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人を殺す、ということ

『関大尉を知っていますか』という著作

一瞬切り取られた特別攻撃隊の隊員さん方のシーンの先が気になる

ご戦歿された関行男海軍中佐について思うとき、『永遠の0』でも最後の最期で突入するときの表情で切り取られ、エンドスクロールが流れます。果たしてこの後、すなわち霊になられてからどうなられたのだろうか、と言うことのほうが、特別攻撃の組織だったことや兵器などよりもわたしにとっては関心事でした。

様々な特別攻撃に関する本がありますが、その中で関行男海軍中佐死後のことを書いてあるものがあり(それもタイトルに騙されて手にしたわけですが)、ご紹介してみます。わたしも関行男海軍中佐が死後どうなさっているのか、ということが関心事でしたから、どんなことが書いてあるのかと期待して読んでみたのですが、もう、言葉になりません。

『関大尉を知っていますか』

著者は南アフリカの人(カナダ人?)。神様の夢を見て、関行男海軍中佐が枕元に立ち、特別攻撃による夢を繰り返し見た、特別攻撃による戦死を体験したというのです。プロローグの末尾にこのように記してあります。

ともあれ、私の夢はそれ以後もずっとつづいた。夢は鮮明で輝きを持っており、細かいところまではっきりしていて、体感や感情の動きまでともなったものであった。私は何度となく、涙にくれた。

ジャネット妙禅デルポート 『関大尉を知っていますか』, 光人社, 1997

科学的に眠りには浅い眠りと深い眠りがあり、夢を見るのは浅い眠りのときだといいます。そして、何度も交互にやってくる浅い眠りがくるたびに、前の浅い眠りの時の夢の内容は上書きされ、次第にぼんやりとして、目覚めるとしばらくしてほとんどかき消されてしまうのが一般的ではないでしょうか。

眠っている時間のうち、夢を見る時間は限られている。毎晩のように関行男海軍中佐が夢に出てこられ、「今日はここまで」と区切り、翌日は「今日はここから」とならなければ、1冊のハードカバーにするぐらいの量、書けるわけがないと思うのです。しかも著者は夢の中の「細かいところまではっきり覚えている」、というのです。霊は夢でどのように姿を見せられるのだろうか、と考えたとき、杉浦茂峰海軍少尉のことを思い出しました。

終戦を迎えると、日本は台湾の領有権を放棄し、中華民国の国民党政府が新しい統治者となった。そして、ある時期、不思議な現象が起きた。同じ内容の夢を見たという住民が複数、顕れたのである。その夢とは白い帽子と服を着た若い兵士が枕元に立っているという内容だった。また、この一帯には養魚池がたくさんあるが、その傍らに海軍の夏服らしきものを着た白装束の青年が夜な夜な立っているという現象も起きていた。

人々はこれを名刹めいさつ朝皇宮の保生大帝に伺いを立てた。保生大帝は台湾で広く信仰の対象となっている存在で、「医学の神」と称される。あらゆる病を治癒する力を持つとしてあがめられている。

ここで人々は「その人物はこの地で命を落とした兵士である」という回答を得た。そして、人々はその兵士とは集落に墜落することを回避し、絶命した杉浦氏に違いないと判断した。すでに終戦から20年以上という歳月を経ていたが、杉浦氏の悲劇は静かに語り継がれていたのである。

1971年、人々は4坪ほどの小さな祠を建てた。その後、この地域には平穏な日々が続いた。人々はこれを集落のために自らの命を捧げた杉浦氏の遺徳と考えたという。

杉浦茂峰海軍少尉は台南で「飛虎将軍」(「将軍」は敬称)として厚く祀られ、水戸市那珂市のページにも掲載されています(すごいですね)。わたしもぜひぜひお参りに行きたくて台南へ行きました。

余談ですが、上の引用だと日本人超歓迎!!という記事に読めますが、行ってみると記事は盛りすぎで、一般人だと日本人だからといって特に相手されません(留守番らしき老人がいるだけ)。「歓迎」は相手が取材だったり公式機関のときだけだろうと思われます。普通に中華寺院で拝観するのと変わりません。しかしながら「日本人が中華の様式で祀られている」というのは稀有なこと、ご機会があればご参拝に行って差し上げていただきたい、と思います。

閑話休題で、この引用でもわかるように、霊となられた方々は、全く関係のないような人に対して顕れられたりはしない、ということ。杉浦茂峰海軍少尉の場合は台南でお亡くなりになった土地に顕れられ、しかも当時捜索をしたら履いていらっしゃった飛行靴が出てきて、「杉浦」と記名されていたことから「彼である」と断定するに至った、という経緯があります。

「大東亜戦争秘録 鎮魂の旅」(早坂隆著 中央公論社刊)に収載されている美談である。第六十五話でも取り上げた台湾沖航空戦(1944年10 月12日~15日)で撃墜された日本海軍飛行兵曹長(戦死後少尉)が村を救ったとして祀られているのである。日本軍兵士が外地で祀られている唯一の例である。

村への墜落回避行動を住民目撃、そして感謝

杉浦兵曹長は、来襲する多数の敵機を迎撃すべく発進、壮絶な空中戦が展開された。杉浦の搭乗した零戦も被弾、尾翼から火を噴き、みるみる高度を失ったと目撃者は語る。落下する機体は「海尾寮」という名の大きな集落に向かっていた。その光景に現地の人々は「村が大変なことになる」と瞬時に想ったという。杉浦は落下傘で緊急脱出できるタイミングだったが、彼は村への墜落を回避すべく、愛機を懸命にコントロールしようとした。

程無くして、村人は感嘆の声を挙げた。戦闘機の軌道が明らかに変化したことに気付いた。辛うじて機種を上げ、体勢を僅かに立て直した機は、そのまま村の東側を通過して郊外の畑地の方角へと蛇行しながら飛び去った。此処において杉浦は漸く脱出、落下傘を開いた。その直後機体は空中で爆発した。

間一髪で脱出に成功した杉浦だが、彼の背後に肉薄したグラマンが猛烈な機銃掃射を加えた。彼は地面に叩きつけられ、絶命した。「養殖池の近くでした。彼の身体は、仰向けになって倒れていました。両手両足を広げて、まるで漢字の「大」の字のようでした。」と語 る。名前は、「杉浦」と飛行靴で知れるのみであった。

戦後、村人の間で不思議な夢を見たという噂が流布し、“白い服を着た日本の若い軍人が枕元に立ったのは、杉浦であろう”とされ、地域の守り神にお伺いを立てたところ、彼を祀る祠を立てるべしとの御託宣があり、祠建立となったのである。

まず、「日本軍兵士が外地で祀られている唯一の例」とあるのは持ち上げすぎで、関行男海軍中佐はじめとする特別攻撃隊のご慰霊碑は台湾同様現地の方々がマバラカットに建立されていますし(書籍の紹介はこちら)、政府もシベリアや南洋諸島など各地にご慰霊碑を建てています。よい機会なのでご紹介します。2000年以降、太平洋の区域では慰霊碑すら建てられていないのですよね。国の方針、スメラミコトの宣戦で、あれだけの広範囲の地域・海域で殺されているのに。これで完了した?ということでしょうか。そしてまさか建てっぱなしでしょうか。それに、日清日露戦役は対象外でしょうか。

国に引っ立てて行かれ異国で苦しく亡くなられた代償は、ちっぽけなご慰霊碑しかないのか

戦没者慰霊碑建立状況
慰霊碑の名称建立地建立年月
硫黄島戦没者の碑東京都小笠原村硫黄島1971年 3月
比島戦没者の碑フィリピン共和国ラグナ州カリラヤ1973年 3月
中部太平洋戦没者の碑アメリカ合衆国(自治領)北マリアナ諸島サイパン島マッピ1974年 3月
南太平洋戦没者の碑パプアニューギニア独立国東ニューブリテン州ラバウル市1980年 9月
ビルマ平和記念碑ミャンマー連邦共和国ヤンゴン市1981年 3月
ニューギニア戦没者の碑パプアニューギニア独立国東セピック州ウエワク市1981年 9月
ボルネオ戦没者の碑マレーシア ラブアン市1982年 9月
東太平洋戦没者の碑マーシャル諸島共和国マジュロ島マジュロ1984年 3月
西太平洋戦没者の碑パラオ共和国ペリリュー州ペリリュー島1985年 3月
北太平洋戦没者の碑アメリカ合衆国アラスカ州アッツ島(アリューシャン列島)1987年 7月
第二次世界大戦慰霊碑インドネシア共和国パプア州ビアク島パライ1994年 3月
インド平和記念碑インド共和国マニプール州インパール市ロクパチン1994年 3月
日本人死亡者慰霊碑ロシア連邦ハバロフスク地方ハバロフスク市1995年 7月
樺太・千島戦没者慰霊碑ロシア連邦サハリン州(樺太)スミルヌイフ1996年 11月
日本人死亡者慰霊碑モンゴル国ウランバートル市2001年 10月
厚生労働省 戦没者慰霊事業の実施(式典、遺骨収集等)
ソ連抑留中死亡者の小規模慰霊碑建立状況
地域建立地竣工年月
タタールスタン共和国ロシア連邦タタールスタン共和国エラブガ市2000年 9月
クラスノヤルスク地方ロシア連邦クラスノヤルスク地方クラスノヤルスク市2000年 9月
ハカシア共和国ロシア連邦ハカシア共和国チェルノゴルスク市2001年 9月
スベルドロフスク州ロシア連邦スベルドロフスク州ニージニタギール市2001年 9月
ウズベキスタン共和国ウズベキスタン共和国タシケント市2003年 9月
ケメロボ州ロシア連邦ケメロボ州ケメロボ市2006年 10月
ノボシビルスク州ロシア連邦ノボシビルスク州ノボシビルスク市2007年 12月
アルタイ地方ロシア連邦アルタイ地方ビースク市2007年 12月
オレンブルグ州ロシア連邦オレンブルグ州オレンブルグ市2008年 9月
ジョージアジョージア トビリシ市2010年 3月
沿海地方ロシア連邦沿海地方アルチョム市2010年 11月
アムール州ロシア連邦アムール州ベロゴルスク地区ワシリエフカ村2012年 11月
ザバイカル地方ロシア連邦ザバイカル地方チタ市2013年 7月
タンボフ州ロシア連邦タンボフ州ノーヴァヤ・リャダ町2017年 3月
イルクーツク州ロシア連邦イルクーツク州イルクーツク市2017年 8月
カザフスタン共和国カザフスタン共和国アスタナ市2023年 3月
戦没者慰霊事業の実施(式典、遺骨収集等), 厚生労働省

そしてこれらの方々が、行くこともなかった南アフリカやカナダに霊として突然顕れるなんて考えられないでしょう。そして霊が夢に出てくることはいろいろな伝承で語られますが、多くは人に語らず、何らかの現世に思いや気がかりのほんのひとかけらを告げる程度。

それを人間に叶えてほしい、あるいは解決してほしいと願っていても、饒舌には語れない。ただ、察してもらいたい、自分を弔ってほしいと、姿を見せる、一瞬ふわっと夢に出られる。よほどであれば、ゆかりの事物を見せたりや場所へ連れて行き、供養を求める、というのが一般的であるように思います。

これは日本のスタイルかと思いきや、台湾の人たちにもそのように顕れられたのですから、霊と人間が交わるときの普遍的な様式のようなものかもしれません。そして、これを契機として気が付いた人間が調べてくれるのを期待し、その道筋(杉浦茂峰海軍少尉の場合は神託を通して、ようやく日本の軍人であるとわかった)をつけられると思うのです。

杉浦茂峰海軍少尉の場合では、ご自身の生きていた証拠である飛行靴を「現物」として見せたのは、相手が日本人ではないし、時代も下っていて、信じてもらうこと、供養していただくことがそれだけ切実だったように思います。

ところが、本書に出てくる中佐さんは饒舌で、人生全てを語るのです。しかしわたしが期待した「本人しか知らないこと」「霊でないと言えないようなこと」は一切なく、よく知られた内容を超える記述は一切ありません。

そしてなにより、この本に出てくる中佐さんは既知の事実に対して話される内容もありきたりで、第三者が見てこんなことがあったらこう思うだろうな、と思える範囲の心情の記述しかなく、激しい怒りや悲しみがあって当然なのに記述が平凡で薄っぺらいのです。

「果たして本当に関行男海軍中佐であれば、わざわざ出てこられてまで、こんなつまらない心情を話されたのだろうか」と一度疑問がわくと、疑問符がどんどん湧き始めて止まらない。

この本を真実として読まれる方を否定はしないし、なにより著者がそうだと言っているのだけれど、大前提としてこんなに遠くの、関行男海軍中佐ご自身が関与もしない異国の人に、わざわざ自分の人生を語りに出てこられるのだろうか、という感想しかありませんでした。

本書の冒頭に著者が「仏門に入った」こと、そして神仏と一緒に関行男海軍中佐が顕れたふうなことを述べることは、事実も混ぜ合わせることで信憑性があるように見せかけるための仕掛けであると思うし、「関行男は語る」と書き出された本文の内容は、一般的に伝えられた関行男海軍中佐についての事柄と奇妙なほど一致していて、そこから外れた「こぼれ話」や何より「これまで伝えられていることを根底から覆すような事物や心情の描写」がほとんどない。第一に、その「語り」とされたことに、生活感や生々しさがないのです。

10月25日の朝、私は今日が最期の日だとわかった。他の者も同じだったろう。この日が最期と意識した時はほっとした気持ちだった。この4日間という時間は私に自分自身を理解させてくれるためにあったように思う。

ジャネット妙禅デルポート 『関大尉を知っていますか』, 光人社, 1997

この引用は、関行男海軍中佐が敷島隊隊長としてご出撃されて、天候や敵艦艇見当たらずで帰投された4日間について当書の中佐さんが述べた内容ですが、「この4日間という時間は私に自分自身を理解させてくれるためにあったように思う」、とえらく悟られたようなことを語られる。何度も出撃に行き戻られる苦しさも語られずに、果たしてこんなあっさりとした月並みなお気持ちでおられただろうか

報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(軍人達の言葉で「妻」)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。

これと照らし合わしてみても、いろいろと思案に思案を重ね、なんとか自分を納得しうる答えを見つけようと、どれほどもがかれたことか、と思うのです。

「奥様を護るのだ」という理由にしても、結局は「特別攻撃を是とする裕仁と腰巾着に殺される、それも死んでこいと言われて命令で殺される。予期もしていなかった台湾、そしてフィリピンへの異動が、その道筋であって、その末には『死』を強要されたということ。

そして優秀であるための努力を積み重ねた自分が、のうのうと生きる裕仁や上官どもに殺されてしまうのだ」、という嘆きすら垣間見えるのに、どうして「ほっとする」なんて言葉が出てこようか。

最後の最後まで気持ちを張り詰め、隊員さん方を引き連れ出撃をする。自分の任務と、奥様やご母堂様の今後、気がかりなことばかり。裕仁のためとかお国のためとかという(上辺だけの薄っぺらい理由で)でくんじゃない、と憚られずにおっしゃるぐらいに葛藤され、激昂もされていらっしゃったのです。

いよいよ死ぬる日、ご母堂様のことも奥様のことも気がかりで仕方ない(けれど表には出せないので苦しい)と思うし、そもそもたった24歳で死にに行かされる若さからの怒りや激情がおありであっても当然でしょう。

なのに、本書の中佐さんは悔しさや悲しみなど一切ない、まるで年老いた僧侶が悟ったかのような内容。果たしてこれはどこの中佐さんが話をしているのだろう、と思うのです。

外国人がなんらかのことで関行男海軍中佐のことを知り、なされたことを尊く思い、一生懸命足跡を調べ、本として出す。それならそのいきさつをそのまま書いて出してもよいと思うのに、わざわざ夢という舞台を使って、「関行男海軍中佐ご本人と語り合った」と書く。

「亡くなられた関行男海軍中佐自らが私にこう語ったんだ」となると、もはや伝記ではありません。「霊言」を売りにした宗教がありましたが、同じ胡散臭さしかないのです。霊がわざわざ外国の人の枕元に立って、夜な夜な夢で自分の人生を語り続け、著者は夢の中のことなのにその語りややりとりを全部覚えている。

果たしてこれは本当なのだろうか、と思うし、夜な夜な語り続けるほどに悔恨があるのであれば、いよいよ自分が殺されてしまう日のこと、「この日が最期と意識した時はほっとした気持ちだった。」なんてどうしておっしゃるでしょうか。

そもそも、本当に関行男海軍中佐がお話になるのであれば、例えば前述の4日間のことで言うと、そんなに簡単な感想で済ませられるはずはないと思います。

わたしも、関行男海軍中佐のご心中や隊員様方の状況、部隊の状況がどうだったか、などいっぱい聞きたいことがあります。そして仮に直接教えていただけたとしても、他言はできません。軽々しく口外すべきではないと思うのです。

この本は私が住んでいる街の図書館にも置いてあり、歴史本に分類されていました。まずタイトルに騙される。

「関大尉を知っていますか」と来ると、伝記だと思うでしょう。伝記のふりをした小説、いや、「夢見」で霊言だから小説でもありません。

目立つため、売るためにこのようなタイトルをつけ、僧侶であることを先に読者に伝え、いかにも真実性があるように書く。仮にタイトルが「関行男海軍中佐のご霊言」とそのものズバリだったら、お客さんは書店で本書を手に取るでしょうか。

そして、書かれていることは「本人から伝えられたこと」のはずなのに、新事実や関行男海軍中佐だけがご存じであろう内容はどこにもない。

「夢で見て、気になって調べ進めていって」本になったと思うけれど、関行男海軍中佐のこと、あまりに有名で方々で語られつくされていて、なかなか新しい事実、新発見というものは出てきにくいと思うのです。

そうすると、既知の事柄だけを書くか、でっちあげるかしかないけれど、さすがに事実と違うことを書くことはできない、忍びない。であれば、と注目を浴びるための切り口として「夢」を舞台設定したのではないか。

すべては関行男海軍中佐のお名前と死を使って有名になりたい、本を売るお商売をしたいがため。後述の『母のいしぶみ』と同じ目的です。

しかも「夢」をベースにすれば、著者は疑い深い人間に対して、それが事実だと証明もできないけれど、読者からしても著者に「これは夢ではないでしょ、創作でしょう」と言ったとしても人が見る夢のこと、実際に全部夢で見たのだ、と強弁されてしまうと反論できない。真実は著者の胸の中だけ。

小説と言い、映画と言いさまざまなところで関行男海軍中佐とご母堂様が取り上げられるけれど、関行男海軍中佐は小説や霊言集の材料にされるためにこんな過酷な人生を送られたわけではないと思うと、いたたまれない気持ちになります。

考察 『母の碑』 ―― こちらは関行男海軍中佐のご母堂様のご生涯が記された著作です。「可能なかぎり事実をふまえているが、虚構をまじえて作品化したことを付記しておきたい」と書かれています。作品化の目的と意味、その「遺したもの」を問います。

玉井がやったこと

玉井は関行男海軍中佐に特別攻撃を強いた男です。戦後、ご母堂様に会っているのです。戦時は関行男海軍中佐をはじめ、多くの若者たちを殺しながらのうのうと生き延び、戦後寺の住職となって人生を終えています。人間が僧侶になって祈る行為自体は「悔恨がある」ということの裏返しですが、霊の立場からみてどうなのかということを考えてみたいと思います。

「自己弁護になりますが、簡単に死ねない運命さだめになっている人間もいます。私は若いころ、空母の艦首に激突しました。ですから散華された部下たちの、張りつめた恐ろしさは、少しはわかるような気がします。せめてお経をあげて部下たちの冥福を祈らせてください。祈っても罪が軽くなるわけじゃありませんが。」

末吉、玉井浅一氏を記す, 愛媛縣護國神社, 2013.2.17

ずいぶんしおらしく書かれているのですが、こういうことも伝わっているのです。

玉井浅一は戦後になって敷島隊が結成されたときの様子を、全員が目を輝かせて挙手をして志願者が集まったと回想していますが、当時の隊員の証言では玉井が「行くのか?行かんのか?」と叫んだためしぶしぶ手を挙げた者が多かったと言われています。

紹介のリンクには敷島隊の隊員さん中野磐雄海軍少尉のことが詳しく書かれていますのでご覧になってみてください。

「目を輝かせて挙手をして」というのであれば、どうして「しぶしぶ」という情景が伝えられるのか。自分の都合のいいように歴史を書き換えようとウソをついても、別のところからははっきりと「死を強要していた」なんて証言まで出てくるのです。

わたしがもし特別攻撃隊の隊員さんの立場だったら(優秀でないから到底無理ですが)、こんな人間の経を聞き、こんな人間の叩く木魚や鐘の音で「幸せだ、成仏できる」なんて到底思えません。

このオッサンの読経を聞くたびに恨みがよみがえってきて、「魂が鎮まる」どころか、余計に怒りが湧いて仕方がないことでしょう。こんな人間が仏門に入ろうが、滝行をしようが、死んでしまった、いや、殺されてしまった方々が「生きたかった人間としての人生」を再び歩むことはできないのです。そして、死を押し付けた張本人が人間としてやることのできるご慰霊など、たかが知れているのです。

子供を一生懸命に生み育てても、何の悪いこともしていない庶民の子息が「特別攻撃」という命令を出されて「死」を強要される。関行男海軍中佐のご母堂様も、ご子息がこれ以上もない熾烈な殺され方をされて、ご主人様もご子息もいらっしゃらない。誰にも助けを求めることもできない女性が、福祉もなにもない厳しい世の中でたった一人、生きていかねばならなかったのです。

それも社会からの言われなき憎悪を一身に受けて、頼る人もなかったご母堂様の人生の事実は厳然と残るのです。

そして、わたしが思うことなのですが、戦後息子に死を強要した張本人が「自己弁護になりますが、簡単に死ねない運命さだめになっている人間もいます。」と平然と言ってのけたとしたら、どれほどご母堂様が悔しいお気持ちになられたか、と思うのです。

玉井は自分が生きるためにさまざまな工作を行い、関行男海軍中佐を圧迫面接で殺す道筋をつけ、その後も継続して特別攻撃と言う生贄を「勝ち戦を要求し続ける裕仁」に差し出すことに加担しました。やったことは、ただただ「生きたかった」と願う若者たちの生命を殺してまで生き延びたということだけなのです。

関行男海軍中佐に死を要求しておきながら、そして、「自分が簡単に死なないように」自分自らが道筋をつけておきながら、ご子息の死に打ちひしがれる関行男海軍中佐のご母堂様に「簡単に死ねない運命さだめになっている人間もいます」と平然と話したとしたら、どれほど無神経でしょうか。果たして人間の言うべきことでしょうか。

人が生きる意味

さらには、空襲で家を焼き出され、お父さんお母さんを戦争で亡くした子供達を思うのです。お腹をすかせてさまよい、大人たちは自分と自分の子供だけで精一杯、愛情も人間らしい扱いも受けられない。大人は野犬を追うように子供達を追いやって孤児院に入れてよしとする。そこではとにかく人数を減らしたいから、ろくな審査もせず里子に出して、子供に血反吐をはくような人生を強いる。こんな冷たい社会、地獄を体現したような社会に裕仁が導いたのです。

人間同士関わりあう中で魂が成長する「この世」に、「運命」があって生まれてきた。動物的には人間が生んだことになっていますが、魂的には違うでしょう。「魂を生み育む」、このような尊いことは到底人間ではできないことだからです。

そしてようやく生まれ、お母さんが苦労して育てられて大きくなった子供達、これから社会にはばたく人間の生命を、赤の他人が刈り、奪い取る。あるいはよそ様の生命を刈れ、奪えと社会を導く。

こと当時、「お前たちは先に行っておれ、我々は後に続くから」などと言って部下を死に追いやった者、人様に死を強要したような者、「国が勝つこと」と「国民くにたみ(軍人さん方兵隊さん方も国民くにたみ)の生命を大事にすること」の優劣すらわからない者。こういったクズばかりが戦争を推し進めていきました。

そして晩年いたたまれなくなって仏門に入ろうが、仮に自殺して責任を取ったことにしようが、そもそも人様の生命に手を掛けたという事実は取り返しもできないし、帳消しも免罪もできない。人間の人生みなみな自分ひとりのものではないのです。周りの人、社会と影響し合って生きる運命に置かれて生涯を送っていたのですから、そのいのちを奪われた人様に関係する/したはずの相手の分すべてにまで責任を負わねばならないのです。

ひとりひとりのご家族の人生も狂わせ、社会の一隅を照らす尊い魂を霊にするということ。「一隅を照らす」という言葉がありますが、それぞれの人間が社会の働き手となるとき、その仕事を通して辛く苦しい地上世界、それぞれのいのちの輝きによって照らし、照らされるはずだった、家族の暮らしや社会の輝き。

戦争を裁可した皇統、またそれを助長した周りの人間やそれにおもねる者らが償わなければならないのは「その人の送るはずの人生」分だけではないし、当然のことながら多大な利息をつけて償わなければならないのです。

人ひとり殺しても大変なことなのです。ただただ大昔の僧侶が書いた経を読む程度のこと、祝詞を奏上する程度で、その人の人生が回復するようであったらなにも苦労しません。何より、仮に人生が回復してその人が蘇生なんてすることがあったとしても、「当時」という舞台装置も、そこにあった人間関係も過去のこと。歩まれるはずだった人生舞台をもう一度仕立て上げることはできないのです。

「死んでも生きている」ことで起こること

そして死ぬときがやってくる。さあ、死んでしまった。人間が決めた地位は何の役にも立ちません。天皇だの皇族だの大将だの国会議員だの総理大臣だの、すべて人間がこしらえた立場にすぎないこと、単に肩書きであったことを思い知らされる。

特に傲慢にふるまった人間、睦仁だろうが裕仁だろうが、皇統ほどただただ人間が決めた地位に安住しているだけであったのを思い知らされる。

人間に仏様神様が授けられた「良心」という判断基準。無茶をすると心が痛む。私利私欲に生きるか、利他心で生きるか、良心に従った生涯だったかどうかをじっとみていらっしゃる。皇統ほどその「良心」がないことをつきつけられる。いついかなるときも国民の上前をはね続け、過分すぎるほどの「贅沢に溺れた」生活。さらには戦後「統治」の義務もなくなって「置物」に血税が注ぎ込まれ、それを拒絶するそぶりもない。

いくら天照の神様に対していくら祭祀をしていても、時間を割いて費用をかけ、苦労して乗り換え、乗り換え列車に揺られてやってくる庶民たちと、勘定は国民の血税任せで特別列車、庶民を押しのけて悠々とやってくる人間と、仏様神様はどちらに温情を掛けられるでしょうか。

もし皇統のほうを優先なさるようであれば、そもそも神様ではない。なぜなら「皇統」という立場は人間が決めたものであり、「スメラギイヤサカ」という判断基準そのものが人間の価値判断なのです。神様がそもそも人間が決めた地位や身分、評価判断で惑わされて、相手の魂を見定められることがあろうか、と思うのです。

たかが人間ごときが、人間が上下を決めて漫然と上に腰を下ろし、ただただ下々が殺されていくのを傍観するだけ。下々は飢えと孤独、悲しみにがんじがらめになりながら路頭に迷っているのに無視を決め込むどころか、もっともっとと苦しみに追い込んでいく。睦仁や裕仁と言った国民を虐殺したような先祖がおりながら、後世続く皇統そのものがその地位に疑問を抱かず、甘んじて存在し続けること自体の罪の大きさは、計り知れることでは到底ありません。

たとえ戦後のうのうと生きて天寿を全うして逃げ切ったような気でいても、死んだら同じところに行く。人間がこしらえた、テンノーだの、大将だのそんな地位も名誉もすべて意味をなさない、「箔」はきれいに剝がされて、言うなれば生まれたての人間のような状態となって、それまでの人生を振り返り振り返り、生涯なしたことを自問自答しなければならない世界へです。

人間は永遠に生きる。霊として。自分が殺した人間が先に霊界に待ち構えている。苦しく死なざるを得なかった方々には仏様神様がついてくださる、味方になってくださるのです。そういう彼らがたくさんいる世界に、自分を散々苦しむような道をひいた人間がいよいよ霊となってやってきた。さあ、どうなることでしょうか。「こいつが俺を殺したんだ!」と大挙して押し寄せてくる。どれほど恐ろしいことでしょうか。

人間的な利欲で見て見ぬふりをすれば心が痛む。そこで人間らしい「思いやり」を発揮して明朗に生きる選択をするのか、「自分が満足して生きられればそれでいい」と刹那的に生きるのか。それが試されていたというのに。

裕仁、皇統が関行男海軍中佐につきつけたこと

こうした理不尽の極みを、この国は、皇統の支配する政府・軍隊は、すべての軍人さん方兵隊さん方ひとりひとりにつきつけたのです。

関行男海軍中佐が、先に霊となられて地上を眺められたとき、一番に気になられたのはご母堂様のことでしょう。極限までの貧しく苦しい生活であるうえに、西条の人たちから石礫いしつぶてを投げつけられる様子をご覧になられて、どれほどお悔しかったか、お苦しかったか。

母に恥をかかせないように、立派に生きたと胸を張って言えるようにと、立派に軍人としての職責を果たされた。「死んでこい」なんて無茶苦茶な命令を飲み込み、死を受け入れ、隊員様方を引き連れて作戦を成功に導かれた。

それなのに、それなのに国も海軍も、最低限の住む場所、食べるものに困らない程度の最低限の生活すら母に与えなかった。裏切られた、と。

この辛さを、この国の、皇統の支配する政府・軍隊はすべての軍人さん方兵隊さん方につきつけたのです。

同じ日本と言う国に生き、同じ人間でありながら、かたや生命は固く護られ、かたやその捨て石に等しいことを、あたかも「大義名分」があるような体裁で一方的に押し付ける。これのどこに正義があるのでしょうか。

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