思うのに、わざわざ夢という舞台を使って、「関行男海軍中佐ご本人と語り合った」と書く。
「亡くなられた関行男海軍中佐自らが私にこう語ったんだ」となると、もはや伝記ではありません。「霊言」を売りにした宗教がありましたが、同じ胡散臭さしかないのです。霊がわざわざ外国の人の枕元に立って、夜な夜な夢で自分の人生を語り続け、著者は夢の中のことなのにその語りややりとりを全部覚えている。
果たしてこれは本当なのだろうか、と思うし、夜な夜な語り続けるほどに悔恨があるのであれば、いよいよ自分が殺されてしまう日のこと、「この日が最期と意識した時はほっとした気持ちだった。」なんてどうしておっしゃるでしょうか。
そもそも、本当に関行男海軍中佐がお話になるのであれば、例えば前述の4日間のことで言うと、そんなに簡単な感想で済ませられるはずはないと思います。
わたしも、関行男海軍中佐のご心中や隊員様方の状況、部隊の状況がどうだったか、などいっぱい聞きたいことがあります。そして仮に直接教えていただけたとしても、他言はできません。軽々しく口外すべきではないと思うのです。
この本は私が住んでいる街の図書館にも置いてあり、歴史本に分類されていました。まずタイトルに騙される。
「関大尉を知っていますか」と来ると、伝記だと思うでしょう。伝記のふりをした小説、いや、「夢見」で霊言だから小説でもありません。
目立つため、売るためにこのようなタイトルをつけ、僧侶であることを先に読者に伝え、いかにも真実性があるように書く。仮にタイトルが「関行男海軍中佐のご霊言」とそのものズバリだったら、お客さんは書店で本書を手に取るでしょうか。
そして、書かれていることは「本人から伝えられたこと」のはずなのに、新事実や関行男海軍中佐だけがご存じであろう内容はどこにもない。
「夢で見て、気になって調べ進めていって」本になったと思うけれど、関行男海軍中佐のこと、あまりに有名で方々で語られつくされていて、なかなか新しい事実、新発見というものは出てきにくいと思うのです。
そうすると、既知の事柄だけを書くか、でっちあげるかしかないけれど、さすがに事実と違うことを書くことはできない、忍びない。であれば、と注目を浴びるための切り口として「夢」を舞台設定したのではないか。
すべては関行男海軍中佐のお名前と死を使って有名になりたい、本を売るお商売をしたいがため。後述の『母の碑』と同じ目的です。
しかも「夢」をベースにすれば、著者は疑い深い人間に対して、それが事実だと証明もできないけれど、読者からしても著者に「これは夢ではないでしょ、創作でしょう」と言ったとしても人が見る夢のこと、実際に全部夢で見たのだ、と強弁されてしまうと反論できない。真実は著者の胸の中だけ。
小説と言い、映画と言いさまざまなところで関行男海軍中佐とご母堂様が取り上げられるけれど、関行男海軍中佐は小説の材料にされるためにこんな過酷な人生を送られたわけではないと思うと、いたたまれない気持ちになります。
『母の碑』
関行男海軍中佐のご母堂様のご事績について、ご本人関係者から聞き取った記録にあたりたくても、知る限り、『母の碑』という小説しかありませんでした。
あとがきに「関親子をモデルにしている。可能なかぎり事実をふまえているが、虚構をまじえて作品化したことを付記しておきたい。」とあります。
小説内では、のっけから例えば姓の「關」様を「梶」とし、中佐の名「行男」中佐を「昭夫」に、ご母堂様の名「サカヱ」様を「サナエ」にと改変しているので読みにくくて仕方がありません。
著者図子英雄は愛媛新聞社に勤務していました。この人がどんな人かと思い検索してみると、芥川賞を狙っていたことが分かります。ご母堂様関係の取材も新聞社のつてや情報を最大限に利用したことでしょう。ジャーナリズムに関わっているならば、得られた内容が後世貴重な史料にもなると考え、そのまま後世に伝えるという選択を取ることは考えなかったのでしょうか。
「可能なかぎり事実を踏まえる」のではなく、ノンフィクションとしてこのような苦しい人生をお送りになったのだ、とそのまま書いてほしかった。
ただただ戦争でご子息が苦しい目に遭わされ、戦争賛美で遂行にご子息もご母堂様も利用され、あげく周辺の人たちから迫害される。
このような厳しい現実を受け入れざるを得なかった関行男海軍中佐とそのご母堂様の人生は、結局は「戦争は絶対にしてはならない」というひとつの教訓として純粋に遺されるべきだったと思うのです。
図子自身も西条市出身、愛媛県立西条高等学校の卒業生(関行男海軍中佐の後輩)という経歴です。愛媛新聞社を1992年に退職し、その年に『母の碑』は刊行されました。関行男海軍中佐親子の壮絶な死を利用し、「作品化・商品化」するために、嘘を混ぜ、芥川賞を取って有名になりたい。有名になって金儲けも、と実際に出版社に持ち込んだということでしょう。
格別の苦労をされて世を去られた方々の「死」に虚構を混ぜ、読者にインパクトを与えて本を売る。証言した人たちも、ただただ著者が有名になること、著者が芥川賞を取って、ヒット作にしてほしいなんて願って応じるでしょうか。
そもそも、虚構を織り込む行為自体、関行男海軍中佐とご母堂のご尊厳を傷つけ、証言した人たちのご好意を踏みにじることと考えもしないのでしょうか。
史実になるものを手に入れながらそれに手を加え、上書きして商品として書かれたものしかこの世に残さなかった/残らなかった結果、将来の日本人が人生を考える指針となる記録のうちの一つを失ってしまった、とわたしにとっては残念でなりません。
もし記録として遺されれば、学術的に使われる、そうするとずっとずっと長い期間、貴重なインタビューは生きるのです。小説でもいいではないか、という意見もあるかもしれませんが、先に「小松町誌」の関行男海軍中佐のご母堂様の記述を紹介しました。
この町誌記述のなかに関サカヱ様にかかわる証言として「小説」が引用できるかどうか、と考えれば、分かりやすいと思います。同じ証言の内容であっても「証言集」として思惑なしに遺されていれば、掲載されてもおかしくない、むしろ第一級の資料としての重みのある記録。きちんと取り上げられたとすら思えるのです。
考察 関行男海軍中佐のご母堂様が背負われたご生涯 ―― これほどまでに西条の人たちの気質と国の制度に振り回された「そのままの事実」は、戦争や政治、女性史、様々な視点から第一級の資料と教訓になったはず
それが、自分の名誉と金儲けのために、安っぽい小説にわざわざ仕立て直された結果、証言された方々の好意が無となり、未来永劫伝えられたはずの純粋な証言の記録がこの世に残る、せっかくの機会を失いました。
何より苦労して人生を歩まれた関行男海軍中佐のご母堂様の人生を踏みにじるに等しいことを、この地元紙愛媛新聞のジャーナリストがやりおおせたのですから、言葉になりません。
関行男海軍中佐や関行男海軍中佐のご母堂様は偽名を記しても、読みにくいながら指す人物が特定できる。しかしこの親子を取り巻く人間模様、登場人物も全て偽名にしてしまっては、もはや誰のことかも、果たして実在する人物かどうかすら分からなくしてしまいました。
しかも小説。娯楽本という扱いですから売れなくなれば絶版になります。虚構含みに仕立て上げたばかりに、売れなくなると古本扱い。ご紹介したように58円というびっくりするような値段で売られていましたが、その程度の扱いを経て、やがては世の中から消えることでしょう。
「味噌も糞も」という言葉がありますが、その言葉の通り。見た目すらすらと文章が書き連ねられていますが、どの部分が「味噌」でどの部分が「糞」か、書いた本人でしか分からない。内容に虚構が混じり込み、ウソが書かれているような内容は、歴史の記録として後世の人間も扱いようがないのです。
例え真実を話された方の証言がほとんどであっても、これ以上もない苦難の人生を歩まれた「関行男」と言う実在で有名な軍人の名前を「梶昭夫」に書き換えた時点で、どうして後世の歴史に携わる人間が「歴史の記録」として真正面から取り扱えるか、という話です。信憑性がないのです。
関行男海軍中佐のご母堂様のことを調べるにあたり、今は廃村となってしまった千足山村のこと、何かないかと調べていたら、習俗の記録がある程度残されていました。今や廃村となり、多くの方が山を下りたのも1970年代後半とずいぶん昔のこと。何もしなければ残ることがなかったはずのことなのです。
無名の郷土史研究家がそこに住んだ人をつきとめ、繰り返し繰り返しインタビューをして当時の生活を文字に再現し、同人誌に発表して歴史にとどめる。インタビューする側もある程度の年齢であり、このインタビューの内容で自分が有名になるとかをもくろんだわけではないでしょう。ただただ地元の歴史研究のサークルの中で発表し、自身が会費を支払って文集のような本に掲載することの繰り返しだからです。
例えば、これほどの山村で「人が死んだらどう祭祀をしていたか」というようなこと、今となっては絶対に分からないことが記録されている。その記事にもインタビュー相手がご高齢であれば尋ねにくく、躊躇しながら質問をしたら、快諾されていろいろお話しくださった、と「小松史談」に書かれていました。
葬儀となったら、どこの店に必要なものを買いに行き、もしその店で不足したらここにあったこういう店まで足を運び、棺桶には「しきび」をいっぱい詰める。それは山道だらけの村の中の移動、棺桶の中でご遺体が動くのを防ぐため。このような証言とともに、いつ誰に聞いたかまで記録されているからこそ、証言が本当である(事実かどうかは他の証言と突き合せればより正確になる)と確信ができます。取材相手で千足山村の最後の住民だったご夫婦のにこやかな写真と、その方のご経歴とお名前が明記されている。これこそがジャーナリズムではないでしょうか。
いまでこそ千足山村のインタビューの話し手も採録された記録日から現在の日付を照らし合わせると、とうに人間の寿命を超えていらっしゃることから世を去られたものと思います。しかし「こんな生活をされていた」ということが手に取るようにわかること、ひいては関行男海軍中佐のご母堂様が、人生の終盤に暮らしていらっしゃった土地のくらし、千足小学校に通っていた子供達の生活がいきいきとわかります。
ただただこの郷土史家たちの「千足山村での出来事、些細なことでも証言できる人がいるうちにとにかく聞き出して残しておきたい」、という使命感がすばらしいのです。書く/調べる楽しみはあるだろうけれども、「残す」ということの重要性を分かっていらっしゃったと思うのです。
今となっては消滅した山の暮らしをよくよく文字に遺してくださっていた、「ありがたい」としかいいようがありません。
しっかりとした史実が記録されている歴史のできごとは、派生した小説がいくら出されてもいいのです。真実とそうでないことの区別ができ、真実を知りたい人は史実に当たることができるのですから。
しかし、関行男海軍中佐とそのご母堂様という時代に翻弄され、苦しく生きた親子の史実。これに触れた当時の人たちが存命し、証言していただける機会は極めて短い。さらには接触する手段と便利な「元新聞記者」肩書きを持っていてこそ取材ができた幸運な人間なのに、虚構仕込みで賞狙いの娯楽作品にしたばかりに真実がのこらない。そして関行男海軍中佐のご母堂様の記録も後世に残らない。
関わったのは新聞社の人間。真摯に過去に向き合って同人誌や史談会報に遺すような地味なことを嫌い、結果だけを見れば立場を濫用して駄作を作っただけのことになってしまった。そう断罪せざるを得ません。
西条のまちから当時の西条の人間が関行男海軍中佐のご母堂様を追いやったのに等しいこと ―― それは関行男海軍中佐のご母堂様のお気持ちを察し、苦労に苦労を塗り重ねるような困難なご生涯に、誰も真正面から向き合わなかった ――、これと等しいことを後世の報道関係者が自分の売名のために行った。いや、よりにもよって苦しいご生涯の末亡くなられた「死」を売名に利用している。これを考慮すればよりもっと罪深いことをした、と考えるのです。
関行男海軍中佐のご母堂様の人生について他に書かれたもの/伝えられていることが、この本を底本にしているとしたら信憑性に問題があります。けれど、他にまとまったものが見当たらない。
著者自身が「可能な限り事実を踏まえているが」と書いたけれども、「可能な限り」とはどういう意味か、といつも腹が立つのです。
「可能な限り事実を踏まえているが」を言い換えれば「事実を踏まえていないことがある」。「事実を踏まえていないこと」とは、果たして一体何が該当するのでしょうか。その目的は。
素直に事実を伝えなかったこの著者は、関行男海軍中佐のご母堂様に生前関わった。果たして死後、関行男海軍中佐のご母堂様に顔向けすることができるのか。そもそも霊格の違いからお目にかかることすらかなわないと思うけれども、よりにもよってこれほど困難な人生を歩まれたお方に対して、言い換えれば「事実を踏まえず捻じ曲げた」と自ら証言(=巻尾に書き残)してのけたのです。
こと内容が歴史の記録というジャーナリズムの根幹にかかわるような内容。ジャーナリストとしての使命や良心が問われる仕事です。小説家に転向するならば、ジャーナリストの良心は不要なのか。であれば、ジャーナリストの肩書で取材をするのは反則ではないか。利用できるものは何でも利用して何が悪い、と言われるかもしれない。そうすると「そこに良心やプロとしてのプライドはあるのか」と問いかけたい。
この男が新聞社を辞めて人脈を利用してやったことは、ジャーナリストとしての自分の人生そのものを自分で否定し、挙句小説家にもなれなかった、と言うのは言い過ぎでしょうか。
しかし、不思議と確信するのは、もし誠実に取材を重ねて、関行男海軍中佐のご母堂様の生涯をありのままを描き、記録として発表しておれば、ジャーナリストとして最高の栄誉が得られたのではないか、ということ。
しかし、この男が他の人間のことを手掛けるのはわたしは一向にかまわなかったのだけれど、文学賞目当てで関行男海軍中佐のご母堂様の記録に関わったこと、これが残念で残念で仕方ありません。
死の尊厳、死の情景に対する図子の怒りとわたしの怒り
「『中佐の墓を立ててほしい』と死ぬる直前におっしゃられた」という伝承が後述の小説の脚色を端緒にしたでっち上げ話だとしたら本当にやるせないことであるし、「お涙頂戴」の意図からでしょう。絶対に許せません。
―― 改めてこの一節を読み返し、激しい憤りとともに、暗澹たる気持ちにさせられます。
しかも「赧み」などという難解な単語。調べると「あかみ」と読む。
図子は、ご母堂様の最期を『異様な苦悶の赧みが射して』と表現しました。本来『恥じらい』を意味するこの『赧』という字を、死の苦悶による顔色の変化に充てる謎。
死者の尊厳を弄び、死の間際の描写にこのような不適切な漢字をわざわざ選び取るのは、難解な文字を知っているということの誇示でしょうか。
さらにご母堂様の死を目撃された方に取材ができたとして、例え苦しみながら亡くなられたとしても、病気で倒れられて変死事件でもないのに「異様」とまでの表現をなさるだろうか、と思うのです。
そしてそもそも学校用務員として村の子供達のために懸命にお勤めになられ、苦労して生涯を送られた最期の姿として、それが仮に壮絶な最期でいらっしゃったとしても、村人が、よそ者の図子にこのような表現で証言なさるでしょうか。『最期まで懸命に生き抜かれました』と、お伝えになるのが自然ではないでしょうか。
とすれば、ここまでの記述はどこから来ているのだろう。「衝撃的な死の姿」がどこからも手に入らなかった怒りや「これでは賞が獲れない」という焦りの反動があっての筆致が「異様」という単語に結実したのでは、とわたしは思っています。
何度読んでも「顔に異様な苦悶の赧みが刺す」という状況自体、理解ができないのです。「苦悶」が赤い色で顔に変化が出るという状況? 異様? 著者の言う『通常』とは一体何なのでしょうか。
私の脳内では、外面的な状況を再現できず、「異様」という単語だけが浮かび上がって、「なんとなくグロテスクな状況」である、という理解しかできません。そして激痛で言葉が出ず「苦悶の表情」ならまだわかる。しかし、「ハカヲ……」と言わせているのは図子自身。
仮に言葉が出ずに苦しんでいる姿にせよ、ようやく一言「ハカヲ……」と発せられた姿にせよ、それをその場におられた方々が「異様な死に方だった」とそもそもおっしゃるだろうか、と思うのがひとつ。そして、「ハカヲ……」と一言でもポツリと口にされれば、思い遺す事を伝えた、と苦悶ではなく安堵の表情になるのではないでしょうか。
そして、ここまでわたしが類推するのは間違っている、と言われるかもしれないけれど、それこそジャーナリストとして「関行男海軍中佐とご母堂様のご生涯について、ただただ事実を後世に伝える」仕事を成しておれば、千足山村の歴史のうちの貴重な証言として史実が後世に伝わったことでしょう。類推も必要ありません。
さらにはその証言は、軍事史、社会史、民俗史、また報道をめぐるメディア論、さまざまに学問に活かされたことでしょう。後世の多くの人間に注目され、感謝されたはずの、貴重な史料になるに違いなかったのです。
◇
さらにいろいろと考えを巡らせていると、改めて書名にハッとさせられました。つまりは『母の碑』です。
―― この『母の碑』というタイトルで興味関心を惹かせたい。そこに着地するように筋書きを持って行ったのではないか。関行男海軍中佐のご母堂様が生命を終えられるときに「関行男海軍中佐の墓を立ててほしい」という言葉を話されるという「でっち上げ」を思い付き、ここにたどり着くために比較的穏当に関行男海軍中佐やご母堂様のご生涯を書き連ね、最期の最期に「お涙頂戴」に持っていきたかったのではないか ――、ということです。
「事実を踏まえず捻じ曲げた」ことはこのことではないのか。そうでなければ単に証言集になってしまう。証言集のほうがよほどよほど価値が高いけれど、この男は世間からの注目を浴びたいし、なにより有名になりたい、芥川賞作家という冠が欲しい。
それがために、関行男海軍中佐のご母堂様がおっしゃってすらいないこと、人生の一番最期に人様の遺言を上書きするような「本当だろうか」と思うようなウソを書き込む。それも肝心かなめの人生の締めくくりとして。それが「感動大作」になりうると浅はかにも考え、関行男海軍中佐のご母堂様の人生、ひいては関行男海軍中佐のご事績に泥を塗りたくった。
これにわたしが確信を抱くのは、常から関行男海軍中佐のご母堂様が墓がどうだ、石の墓を建てたい ―― なんて物質的でどうでもいいようなことを嘆かれるだろうか、と考えていたのです。確かに木の墓よりも石の墓のほうが立派だし、いつかは石の墓を建ててあげたい、と思われて親しい人には雑談で話されていたかもしれない。
けれど墓の材質が木だ石だというのは、ただただ「人目」や「見てくれ」の問題。「軍神」、「軍神の母」といわれ、散々人からの見た目に振り回されてこられたご生涯でした。その「人や世間の冷淡さ」もご辛酸もいやと言うほど甞めさせられてきたのに、いよいよ死ぬる間際、こんなときにまで墓がどうの、石がいいだのとおっしゃるでしょうか。それは「見栄えの問題」「人目の問題」ではありませんか。
そんなことよりも、ご子息亡き後毎週のように千足山村を降りてはるばるご墓所に通われたことを思えば、ご母堂様にとってはご子息亡き後、そんな「物」よりも「愛おしいわが子に逢いたい」、ご子息の「魂」に触れたい、このご一念がそれほど切実であった、ということです。それほど辛く心細い社会にいらっしゃった、ということの裏返しでもあり、ご墓所が唯一の落ち着く場所、ご墓所で関行男海軍中佐と語らうことだけが心安らぐ時間だった、ということでしょう。
もし本当に「石の墓を建てる」ことが、「死ぬる間際に口にせねばならないほど」後悔するようなことであれば、墓のためにいろいろと我慢されて、何より毎週のように数十キロも離れたご墓所へ通われることも控えられるのではないのでしょうか。
人目を惹く書名や内容を考えたときに、純粋に関行男海軍中佐のご母堂様、或いはご母堂様の目を通して関行男海軍中佐ご自身のご生涯に光をあてることも、こつこつと史談会誌で後世へ伝えるべきこととして真摯に書き継いでいくようなことも嫌い、インパクトがある「何か」を象徴にしたい。そしてその象徴に向かってストーリーを書き、名を売ろうと考えた。
霊の世界や死に関わる内容は思いや心がもっとも大きな意味をもつと思うけれど、それでは作品にできないと考えたのでしょうか。人間的に象徴となる分かりやすい何か ―― それは物でしかない、死でもって印象付ける物は墓しかない、しかし墓と書くのは縁起が悪い、碑だ、タイトルは『母の碑』にしよう ――。
図子は関行男海軍中佐のご母堂様の「ご子息へかける愛情」とご母堂様が身をもって体験なさった「社会の風当たりの冷たさ」を過少に捉えていた様に思えてなりません。
毎週のように片道何時間もかけてご墓所へ訪れることの切実さを軽く見ていた。だからこそ安易に「墓が」と語らせる、他人からみて違和感がなさそうな「月並みの話の落としどころ」しか思いつかなかったし、それをご苦労にご苦労を重ねた関行男海軍中佐のご母堂様に「そうであったかのようにウソを語らせる決着」―― 死を穢す行為 ―― 程度しか思いつかなかった。
ただ、芥川賞を選考するような人間も海千山千だから、そんな薄っぺらいトリックで賞を授けるわけはない。後ろめたいもだから偽名を使う。そもそも、主人公を梶昭夫、梶サナエとすること自体、名を穢している。この男はそもそも死者に対して敬意が皆無であるということの現れなのです。
死者の尊厳を食い物にする「虚構」がわたしたちに伝えること
まず、この『母の碑』が描く、いかにももっともらしい「せめて息子の墓を、という今際の際の訴え」という物語の着地点そのものに、疑いしかありません。そもそも身体の意識が遠のくなか、果たして人はそれほどまでに「現世的な死の象徴」に執着するものでしょうか。
死後の中佐と語り合ったなどという独りよがりな虚構。そして今回の、偽名まで付けられた挙句に、ご母堂様の最期を上書きするような物語。
例えば歴史小説でもドラマでも、実名を用いて歴史上の人物を登場させるのは、その演出や内容に対して「著者が全責任を引き受ける」という覚悟があるからにほかなりません。
しかし、『母の碑』にも『関大尉を知っていますか』にも共通するのは、関行男海軍中佐とご母堂様の凄絶なご生涯を、自らの名声や評価を高めるための「材料」として利用し、その死をまるで「感傷の材料」のような軽いものに矮小化しているという極めて不遜な態度。
すなわち、一方は死後に関中佐と語り合ったなどという、おこがましくも厚顔無恥な「死後の蹂躙」を平然と記し、もう一方はご母堂様が倒れられた死の瞬間、―― ご生涯の締めくくりという尊い瞬間 ―― を都合よく書き換える「生の簒奪」を試み、虚構を世間に放つことでこれらを実行しました。
霊がおられる世界において、このような「死の私物化」が許されるはずがありません。これが僧籍を有する人間のすること、これがジャーナリストだった人間のすることなのです。
その目的は、決して故人の名誉でも、後世の人間を慮って「なされたことの伝承」でもなく、自分たちが他者から受ける評価であり、自らの名声です。
これほどまでに苦しいご生涯を歩まれた親子を、二度までも売名のための書物が「材料」として消費し、ご生涯そして死を軽薄化矮小化したうえに上書きすることなど、決して許されるものではありません。
ご慰霊のこころもなく、ただただ「お涙頂戴」の道具として死者を利用し、設定自体に後ろめたさがあるような作品が、そもそも世に評価されるはずがありません。二つの駄本の目論見は見事に破綻したし、それは死した人間すべての生涯を評価なさる大いなる存在によって、破綻させるべく破綻させられたのだ、と考えるのです。
さらにこうした不実が、霊の居られる世界でも許されるでしょうか。
売名行為のために赤の他人がご生涯を上書きし、「正しいこと」や「事実」をねじ伏せられた側は、霊となられたばかりに抵抗も抗議もできない。この歯がゆさはいかばかりでしょうか。
ジャネットや図子は「自分がこういうことをされたら」と慮れない無神経さだからこそやりおおせるし、自分の人生はそもそも赤の他人に描かれるような生涯でないから、「偽りで生涯を上書きされる苦しさ」も察しようとはしない。
これらはすべて「自分は安全なところにいる」という傲慢さです。さらにはその傲慢が責められない、第一に相手は現世にいない、「死人に口なし」とばかり、文句を言われないということも計算尽くしているからこそ、世にこのような「傲慢のかたまり」のような駄作を世間に放出できるのです。
しかし、人が死ねば必ず行く世界 ―― 既に関行男海軍中佐もご母堂様もいらっしゃる世界で、著者どもは果たして堂々と胸を張って向かい、そもそも自分たちが題材にしたおふたりの前へ姿を見せることができるでしょうか。そう考えるのが一番シンプルに思えます。
これを思えば、著者の「霊格」―― 霊性、あるいは人格や品性と言い換えてもいいのですが、自身でこれらが堕ちることをやった、ということは間違いありません。
◇
墓とは、生者が「ここに霊が居るのだ」として勝手に意味づけした象徴に過ぎません。
ご母堂様が倒れられ、身体の意識がもうろうとされる。ようやく人としての生涯が終焉を迎え、ご母堂様が思われたこと。それは「ようやく息子のところへ逝ける」ということだと確信しています。
そして「その時」。ご母堂様の手を取るために、はっきりと姿を顕してお迎えに見えていたのは、関行男海軍中佐その人であったということは想像に難くありません。
だからこそ、「息子の墓を」という言葉を力を振り絞って口にされる必要すら皆無であるし、この駄本の核となる「息子の墓を立てたいという想い」=『母の碑』の着地点そのものが虚構でないかと確信するのです。
意識が遠のく刹那、ご子息の姿をご覧になって、どれほど安心されたことでしょうか。
関行男海軍中佐に手をとられて、どれほど穏やかな心境で、幸せな仏様・神様の世界へと向かわれたかと思いを致すのです。理不尽と言う言葉では語りつくせない、ご苦労尽くめのご生涯こそ、人生を生きた価値があり、その先には仏様神様のご用意された「本当に幸せな、救いの世界」が確かにある、と思うのです。
謝辞
Twitter 前原様公開の日本陸軍が支那の治安戦で起こした出来事の書籍の引用を紹介しており、掲載に当たって許可をいただきました。厚くお礼申し上げます。