大正生まれの若者たちは、裕仁の「宣戦布告」という「戦死命令」の標的にされた
国民がどれだけ非常時で逃げまどうような事態でも、「やんごとなき面々」は贅沢な暮らしを享受できた
食糧もまともに手に入らない時代が長く続き、どの家庭でもお母さんは子供の養育に大変なご苦労をなさいました。お母さんご自身が空腹であっても、「お母さんはお腹いっぱいだからお食べ」、と懸命に我が子を育てられました。
当時、結核などは治療法がなく1939年当時の結核死亡者は年間十数万人で死因の首位を占め、人口10万対の死亡率は200を越えていました。また医療制度も不十分で、国民健康保険制度も自治体に任せられていたため、多くの国民は全額実費負担で医療に掛からねばならない時代でもありました。
山形県角川村(現在は戸沢村)では、1934年の大凶作で水稲被害が九割九分に上り、被害を打開するため、1936年に角川村保健組合を発足させた。この組合は共助の精神により村民の出資で設立されたもので、現金収入の無い人は農作物や山菜を供出することもできた。そして発足から2年後の1938年8月20日に国民健康保険法の下で認可された国民健康保険組合第1号となった。
子育てがどれほど困難な時代だったか、というのは以下の年齢階層別の統計でも見てとることができます。5歳刻みですが、生まれた子供の10人にひとりふたりの割合で幼くして亡くなってしまう現実があります。また苦労されて子供を育てられたお母さん方がどれほど悲嘆に暮れられたか、と言うことに注目していただきたいと思います。ご戦歿された方々は大正生まれが群を抜いていますが、お生まれになった時期を遡ってみると、子育ても大変困難な時代でもあり、お母さん方も必死でした。このように苦労に苦労を重ねて育て上げられ、ようやく成人された男の子たちの生命を、皇統、裕仁が片っ端から握りつぶしていったのです。
大正時代の子育ての難しさは人口統計からも垣間見える
大正時代後半の年齢階級別男子人口(単位:千人) 年齢階級 1920年
(大正9年)
国勢調査1921年
(大正10年)1922年
(大正11年)1923年
(大正12年)1924年
(大正13年)1925年
(大正14年)
国勢調査1925年
(大正15年)1927年
(昭和2年)1928年
(昭和3年)1929年
(昭和4年)1930年
(昭和5年)
国勢調査1931年
(昭和6年)1932年
(昭和7年)1933年
(昭和8年)1934年
(昭和9年)1935年
(昭和10年)
国勢調査0〜4歳 3,753 3,821 3,915 4,027 4,145 4,160 4,286.5 4,373.5 4,449.0 4,494.5 4,543 4,583 4,619 4,668 4,680 4,714 5〜9歳 3,467 3,492 3,469 3,429 3,373 3,491 3,547.7 3,639.6 3,757.8 3,894.2 3,915 4,028 4,127 4,189 4,261 4,303 5〜9歳 / 0〜4 歳(%) 92.38% 91.39% 88.61% 85.15% 81.38% 83.92% 82.78% 83.22% 84.48% 86.64% 86.18% 87.89% 88.35% 89.74% 91.05% 91.28% 総数 28,044 28,412 28,800 29,177 29,569 30,018 30,521.3 30,981.5 31,449.1 31,880.6 32,390 32,899 33,355 33,845 34,294 34,734
これがどう言う意味を持つか、といえば、当時のお母さん方がどれほどまでにご苦労され、また覚悟をされて子供を産み育てられたか、ということ。また、たくさんの子供が死んでしまうような社会であったので、子沢山の家庭が多かったという理由にもなります。
召集令状が届くまで(金饅頭様のTweet)
召集令状が届くまで(金饅頭様のTweet)
軍隊の警察権をもつ憲兵の人数は多くなかった(金饅頭様のTweet)
軍隊の警察権をもつ憲兵の人数は多くなかった(金饅頭様のTweet)
そのお母さん方が苦労してお育てになられた子供がいつの間にか天皇の子供といわれて皇統に奪われ、人を殺す道具に仕立て上げられて、遠く遠く祖国を離れた土地、海洋、空中で殺されてしまう道筋がつけられました。
軍上層部は地方を区切り、人数を割り当て、下へ下へと伝達するうちに、候補者名簿ができて名前が絞り込まれます。どれほどイヤだと言ってもスメラミコト(天皇)の命令だといい、役場や警察、特別高等警察まで使い、地の果てまで追いかけて「お国のため」といってむりやり軍服を着せられるのです。一方、特別攻撃隊の隊員候補者名簿を作る側の立場の人間が、自分の息子が候補に上がっていたのをみるや、その名簿から抜くよう画策したという話もありました。そうなると代わりの男の子が犠牲となる。人の子供だから死ぬ人間の候補に挙げることを「お国のため」といい、国の勝利のためなら道理も人の道もひっくり返るようなことが方々で起こりました。
皇統は国民の生命を大事にするなどとは対極の人間です。軍人兵隊は死んで当たり前、特に支那の国に無茶苦茶な口実をつけて戦争を仕掛けて以来、裕仁が「ガンと叩き度いものだね」「ガチッと叩きつける工面は無いのか」「ピシャッとやることは出来ぬか」、このような「お言葉」を周りに叩きつけるたびに、震え上がった腰巾着は苦し紛れの無茶苦茶を「厳命」に仕立て上げる。
ただでさえ遠く故郷を離れ、苦しみもがきながら他国の兵士と生命の奪い合いをやらされている前線の軍人さん方、兵隊さん方に、もっともっとと過酷な命令が矢継ぎ早に下命され、この国はおろか、よそ様の国の軍人さん方兵隊さん方まで巻き込んで、たくさんの息子たちが、お互い怨恨は何もないのに殺し合い、霊にするのを競い合う。
累々と屍体が積み上がる異様な光景すら散々「海ゆかば 水漬づく屍、山行かば 草生す屍」と「戦地ではそれが当たり前なんだ」、と感覚を麻痺させるような軍歌で麻痺させてきた教育。壮絶な戦地に送り込んでいて、死んだ兵士に裕仁や皇統どもがそばに寄ってきて花一本たむけてくれるわけでもありません。それなのに、「大君の辺にこそ死なめ」などと、皇統のために喜んで死にに行くことがさぞかし素晴らしいことであるかのようにすりこまれていきました。
この結果、あまりもの戦場の惨状に、理念(皇統、裕仁のために死ぬることは尊いという考え方)と現実(人間同士が人間の命令によって殺し合い、生命を奪い合うことの醜さや残酷さ)のギャップにどれほど苦しまれたか、と思うのです。
そもそも「大君の 辺にこそ死なめ」といい苦しく亡くなったのに、実際に苦しみもがきながら死ぬる兵士、誰が皇統と同じように弔ってもらえたでしょうか。勲章やご褒美は、殺す命令を与えた人間ばかり、それも腰巾着ばかりに繰り返し繰り返し理由をつけて贈られながら、一方で前線の兵士たち、こと人生で花を咲かせる機会すら奪われた若者たちには、市町村伝達で印刷された賞状の紙切れ1枚だけ。
何より庶民が普通に恋愛して、結婚もして、子供も作ってと言うことは許されないような時代にしておきながら、自分は恋愛し、成婚だ、セックスをして皇太子誕生だ、と人生を謳歌したばかりでなく、その度に国民皆から(ご遺族たちからも)税金から巨額の祝儀を巻き上げた挙句、死んだらいつの時代の人間か、と思われるような巨大な古墳墓を、それも多額の血税を投入して当たり前のように作る。これだけ庶民と隔絶した生活をしておきながらどこが「国民とともに歩む皇室」なのか。こんな血統が蛭のように国民に吸着し続け、それこそ「血税」という血を無限に吸い続けられてしまう国民こそが、最大の不幸であると思う。
私達にも若い血は流れています。
好きな人も、思ふ人も、忘れ得ぬ思ひ出も多々あります。然しそれでは戦争には勝てません。美しい日本を何時迄も発展せしめ、米英の魔手から開放すること、それが吾々の喜びであり、又命日でもあるのです。
―陸軍少尉 鈴木重幸様のご遺書(第五十六振武隊 S20.5.11)
当時の多くの若者たちが「何が正しくて何が正しくないか」正当に考えることすら、「スメラミコト」がおり、絶対とされたために批判もできないことから有耶無耶になり、人間としてあるべき良心から出た判断は覆されていき、結局皇統が宣戦するたびに死へと追い込まれていったのだから話になりません。それは我が国ばかりではなく、相手の国の軍人さん方兵隊さん方やその領民までにも地獄を見せたのです。
国民がどれだけ戦禍に逃げまどうような事態でも、「やんごとなき面々」は贅沢な暮らしを享受できた(信州戦争資料センター様のTweet)
国民がどれだけ戦禍に逃げまどうような事態でも、「やんごとなき面々」は贅沢な暮らしを享受できた(信州戦争資料センター様のTweet)
特に日本本土でさえ困窮している食糧は、戦地まで送るような余裕がない。帝都で偉そうにしている者たちは戦時中であろうがびっくりするような食事を摂っているし、戦地でも軍高官用にはそれなりのものが用意されるが、前線で奮闘させられている軍人さん方兵隊さん方にまで絶対的に行き渡らない。
そしていよいよ「徴発」という名目で軍が略奪を許した。これで領土どころか食糧をめぐっての殺し合いが加速していくのです。徴発してもよい、ということは食料を略奪してもよい、ということ。
裕仁の軍、皇軍の「皇」とイナゴの「蝗」を掛けて、蝗軍と揶揄されました。一斉に畑の作物を食い荒らす蝗に例えられた日本兵がやってくる、食料が奪いつくされ、略奪のために殺すことも厭わない、と恐れられたのです。
海外に派兵された兵隊さん方についても、当初はそれなりに軍紀が保たれ、善政をしようとしていたけれど、どんどん泥沼化していく。私たちでも戦争で異国民がやってきて、自分たちの住むところを奪っていくのを黙って見過ごすでしょうか。
つぎつぎと若者たち、志願によって戦われた方が霊にされていって早々に底をつく。裕仁側の軍も、裕仁に「敵認定」された相手の国の軍もです。
裕仁が戦争を決めたおかげで、敵味方双方が人間性を奪われ、獣にされて殺される
民家に押し入り、水がめに隠れていた中国人を引きずり出した。上官に「桑原やれ」と命じられたが弾が出ない。ほっとしていたら、「弾が出ないなら銃剣で刺せ」と。その時の手の感触が、書いてありました。
強烈だったのは、中国軍のトーチカ(コンクリート製防御用陣地)を攻撃した時の体験談でした。山の上にあるトーチカに向けて攻め上っていくのですが、上からはバンバン撃たれる。弾も水も補給がないまま攻撃を続け、味方もほとんど死んでしまった。ようやく相手の陣地に飛び込んだら、中国兵が8人か10人か、死んでいたそうです。足を鉄の鎖につながれて逃げられない状態で。
その光景を見た父は「愕然とした」と記していました。「中国兵も日本兵も、2等兵は大変や」というような同情を、従軍記に書き残しているわけです。そんなことが次から次と、つづられていました。
こんな残酷なことがあるでしょうか。足枷をつけられた兵士たち。死んで霊になるまで戦わされ(そしてその記憶が壮絶なものですから、肉体は死んでも死んだことを自覚できず、死んでからもその場で幻覚の中で戦い続けます。)、ご成仏なさるまで、日本の兵隊の応戦をさせられるのです。水瓶に隠れていた人も、生き延びたかったが見つかって殺されてしまった。そして、それをやる皇軍も相手の国の兵隊たちも、お母さんが一生懸命産み育まれた男の子なのです。いったい何のために、こんなむごいことをやりあわなければならないのか。資源が欲しいなら、裕仁が頭を下げて「売ってください」とお願いすればいいだけなのに、一体どんなプライドが「人様の国を力で押さえつける」「生命を踏みにじる」決定を促すのか。睦仁の日清日露戦争での勝利があまりにもまぶしく、「天皇とはこうあるべきだ、自分もそうなりたい」と天皇の「地位」に酔いしれていたと思うのです。
どれほど庶民の生命は粗末に扱われるのでしょうか。戦争では、権力者から消耗品のごとく人様の人生を踏みにじり、また踏みにじられる道をつけられる。この国には古代中国由来の「戸籍」システムでがんじがらめで(戸籍がない皇統は「統制されない」最高の利権)、権力層が戸籍という記録からかたっぱしに兵隊をかき集めてきました。
このように考えると、戦時中ご遺族に届くご戦歿の通知書には「ご遺族が届出をしなくても県が市町村の戸籍担当に報告するので手続きはいりません」と書いてあります。これはご遺族が辛かろうと思って国が「手続きしなくていいからね」と免除するようなサービスではない、ということも垣間見えるのです。「国民管理の都合上」、言い換えたら「誰が生き残っていて兵士に仕立て上げることができるか」を迅速確実に把握する目的であることが見て取れます。徴兵候補者の名簿は各役場で作成していた。軍が戦死を把握する。戦争が長引いて志願兵となられた方々が少なくなると、かたっぱしに戸籍を繰ることになります。誰が死んでいて、誰が生きているのか、リアルタイムに把握せねばならぬ、下々の届け出など当てにならぬ ――、つまりは次に殺す人間を補充するための帳簿であるから、そこに既に死んだ者が残っていては役に立ちません。このシステムがあるからこそ、兵士にさせられ、無理やり軍服を着せられて、海外へ押し出されていったのです。
現代のICチップが付いたカード、昔は「国民総背番号制」といってずいぶん警戒されましたが、ついに支配層の思惑通り導入されました。果たして何が記録されるのでしょうか。
わたしは後にも先にも1回だけ、住基カードのときに、チップが使われたことがあります。それは沖縄でアメリカ軍基地に、そこで働いていた職員に娯楽の施設を見せてもらったとき、入門ゲートでカードの所持を要求され、リーダーがあり読み取りされました。日本国といいながら国民の基本情報が記録されているカードリーダーがアメリカの基地にあって、それをアメリカの兵隊が自由に見られる。日本国も国民のプライバシーはアメリカに読み取り機械を預けるほど軽いものなのだ、と痛感しました。
このようにいつの時代も国民の生命も個人情報も、支配層から見ると「自由にしてよいもの」としてふるまい、遠慮がちに「見せてもらってもいい?」という態度では絶対ありません。当時の戸籍にしても、現代に遺りますがどれほど庶民を消耗品にするのに都合がよかったか。そして消耗品とされた彼らが異国で見た光景は、想像以上の惨状と交戦の激しさ。相手の国の兵士も日本の兵士も血みどろになっては累々と死体になっていく光景。こんな中で「自分たちは生きて祖国へ帰れないのだ」と悟られて、絶望の中で観念しなければならない。
「糧食は現地調達せよ」。これは質の悪い兵隊たちの横暴の公認につながりました。憲兵は軍人さん兵隊さん方や国民に横暴を働き、その立場を利用してさんざん圧政に手を貸して嫌われていましたが、警察権を持っていました。しかし、戦線が拡大し受け持つ案件は増え、それほど人間もいない。特に内通・スパイ容疑の取り締まりは専任となることから、部隊丸ごとが腐敗しているときに、その腐敗を「軍紀」によって取り締まるような役割まで十分に果たし得ません。道理が通り、任務の遂行(占領地の治安維持)に努力していた部隊があった一方で、横暴に横暴を重ね、現地民の恨みをいっぱい買い込むような部隊もありました。
老人から奪う食糧(昭和12年11月頃、南京追撃戦)民家には住民の残る家もあるが、足腰の立たぬ老人のみ放置して逃げる家族等色々で、老人や病人だけ残る家で「僅かの食糧だ残して置いてくれ」と手を合せて哀願する老人に、「残して置いてやろうや」と言うと、兵は「俺達が残してやっても、後から後から来る兵が持って行くから同じだ」と言い、兵は根こそぎ攫えてゆく。しわだらけで醜い老人が哀れに思えるが、これも戦場の敗残国の掟か。
市街を荒らし廻る日本兵(昭和12年11月25日頃、無錫市)兵達は、此処で当分警備と達せられると、翌日も翌々日も落付いて徴発の名の下に三、四名から数名でグループを組み市街を荒して廻った。
無錫市攻略時における日本軍の蛮行(昭和12年11月25日頃)
食糧は勿論、酒、煙草、貴重品、これ等は兵の一番好む品であり、住民は不在であり、物資は豊富。兵達は思い存分徴発して、色々の物を見せ合っては喜び、御馳そうを作って楽しそうであった。放火して「俺はこれで何軒目焼いた」と言い、「俺はこれで何人目殺した、何人目犯した」と自慢しあい、何処に何がある、何処に女がいると、兵の間には直ぐ伝ってゆく。
日本兵の蛮行が繰り返される上海戦線(昭和12年8月頃)
「何処、其処にこのきれいな娘の写真があったので何処か隠れているかも知れん、探しに行くか」と言う者、「何処にこんな女がいる」と言うと、目の色変えて、二、三人でボソボソ密談していたと思うと、いつの間にか消えて行くグループ。(住民に向かって)四発目を放そうとした石川の腕を押込み、三発射って当らないのだ、もう許してやれと。然し兵達は試し切りや銃殺で支那人を虫ケラの如く殺して楽しんでいるような風情が見られた。
(歩兵第43連隊、陸軍軍曹)
兵達は、飢餓と恐怖に脅える住民から略奪し、或は女を姦し度胸づけや、試し切りで絶えず住民を血祭りにあげ住民達を当然のように簡単に殺してゆく。
攻め込んだ側の日本の軍人さん方兵隊さん方に立ってみます。「戦地で窮乏があっても補給がある、それまでの数日耐え忍ばなければならない」としてそれなりに欠乏をしのぐ術は教育があったと思うけれども、実際に「食料の補給はいつになるのかわからない、来ないかもしれない」ということは生死に直接つながり、絶望・動揺は相当だったでしょう。最初は出征する軍人さん方兵隊さん方皆に「五族協和」なんて夢を見せられ、現地に着いてみると略奪が正当化され、やがてタガがはずれて殺人・強姦と凶暴さを増していく。現地の人たちの憎しみを一身に受けながら、自分もいつ殺されるかわからない。食べるものすらろくにない中で、人間が獣にさせられていく。
庶民は食わずに戦うことを強要され、挙句「徴発」というお墨付きを得た
攻め込んだ日本人も攻め込まれた周辺国の軍人さん方兵隊さん方も、何のために戦っているのか分からなくなりながら、自分の生命を護るために、相手の生命をむしりとることを強要し、強要されました。絶望の中開き直るしかない。「徴発」が許されている。食料の略奪にはじまり、財産の略奪、挙句女性の尊厳の略奪、人命の略奪にまで平気で繰り返すやけっぱちの日本の兵隊たち。それもこれもみな、皇統に、裕仁に、普通の「社会人」の立場をはく奪されて、「父親」でもなくなり、「人間」でなくなる道をつけられたことに端を発するのです。異国の人に恨まれながら殺される。当然その地で弔ってくれる者はいない。友軍、戦友すら自分の敗退に必死で、弔いなんてしている余裕がない。彼らの生命の炎が消え、「何のために生きてきたのか」とご戦歿のあとどれほど苦しまれるでしょうか。
そればかりではありません。それがその土地の「怨恨」として語り継がれていくのです。なんとか戦火を逃れても蝗のように食糧を奪いつくしていき、抵抗して多くの国民が殺戮されたのだ、這う這うの体で戦火から逃げ切っても、手持ちのわずかの食すら奪われて生きながらえることもできなかった。それが「反日」の意識となり、それはその国の為政者にとっても格好の国まとめる手段にも利用されながら、立場の弱くなった日本の外交にくびきとなって影を落とし続けるのです。
自分たちがこれほどの理不尽を、苦痛、屈辱をどうして受けなければならないのか、特に攻め込まれた側の「恨み」は当然です。
そしてスメラミコトの「聖戦」とやらで攻め込むことを強要された、日本の庶民もただでは済まない。陸軍の軍人さん方兵隊さん方の死因の4割が餓死であるという惨状。国民皆から巨額の金を貢いでもらっていながら、「戦争によって社会矛盾を解決する」なんて安易な方法しか浮かばない/裁可した無能な為政者。これだけ国民を殺した実績をもつ皇統に、そもそも国民に養ってもらうだけの価値は到底ありません。戦争を起こし、終戦となっても恨みや憎しみはずっと続いていく。元の状態に戻るためには大きなマイナスから始めなければならない「国難」も招来させたのですから。
生きて還ることが許されない戦いの果てに
受難の兵役年齢 ―― 裕仁の治世にめぐり合わせたばかりに殺された、多くの大正生まれの若者たち
開戦前後の年齢階級別男子人口(単位:千人) 年齢階級
(満年齢区分)1930年
(昭和5年)1935年
(昭和10年)1940年
(昭和15年)年齢階級
(数え年区分)1944年
(昭和19年)1945年
(昭和20年)1946年
(昭和21年)総数 32,390 34,734 35,387 総数 34,625 33,894 34,905 0 〜 4 歳 4,543 4,714 4,623 1 〜 5 歳 4,417 4,683 3,976 5 〜 9 歳 3,915 4,303 4,466 6 〜 10 歳 4,453 4,339 4,415 10 〜 14 歳 3,437 3,877 4,244 11 〜 15 歳 4,388 4,366 4,386 15 〜 19 歳 3,319 3,351 3,671 16 〜 20 歳 3,836 3,849 3,977 20 〜 24 歳 2,815 3,037 2,300 21 〜 25 歳 1,778 2,024 2,791 25 〜 29 歳 2,481 2,670 2,579 26 〜 30 歳 1,828 1,604 1,811 30 〜 34 歳 2,175 2,379 2,445 31 〜 35 歳 2,042 1,806 1,990 35 〜 39 歳 1,857 2,093 2,241 36 〜 40 歳 2,177 1,983 2,093 40 〜 44 歳 1,688 1,768 1,969 41 〜 45 歳 2,138 2,047 2,026 45 〜 49 歳 1,525 1,591 1,645 46 〜 50 歳 1,863 1,830 1,899 50 〜 54 歳 1,411 1,404 1,454 51 〜 55 歳 1,533 1,506 1,575 55 〜 59 歳 1,086 1,255 1,240 56 〜 60 歳 1,326 1,290 1,300 60 〜 64 歳 820 917 1,049 61 〜 65 歳 1,096 1,005 1,023 65 〜 69 歳 577 630 703 66 〜 70 歳 843 775 790 70 〜 74 歳 404 394 421 71 〜 75 歳 500 463 509 75 〜 79 歳 222 225 216 76 〜 80 歳 265 215 222 80 〜 84 歳 89 95 91 81 〜 85 歳 141 84 93 85 歳 以上 26 30 31 86 歳 以上 26 28
20歳から35歳までの男子人口が激減していることがわかります。最初にご提示した、0歳から4歳までの人口が、20歳になるまでも何十万人も減っているのに、裕仁の「宣戦布告」という、適齢期の男子にとっては「戦死命令」で、これだけ多くが殺されたのです。病気や障害を負ってお生まれになった方々は肩身の狭い思いをされ、むりやり日本人に編入された方々は差別に苦しめられました。統計上「日本の人口」ということなので、占領地を含むかどうかまで明記されていませんが、これだけ減っているということ、そして統計からこぼれ落ちた方々も多くいらっしゃることは想像に難くありません。世の中生まれた子供に「お前の名前は無いんだよ」と生まれてきた子供はどこにもいないのに、そして戸籍や役場、特高警察、ありとあらゆる手段や強権力を駆使してむりやり軍服を着せておきながら、死んだら「無名戦士の墓」なんてありえないものを作るぐらいの国なのですから。
日本の兵隊さん方も、いや、この国が敵にした国にお生まれになられた方々も、本来、それぞれが自分の社会の枠組みの中で生き、人生の華をさかせるはずだったのです。苦しくつらい、そして何のために生まれてきたのか判らないような捨て鉢の人生の終わり方をする必要はなかった。戦争をせずにいかに国民の生活を護っていくかすら解決できなかった、しかも少なくとも400万人もの、現在の国民からしたら先祖を殺し尽くした皇統なのに、どうして恥も外聞もなく未だ君臨し、国民もなんら疑問も抱かずに推し頂き続けるのか。ただただ薩長が国を支配したい思惑のために担ぎ出されてきたに過ぎない存在でしかないではないか、と思うのです。
戦争のたびに志願されたにせよ、徴兵で無理やり兵士にさせられたにせよ、国民という「民草」は、藁束のごとく無造作に摑まれては、燃え盛る戦火に「これでもか、これでもか」と、裕仁と付き従う者たちに放り込まれては灰にされを繰り返され、そのたびに何の罪科もない国民が、人間らしい生活も人生の素晴らしさも全て奪われ、苦しみながら霊にされていったのです。
遂には特別攻撃を「よくやった」などとのたまう皇統。スメラミコトといえどたかが人間。そんな人間ごときが人様に、それも自分を養ってくださる国民に対して「死にに行け」と言うなんて、どれほどの傲慢で、してもいいこと、悪いことの物事の善悪すらわからないようなクズでしょうか。
軍人さん方兵隊さん方のご戦歿後の流れ(金饅頭様のTweet)
軍人さん方兵隊さん方のご戦歿後の流れ(金饅頭様のTweet)
自分は絶対に死地へ赴くことのないからこその脳天気さ。平民との接点がなく気位だけが高い無慈悲さ。両方を最大限に発揮して、国民がどれだけ死のうが、どれほど苦しい死に方だろうがお構いなしに、「皇統が治める国のかたち」を維持するために下敷きにされ、次々と殺されていったのです。
悲しみや苦しみを押し殺して、玄関を出た息子さんや旦那さんは、戦争を決めるようなクズが時代を支配していたばかりに、変わり果てた姿になられました。ご遺骨すら拾ってもらえずに、名前の紙片や石ころが入った白木の箱で無言の帰宅をする。それも数百万人。
白木の箱を抱えた将兵が整列する画像は、昭和12年日中戦争以降の仙台の第二師団の合同慰霊祭です(こちらに説明があります)。221名もの兵士が人間としての姿を失い、霊としてでなければ故郷に帰ることがかなわなかった方々です。
ご戦歿者がどんどん増えていくのに歩調をあわせて庶民が窮乏し、生きていくのにやっとになると、ご戦歿された方々のお迎えすら精神的にも経済的にも苦しくなりました。儀礼もだんだん形だけになって、やがては「節制・簡素化」の名のもと廃止されて、ご戦歿なさった方々やご遺族に気を配ることすらできなくなっていきます。
そうして戦争を遂行する人間の思惑のままに生命をもてあそばれた結果、小さな白木の箱に納まるほどの変わり果てた姿となって、お母さんに、奥様に「大事な人が生きては還ってこないということ」を否応なく突きつけたのです。
それぞれの箱に納められた魂にどれほどたくさんの人たちが ―― 特にお母さんが、奥様が、自分の子供や夫の生きた姿を目にすることが不可能となったことに、どれほどつらく悲しく思われたか、察するに余りあります。
謝辞
このページの「ご戦歿された兵士の帰還」の画像は、せんだいメディアテークに申請し、掲示のご許可をいただきました。